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消えた友人

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 時政さんと重なった静かな低音。背筋の粟立つ感覚に、おそるおそると振り返る。そこには──表情を完全に殺しきった我がクラスの担当教諭、島が立っていた。
 知らない、と──彼を見て僕は再び思った。こんな目した先生は、知らない。
 島先生は誰に対しても一線を引いた距離感を保つ人だったけれど、それでも生徒に対する責任と愛情は感じられたし、生徒にじゃれつかれたならば程々に構って遊んでくれる人だった。決して冷たい人ではない──そう、思っていた。


「島君──」


 島の上司であった男が茫然と島を見つめる。島もまた、幽鬼然と男を見る。


「メイは俺の姪だった。兄さんの子でな、まだ五歳だった。兄夫婦と一緒に年明けにうちに帰省してたんだ」


 抑揚のない声だ。抑えて、抑えて、洩れ出ないように殺して────そうしていつか凶器になるまで凝固した、怨み。


「やぁっと出てきなすったか。いつまで隠れてんのかと思ったぜ。ああ、ここからは自分で話すか?」

「……いや、いい。続けてくれ」

「じゃ、遠慮なく」


 まるで驚いた様子のない時政さんと島先生に、本当に接点が有るのだと不思議に思う。いつ──どうやって時政さんは島先生のことを、そして島命のことを知ったのだろう。


「この辺は後で本人に聞くとして──何らかの方法で島命の事故の真相を知った島は、まず貴方への復讐を考えた。が、証拠がない。その上、姪の命を奪った男は皮肉にも人望も厚かった。──ならば、他の事件を起こせば良い。そうすれば、芋づる式に島命の件も露見するだろう──そこで、島が目を付けたのが『子供の噂』だった。アンタの悪癖を知っていた島は、子供が捕まれば無事では済まないだろう事も計算に入れていた。ま、この辺りは賭けだったんだろうがな。そして奸計は見事に成功。教頭は思惑通り生徒を暴行した」


 信じられない気持ちで島先生を見る。生徒がどんな馬鹿をしたって、叱りながらも兄のように泰然とした態度で見守ってくれていた島先生が、裏では生徒をデコイとして扱っていただなんて。
 ショックが大きすぎる。もう、どこに誰の謀略が張られているのかわからない。裏の読み合いと貶め合いが、こんなにも身近に起きていた事実にゾッとする。


「しかし、ここで島は手痛いミスを犯してしまった。──撮りそびれたんだよ、現場を。佐竹のように、携帯電話とは別媒体の録画機材を持ち歩いておけば良かったのになぁ? さて、失敗に気付いた島はその日はあっさりと帰ってしまう。被害者は以前に人望厚い教頭先生を目の敵にしていた──ま、素行不良の生徒達だ。下手にこの男が正当防衛を訴えたなら、島の口頭証言だけでは真実は歪む可能性がある。勝負に出るには手札が弱すぎるってわけだ。するとどうだ。翌日、昨日の生徒達が失踪したというじゃないか。まさか隠したのか? 暴行に誘拐、監禁ときたら、これはもう裁判への格好の餌になる」


 誰も言葉を発さない。飄々と語る時政さんの声に、身振りに、全てに意識ごと呑まれていた。謎解きに入った事件現場は──探偵の独擅場だ。


「だが証拠たる生徒達は見付からない。──そりゃあそうだ、グラウンド倉庫の鍵もアンタ持ちだもんなあ? すると、焦った島の耳にこんな会話が聞こえてきた」


 ゆらりと探偵の首が振られる。──あ、僕を見た。
 そしてまた、ゆらり。島へと瞳の見えない視線が流れていく。


「俺、今日学校に忍び込むんだー。わー佐竹スゲー。……そりゃ、同じ教室内なんだから聞こえるよな。倉橋クンいわく声のでけぇ連中だそうですし。──これまたチャンスだと思った島は、わざとその話を教頭へと流す。まったく、うちのクラスのバカが今日、夜に学校に忍び込むなんて言い出したんですよ。困りますよね。────『佐竹』って生徒なんですけど。こんな感じか?」


 首を傾げつつ笑う時政さんの目線の先に立つ島は、探偵に核心を突かれてなお無表情だった。世界ごと切り取ったみたいに、悲劇と喜劇の境界が彼等の間にはあった。
 あくまでも傍観に徹する姿勢の島に、大袈裟に肩を竦めて時政さんは続ける。


「当然、それを聞いた教頭は学校へと向かうだろう。追って、島も学校に忍び込んだ。今度は撮影道具もしっかり持ってな。すると、まったく想定外の出来事が起きた。決定的証拠を録る前に──なんと佐竹が消えてしまったじゃないか! ……と、ここからはもう予想が付くよな。どちらも慌てて佐竹を捜して、結局見付からなくて今に至る、と。──どうだ?」

「──完敗だよ」


 島が歪に嗤う。彼の背後に広がる暗闇は、窓辺から細々とした月明かりを受ける時政さんとは真逆に、今にも島を呑み込まんと待ち構えているかのようだった。校舎が胃袋を開いて島を食べてしまうのだと思った。


「どうしても許せなかったんだ。メイはたった五歳で苦しみながら死んだというのに、なぜ殺したこいつがのうのうと笑って生きている? ──ふざけるなッ!! たとえ法が裁かなくとも、俺は許さない。絶対に裁きを下してやる……! メイの無念は俺が晴らす──!!」


 島の目はどこか焦点が合っていなかった。ただ、怒りだ。ひたすら純度の高い怒りで犯人を射殺す。凶器の形に尖らせた殺意で犯人の絶命を祈る。願う。呪う。
 事情を聞いてしまえば、成程、島に同情の余地はある。だけど──そのために佐竹を利用するなんて!


「それで、罪のない生徒を犠牲にしたのか?」

「犠牲? 誰も死んじゃいないだろう。メイは……メイはもっと苦しかった……メイが、あんなに小さな女の子が、この男の所為でたった独りで死んだんだッ──!!」


「────テメェがメイを語んなッ!!」


 ここまで怖いくらいに冷静だった時政さんが、突如、声を張り上げた。濁流がごとき感情を身勝手な大人達へと叩き付けた。


「テメェが一番メイを悲しませてるくせに、知ったような口を利くな」

「な、ぁ──それは、こっちのセリフだ! お前なんかにあの子の何が、」

「────泣いてたぞ。お前の言う小さな女の子は。やめて、もうやめて──て。テメェのエゴで語る口もねぇ死者に責任なすり付けてんじゃねぇよ……!」


 どこまでも冷たいのに零度を超えていっそ火傷してしまいそうな程の怒り。それが今、時政さんを動かしていた。
 胸を抑える。彼の言葉が──異常なくらい、刺さる。刺さる。自分でも知らない心の奥深くまで、刺さる。


「死者の代弁者を気取りたけりゃ、相応の覚悟と相応の知識と相応の代償を払うんだな。そうして漸くスタート地点だ。テメェのそれは、メイの名前を借りただけの五才児にも劣る駄々だよ」

「────」


 嗚呼──思う。この人は見ず知らずの少女の為に、本気で怒っているのだと。
 もう泣けない、死者の為に。


「──、がう」

「……教頭、先生?」

「ちがう────ちがう」


 ぽつんと。呟きが落ちた。時政さんも島先生も、口論を切り上げて声の先を見た。最早逃げ場など存在しない彼は──虚ろに咆哮した。


「ちがう──ちがう、ちがうちがう! 待ってくれ、違うんだ! 話を、話を聞いてくれ! 俺は──私はそんなつもりじゃなかった! ただ、腕が──肘が、偶々当たってしまっただけなんだよ! ほら、島君、覚えているだろう? 忘年会の日だった。あの日は酷い嵐だったじゃないか! 足場も悪くて──私は、前がよく見えなかった。あんなところに子供が────そうだ、そもそもあんな時間に子供がいるのが悪いんじゃないか────あれは、事故だ!!」

「ッひ、い」


 時政さんの怒りに触発されるように、哀れな老人が取り乱す。混乱を極めた室内に腰が抜ける。咄嗟に机へ腕を伸ばすも、指が引っ掛けたのは逆さにして机上に整理された椅子の方で、大きな音を立てて椅子が僕の傍に転がり落ちる。──音につられた獣の目が、僕を捕える。


「……なんだ、その目は。なんだ、なんなんだ──もう終わりだってのか? 倉橋くんまで、きみまで、そう言いたいのか。君はあんなにいい子だったのに。あんなに、真っ直ぐ私を慕っていたのに──先生のことを、君がそんな目で見るのか。……ああ、そうか、もういい、もうどうだっていい、それならいっそ──────全員ここで殺してやるッ」


 とても定年を前にした年齢とは思えない動きで、男が──獣が駆ける。
 悟る。無理だ。避けられない。逃げられない。止められない。結局────僕は今も昔も胃袋の中だ。


「兄、ちゃん」



 ──────脚が。目の前を真っ直ぐに。横切った。



「え」


 老体が椅子を巻き込んで吹き飛んでいく。学校中どころか近隣にまで響いたんじゃないかと思う程の轟音が家庭科室内を飽和する。

 時政さんが、教頭先生を、蹴った。


「……やべ。アレ、死んでねぇよな?」

「と、とき──まさ、さん」

「──よし、意識はあるな。ったく、これだから自暴自棄になった人間ってのは厄介なんだ。アンタ、ちゃんと司法の判決を受けたらまずは精神病院に掛かれよ。アルコール依存にストレス障害──医者でない俺から見たってアンタの精神が限界なのはわかる」

「時政さん……」

「で、罪も必ず償え。────事故だなんだと逃げんな」


 教頭先生の胸倉を掴んで、一見では弱々しい老人を恫喝する素行不良の若者にしか見えない姿で時政さんが凄む。時政さんの足によって鳩尾を痛めた教頭先生はすっかり放心していた。もう、その目に獣じみた強烈な闘心はなかった。あるのは──滲みこびりつくような敵意。
 慌てて僕の元へ駆け寄ってきた島先生に支えられ、立ち上がる。感覚の鈍い足腰に力を入れる。先程、成人男性を片足一つで蹴り飛ばしたとは思えない様子で時政さんがゆるりと僕を見る。


「ジャージって、便利だろ?」

「…………」


 まさか、いつもジャージ姿なのはイレギュラー的肉体労働に即座に対応する為ですか。


「……あは、時政さんらしいなぁ」

「お、もう俺の理解者面か? おとなしい顔してお前、案外図々しいよな」

「時政さんには負けますよ」


 先程の騒ぎで島先生の狂気もすっかり理性の外面を取り戻したようで、ようやっと一難が去った気配に表情まで緩んでしまう。ヘラリと、何があっても守るだなんてチープな約束を果たしきってくれた時政さんへと笑う。


「──話は、済んだようですね」

「っ!?」


 ここにきて、さらなる第三者の登場だった。もうおなかいっぱい、おかわりは結構だと降参する気持ちで振り返る。僕も、島先生も、教頭先生も──誰もがその人を見てあんぐりと口を開いた。


「────校長先生?」


 教頭先生よりもずっと年を召した上品な老婆が、普段は柔らかく細めている瞳を鋭く開いて教頭先生を射抜いていた。


「君は、確かに熱くなると少々判断力が鈍るが、それでもここまで職を共にしてきた上で信頼がおけると留守中の運営を任せていたのだけれどね。……まさか、こんな事態になろうとは。話はそちらの探偵さんから全て聞かせてもらっていたよ。理事長にももう通してある。──観念なさい」


 そう、老婆の口から静かながらも厳しい断罪刃が犯人の首へと降り落ちた────瞬間。



「──チ、ク、ショオォォォ……ッ!!」



〝人望厚く生徒想い〟だった教頭先生は、床に身を丸めて崩れ落ちた。
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