アンダンテ

浦登みっひ

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京谷小雨の日常&Fall in the moonlight ジャンル:コメディ&ホラー

9月15日(1) 真紀

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「ええ? ベランダから覗く不審者? ……はて、私は聞いたことありませんが……」

 翌朝、私は思い切って、管理人の田中さんに相談してみることにした。とはいえ、見たままに『血みどろの人間のようなもの』なんて言っても取り合ってもらえそうにない。慎重に言葉を選んだ結果、『ベランダから覗く不審な気配』という、何とも中途半端な表現にならざるを得なかった。しかし案の定、これでは意味合いが変わってしまい、田中さんの理解は私の意図するところからだいぶ離れた方向に行ってしまったらしい。

「まあ、一応、他の方にも聞いてはみますが……西野園さんのお部屋は最上階でしょう、わざわざ地上三十一階まで覗きに行くもんですかね……ああいや、西野園さんは美人だからなあ……有り得ないとも言い切れんか……念のため、防犯カメラをチェックしてみることとしましょう」
「……あの、そうじゃなくて、例えば、あの部屋か、もしくはこのマンションのどこかで、昔何か事件があったとか、自ら命を絶った方がいたとか……そういうことはないのでしょうか」
 すると、田中さんは顔の前で大げさに手を振りながら、激しく否定した。
「はあ? ……いや、これは失礼、そういう事故物件だったら、事前にきちんとご説明しますし、そもそもうちではそんな事件は起こっておりませんよ。自殺も同様です、ご存じの通り、ここはこの辺りでは随一の高級マンションですから、ここの住人でそこまで追い詰められてる方なんていらっしゃいません。現に、このマンションの住人で自殺された方なんてただの一人もおりませんし」

 果たしてそうだろうか? 経済的に恵まれた環境にあっても、自ら死を選ぶ人はいる。経済的な豊かさと幸福感は必ずしも比例しないものだ。それはさておき、田中さんの表情を見ると、自殺者がいなかったというのは本当らしい。

「う〜ん不審者ねえ……あんまりこの辺りでも聞いたことないけどなあ……まあ、今は世の中物騒ですからね、いつ何時そういうおかしな輩が現れても不思議ではありませんな。ましてや西野園さんは若い女性の一人暮らしだ。私の方でも人の出入りにはこれまで以上に気を配りますが、西野園さんも、ご用心くださいね。……ああ、そうか、地上から登るのは難儀でも、屋上から降りてくるという可能性は一応あるわけですな。わかりました、今日のうちに屋上を念入りに調べておきますので、何か異常がありましたら、すぐにお伝えしますし、警察にも相談致しますから、どうぞご安心ください。しかし、九月に入ったというのに、なかなか涼しくなりませんなあ。西野園さんのお部屋は、エアコンの具合などはいかがですか? 異臭などありませんか?  あれ、放っておくとカビが生えたりして大変なんだそうですな。掃除は定期的に行ったほうがよろしいですよ。もしご自分でされるのが面倒な場合は、多少料金はかかりますが専門の業者に頼まれるといいですよ。うちのエアコンも、時々掃除はしていたつもりだったんですがね、専門の業者にやってもらったら、いやあもう、出るわ出るわ、真っ黒な……」

 田中さんが話し始めるといつもこうなってしまう。でもまあ、鍵のかかった屋上は管理人である田中さんに調べてもらう他ないし、防犯カメラの映像をチェックしてもらえる点はありがたい。だからというわけではないが、この時は田中さんの世間話に10分ほど付き合った。久しぶりの大サービスだ。

 さて、屋上は田中さんに調べてもらうとして、問題は下のほうだ。あれが最初に現れた時、その体がふわりと浮き上がり、ベランダの手摺を越えて落ちていくのを私は確かに見た。とすれば、階下の住人もその姿を目にしているはず。
 居住スペースになっているのは二階から。つまり、私の部屋の真下にある二階から三十階までの住人に、一昨日の夜、窓の外に何かおかしなものが落ちていくのを見なかったか、確認しなければならない。おそらく全ての階が埋まっているわけではないと思うけれど、それでもなかなか骨の折れる作業だ。平日だけに、入居している部屋であっても住人が不在の可能性もあるし、社会派ミステリに出てくる行動力タイプの刑事みたいであまり筋の良い方法ではないけれど、自分でも何か調べずにはいられなかった。

 まずは真下の三十階から。この階には全部で四部屋あって、単純に計算すれば私の部屋の半分ほどの広さということになる。これがこのマンションの通常のフロア構成で、最上階だけが特別に広く作られているのだ。
 このマンションに住み始めてもう一年半近く経つが、三十階に足を踏み入れたのはこれが二度目。引越のご挨拶にと伺ったのだが、当時、ここは空き部屋だったはずだ。私は周囲を確認しながら、部屋のベランダの真下、南東方面にある部屋の前に立った。

 何かと忙しい平日の朝だというのに、扉の向こうは静まりかえっている。玄関にも表札のようなものはかかっていない。
 まだ空き部屋なのだろうか、とも考えたが、そういえば私の部屋にだって表札はかけていない。三十一階の住人は私だけだからだ。もしかしたら、ここも似たような理由で何もしていないのかもしれない。それに、今は防犯やプライバシーの観点から表札をかけない人も多い。
 私は、ダメ元でドアの横にあるチャイムを鳴らしてみた。

 ピンポーン

 返事がない。やはり空き部屋だったのか。あるいは、人は住んでいるけれど、既に仕事に出掛けたのかもしれない。時刻は朝の八時前、通勤に時間のかかる人はもう家を出ていてもおかしくない時間だ。次を当たろう、そう考えて踵を返しかけた時、カチャリと鍵の開く音がした。
 扉が開き、中から姿を現したのは、セーラー服に身を包んだ中学生ぐらいの大人しそうな女の子だった。

「あ、あの、お忙しいところ失礼します。私、上の階に住んでいる西野園といいます。初めまして」
 女の子は無表情で軽く頭を下げた。彼女には私が本当に上の階の住人なのかどうかさえわからないのだから、不審に思われるのは仕方がないところ。腰までありそうな黒くて長い髪が印象的だった。
「ご両親は御在宅ですか?」
「……いえ、仕事です」
 どうやら、ここは両親が共働きの家庭らしい。私の幼少時代も両親が家を空けていることが多かったが、私には飼い犬も使用人もいたため、本当の孤独ではなかったと思う。しかし、このマンションはペットを飼うことが禁止されているし、当然、使用人だっていないだろう。心細くはないのだろうか。
「何時頃にご帰宅されるかしら?」
「わかりません」
「そう……実は、先日私の部屋のベランダに不審者が現れたの。その時、その怪しい影は私のベランダから下に飛び降りていったように見えたんだけど、一昨日の夜9時頃、窓から何か不審なものが見えたりしなかった?」
 一応、聞き込みをする上では、不審者が現れたという設定にしておく必要があるだろう、と判断してのこと。あれが本当にただの不審者だったと思っているわけではない。
「……いえ、なにも。もう寝ていましたし」
「そうですか……ご協力ありがとうございます。お忙しいところ、失礼致しました」

 二十九階には誰もいなかった。どの階が埋まっているか、予め田中さんに聞いておけばよかったと後悔したが、個人情報でもあるし、さすがにそこまでは教えてもらえないかもしれない。

 二十八階、ここには『佐藤』と表札がかかっている。この部屋には人が住んでいるようだ。チャイムを鳴らすと、中から出てきたのは、短髪で無精髭を生やした、三十代ぐらいのパジャマ姿の男性だった。
「あ~はい……なんでしょ、保険ならもう入ってるよ」
「あの、不審者の件で、お話を伺っているんですけれど……」
 要件をかいつまんで話すと、彼は首を横に振った。
「あいにく、その時間は仕事なんでね……」
「そうでしたか……お忙しいところ、失礼しま……」
「あ~、いや、どうだったかな? 一昨日か……一昨日ね……」
 表札によれば佐藤という名の男は、私の頭からつま先までをじろじろとねめつけるように見た。はっきりいって気味が悪い。普通のスキニーデニムに白いブラウス。別に露出の多い服装をしていたわけではない。
「一昨日か~、どうだったっけなあ、もしかしたら休みだったかもしれない。ちょっと、思い出すのに時間がかかりそうだから、それまでちょっとお茶でも飲んで行かない? ほんのちょっとだからさ」
「失礼します」
 私は足早にそこから立ち去った。
 バカじゃないの?
 そんなに軽い女に見えるのかしら……。

 気を取り直して、二十七階。ここには、『高橋』と表札がかかっていた。
 チャイムを鳴らすと、出てきたのは四十歳ぐらいの女性。肩にかかるぐらいの、ゆるいパーマがかかった髪。白いエプロンが眩しい。主婦だろうか。インターホン越しに聞こえた『はぁ〜い』という声は九官鳥のように甲高かったが、扉を開けて私の姿を目にすると、途端に声のトーンが一段下がった。先程の男とはまた別種の険のある視線が、私の全身を何度も往復する。若干腹立たしいけれど、これは女性の(カモフラージュなしの)一般的な反応だ。私はあまり同性に好かれるタイプではないらしい。こういうことにはもう慣れてしまった。
「あら……どちら様ですか? 宗教なら結構ですわよ」
 その主婦はあからさまに突っ慳貪な口調で、肝心な一昨日の夜に関する質問にも、『さあ……』と、つれない返事だった。部屋の中からは、テレビタレントがガヤガヤと騒ぎ立てる声がこちらまで響いてくる。この時間帯は大体どのTV局も騒々しいワイドショーしか放送していない。こんなに大音量でワイドショーなんかを見ていたら、私はそれだけでノイローゼになってしまいそうだけれど。
「御用はそれだけですか? 忙しいので、失礼致しますわ」
 彼女はそう言い放ち、こちらが礼を述べる間もなく扉を閉め、鍵をかけた。

 ふぅ。

 その後も何人か尋ねてみたのだが、これといった情報は得られなかった。全く無駄なことをしているような気はしたものの、他にいい手段が思い付くわけでもない。
 ふと腕時計を見る。短針は9に近付き、長針もまた、もうすぐ9に重なるところだった。登校にかかる時間を考えると、そろそろタイムリミットか。今日のところはこの辺で切り上げることにして、私は大学へと急いだ。
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