アンダンテ

浦登みっひ

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京谷小雨の日常&Fall in the moonlight ジャンル:コメディ&ホラー

9月13日(1) 真紀

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「じゃあ、また明日」
「うん、ありがと。また明日」

 瞬の背中が遠ざかってゆく。付き合い始めて半年ほどになる私の彼氏だ。大学での講義のあと、時間があるときはいつもこうして私のマンションまで送ってくれる。もう何度その後姿を見送ったかわからないのに、別れ際の寂しさには未だに慣れることができずにいた。

 少ししんみりしながらエントランスに入ると、管理人室から大家の田中さんが顔を覗かせた。家庭菜園で日に焼けた顔と白い歯のコントラストがいつ見ても見事だ。だが、田中さんと松崎しげるの大きな違いは、田中さんが白髪であることだった。
「おや、西野園さん、おかえりなさい。今日も彼氏とデートですか?」
 田中さんは数年前まで都内で某電機メーカーに勤めていたそうだが、定年を機に生まれ故郷である青葉市へ戻ってきて、今では悠々自適に暮らしながら、親から受け継いだマンションの管理人をやっているらしい。何故私がそんな事情を知っているかといえば、田中さんが男性にしては珍しく、無類の話好きだから。
「こんばんは~、はい、そうなんですぅ~」
 私は軽く挨拶だけして、管理人室の前を通り過ぎた。ここでうっかり話に応じてしまうと、少なくとも五分か十分は足止めを食らうことを覚悟しなければならない。

 東京生まれ東京育ち、箱入り娘のお嬢様(自分で言うのもなんだけど)だった私が、両親からの自立を求めて東北の大学に進学してから、既に一年半近くの月日が流れた。このマンションに引っ越してきた当初は、色々とこの辺りの情報も仕入れたかったし、話が面白いおじさんだなと思ってよく田中さんの世間話に付き合っていた。だが、この手の人は話し相手が見つかったと思うと延々と話し続けるということを、当時の私はまだ知らなかったのだ。若干のスルースキルを身につけた今は、特に罪悪感を感じることなくあそこを通り過ぎることができる。これを成長と呼んでいいものか、ちょっと考えてしまうけれど。

 エレベーターの昇りボタンを押すと、程なくして扉が開いた。中に入り、『31』のボタンを押す。私の他には誰もいない。田中さんの関門を越えてしまえば、このマンションはいつも静かすぎるほど静かだ。私はすかさず『閉』ボタンを押した。
 一瞬ふっと重力を感じたあと、ドアの上部にある数字が動き始める。一度エレベーターが昇り始めたら、途中で止まることはほとんどない。この近辺では指折りの高級分譲マンションなのだが、この不景気の折、むしろ高級マンションであるせいか空室が多めで、他の住人に遭遇する機会はほとんどなかった。
 私の部屋は最上階の三十一階で、全部で二部屋あるのだが、埋まっているのは私の部屋だけ。階下の住人とも接点がないため、近所付き合いも近隣トラブルも全くない。
 地上を歩いていると、時折秋の虫達の鳴き声が聞こえる季節。それでも、地表から遠く離れた上空三十一階には、虫の声すらも届いてこなかった。防音がしっかりしているせいか、夜になるとほとんど無音になってしまい、暖かい季節には音を求めてベランダに出ることもままあるほどだ。冬にはそれすらできなくなって、厳しい寒さと相俟って寂しさを募らせる。雪の擬音語で『しんしん』というものがあるが、どれほどたくさん雪が降ってもそんな音がすることはない。私はずっとそれを不思議に思っていたのだが、去年初めて東北の冬の空気に触れて、その理由がわかったような気がする。『しんしん』は静寂を表す擬音語なのだと。

 ふわりと体が浮かぶ感覚。エレベーターが最上階に辿り着いた。扉がごう、と音を立てて開き、フロアの中央を貫く白い廊下が目の前に現れた。左右に扉が一つずつ。右側が私の部屋で、左側は空き部屋だ。無人のフロアにコツコツと、私のパンプスの音が響き渡る。

 右側の扉の前に立ち、鍵を開けた。当たり前のことだが、いつも真っ暗だ。自分の部屋に帰ってきたはずなのに、安堵感はあまりない。一人で住むには広すぎる部屋。両親が高いお金を払って買ってくれた物件に、文句はつけられないのだけれど。
 玄関の脇にあるスイッチに触れると、短い廊下の先にあるリビングの蛍光灯が部屋を明るく照らし出す。広いリビングの中央に、重厚感のある大きなグランドピアノが鎮座している。この夏、私の部屋に加わった新しい仲間だ。元々は私の実家にあったものなのだが、少々無理を言ってここまで運んでもらった。子供の頃、ピアノを習っていた時分に毎日触れていたものだ。
 何故わざわざそんなことをしてまでピアノを運び込んだかというと、二ヵ月ほど前、祖母の屋敷で久しぶりにピアノを弾く機会があって、それがとても楽しかったから。それに、広いリビングのど真ん中にピアノがあり、スペースが減ったことで、なんとなく寂しさが紛れるという効果もある。その分少し手狭になったとも言えるけれど、元々広い空間を持て余してリビングにベッドを置いていたぐらいだから、全然気にならなかった。
 小さい頃から慣れ親しんだ、少しくすんだ象牙の鍵盤に触れるたびに、色々な思い出が蘇ってくる。決して楽しいことばかりではない。ピアノの練習だって好きなわけじゃなかった。なのに、今ではそれがとても懐かしく感じられる。

 一人になると時々思う。もしかしたら、最近少しホームシック気味なのかもしれないと。
 瞬と一緒にいられる間は、そんなこと全く感じないのに。

 この部屋で瞬と一緒に暮らすことができたら、こんな憂鬱も晴れるだろうか。
 実は、まだこの部屋に彼を招き入れたことはない。夏季休暇、つまり夏休みの間、ほとんど毎日一緒にいたにもかかわらず。

 どうしてだろう。多分、止め金がなくなってしまいそうで、少し怖かったのだ。

 でも、もう……。

 黒光りするピアノの表面に、少し疲れたような私の顔が映り込んでいる。自分でも驚くほど無表情だった。そんなに疲れることがあっただろうか……。朝起きて、大学に行って、講義を受けて、瞬と一緒に帰ってくる。もう何度繰り返したかわからない、ルーチンワークのような一日。瞬の前でもこんな顔をしていたのかしら。でも、彼の前ではもう少し頑張っていたはずだ。
 蓋を開き、鍵盤に触れる。ひんやりとした感触が心地いい。気まぐれに思いついたメロディーを、右手だけでなぞってみる。

 ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ラ、レ、ファ、ラ、レ、ファ、ソ、シ、ファ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、レ、ファ、シ、レ……

 ああ、気まぐれでも何でもない。これは、あの有名なベートーベンの月光ソナタ第一楽章だ。
 ベートーベンにしろ月光ソナタにしろ、それほど好きなわけではない。どちらかと言えば、暗すぎて敬遠しているぐらい。何故今、唐突にこれを弾きたくなったのだろう……そんな疑問がぽつりと。それは例えば、全く好きでもない人や物が夢に出てきたとき、寝起きに感じる朝の戸惑いに似ている。どうしてあんな夢を見たのかと考えているうちに、その対象を妙に意識してしまう。誰にでも一度は経験があるはず。

 せっかくだから、ちゃんと弾こう。
 いや、弾いてみなければ気が済まない……そんな気持ちになっていた。それほど好きでもない曲を弾きたくなるなんて、滅多にないことだ。もしかしたら、決して短くはないピアノ歴の中で初めてのことかもしれない。
 楽譜もCDも持っていないけれど、子供の頃にレッスンで弾いた記憶があった。昔取った杵柄というか、当時暗譜させられた曲は、大体今でも楽譜なしで弾くことができる(覚えているなら楽譜も書けるんじゃないか、と思われるかもしれないけれど、そういうものでもない。覚えているのは指であって頭ではないから)。幼い日の記憶を辿りながら、私はピアノ椅子に座った。
 一応消音機構も取り付けてあるのだが、この階の住人は私だけだし、幸いなことに、夜にピアノを弾いても苦情が来たことはない。下の階には住人がいるのだろうか――越してきた当時はいなかったような気がするけれど、それ以来下の階でエレベーターを降りたことがないのでわからない。下から物音が聞こえてきたこともない。もっとも、これだけ防音のしっかりした部屋だから、普通の生活音程度なら聞こえなくて当然かもしれないけれど。

 ピアノに映り込む、キャミソール姿の私。帰ってきてから、まだ着替えも済ませていない。ことりベージュの長い髪も、ピアノの上では黒髪に戻ったように見える。そんな自分の姿が、追憶の中の、まだ何も知らない少女だったころの私の姿と重なった。鍵盤に触れ、素足のままでペダルを踏む。金属製のペダルは象牙の鍵盤よりずっと冷たい。

 重厚な、と形容するにはあまりにも暗すぎる左手オクターブの和音の上に、右手の物悲しい旋律が乗せられていく。
 この曲が『月光ソナタ』と呼ばれるようになったのは、作曲者であるベートーベンが亡くなってからのこと。本来の題名は『幻想曲風ソナタ』で、特に月のモチーフが意識された曲ではないらしい。こういった例は決して珍しい話ではなく、例えばショパンの『別れの曲』や『雨だれ前奏曲』なども、本来の題名ではない。いずれも、その曲から受けるインスピレーションが愛称となって広まっていったものだ。
 この『月光ソナタ』だって、月というよりむしろ『夜』の印象が強くて、月光は夜のイメージから連想されるものだと私は思うのだが、どうだろう。

 重い第一楽章から、拍子抜けするほど明るい第二楽章を経て、激しく情熱的な主題が繰り返し現れる第三楽章へと進んでいく。曲の進行と相俟って、窓の外の風景や蛍光灯の明かりまでもが暗く沈んでゆくような気がした。

 最後のフォルテッシモの和音を短くスタッカートに叩きつけて、私は小さくため息をついた。第一、第二楽章はゆったりとしていて技術的にも楽なのだが、第三楽章は非常に速く、また曲自体も繰り返しがあって長いため、結構体力を消耗するのだ。それに、私の小さい手では、オクターブの和音が頻出するだけでも大変な苦労を伴う。そんな事情もあって、月光ソナタを弾き終えた私は少しぼんやりとしていた。

 ピアノの表面に映り込んだ自分の姿を見て、はたと気が付く。いつまでもこうしていられない。いい加減着替えなきゃ。体に重くのしかかる疲労感を振り払い、立ち上がろうとしたその時、不意に。

 ベランダにつながる大きな掃き出し窓から、ねっとりと肌に貼り付くような視線を感じる……。

 いや、まさか、そんなわけ……。
 ここは三十一階。周囲にこのマンションより高い建物はない。このあたりはマンションや一般住宅が密集する住宅街なのだが、マンションにしてもせいぜい十階程度のものばかりで、外から覗かれる気遣いはない。両親が娘の一人暮らしのためにわざわざこんな大袈裟な部屋を選んだのは、まさにこのためだと思っている。とはいえ、例えばドローンのようなものを使えば中を撮影することは可能かもしれないが、今私が感じている視線はそうした機械的なものではなく、明らかに意志を持った何者かによるものだった。

 確かめなければ。この違和感の正体を。頭ではそう理解しつつも、なかなかその方向を見ることができない。
 怖いの? 何が? あそこに人がいるわけない。きっと鳥か何かが停まっているだけ。たまに人間をじいっと凝視するカラスがいるじゃん。あれに違いない。
 そうして自らを鼓舞し、顔を上げて、掃き出し窓のほうへと視線を向けた。

「ひゃっ!?」

 私は思わず奇声を上げて後ろへと仰け反り、その拍子に椅子から転げ落ちて強かに腰を打った。ピアノ椅子が大きな音を立てて横倒しになり、視界の片隅であられもない方向を向いている。でも、そんなことはどうでもいい。私の注意は、窓の向こうに見えている”それ”に向けられていた。

 それは一見、確かに人間の形をしていた。にもかかわらず、顔がぐちゃぐちゃに潰れていて、もはや人間の体を成していない。ベランダに立って、飛び出しかけた目玉をこちらに向けて覗き込んでいる。血みどろの顔から滴る血が、長い黒髪を伝ってぽたぽた落ちるのが見えた。

 私とそれの視線が交わる。
 服のようなものがその爛れた肌に貼り付いていたが、ボロボロに擦りきれていて、男物か婦人服かも区別がつけられない。

 恐怖のためか、あるいは腰を打ったためか、私は金縛りに遭ったように身動きが取れない。その異形の存在も、微動だにせずこちらを凝視していた。どれくらい見つめ合っていただろう。ほんの数秒のような気もするし、数十分は経過していたような気もする。

 いったいこの睨み合いはいつまで続くのだろう、あれは私に襲い掛かってくるのだろうか……若干冷静さを取り戻した私が思考を巡らせ始めた頃、血みどろのそれは突然ふわりと浮き上がり、手摺を飛び越えてベランダから落ちていった。あっ、という間もなく。
 そして、同時に私の体も自由を取り戻した。急に腰の痛みが気になり始めたけれど、どうにか堪えて立ち上がる。痛みはあるが、動作に支障はない。おそらくただの打ち身だろう。
 部屋の中は、倒れたピアノ椅子以外に何も異変はなかった。ピアノ椅子も壊れてはいないようだ。とりあえず周囲の状況にはそう判断を下して、さっき見た異常なものを確かめるため、恐る恐る掃き出し窓に近付いた。

 ガラス越しにベランダを観察してみる。しかし、そこには何もなかった。あれだけぽたぽたと滴っていたどす黒い血の痕跡すら残されていない。拭き取ったようにも見えなかったが……。

 ベランダに出て、目を皿のようにして隈無く探してみたものの、やはり何の形跡もない。あれは幻覚だったのだろうか……?
 ベランダの手摺が目に入る。私の胸のあたりまで高さのある手摺で、これを乗り越えるのは決して容易ではないはずだ。にもかかわらず、あれはひょいとこれを飛び越えていった。

 もしかしたら、この下に……。

 三十一階から飛び降りたら、地面に落ちた際の衝撃は相当なものだろう。嫌な想像が脳裏をよぎる。
 私は恐々その手摺から下を覗きこんだ。

 階下の部屋から点々と漏れる蛍光灯の明かりに照らされて、黒々とした地面が広がっている。さっき瞬を見送った門も向こうに見下ろすことができた。いつもと何ら代わり映えのしない夜の風景だ。真下の地面は、一階の窓から漏れる光によって、辛うじて視認できる程度の明るさが保たれている。

 だが、血みどろの死体なんて、影も形もなかった。
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