98 / 126
京谷小雨の日常&Fall in the moonlight ジャンル:コメディ&ホラー
9月15日(4) 小雨
しおりを挟む
昼前に大学に着いて早々、私と瞬はある事件(?)について真紀から相談を受けた。内容については、私にとって非常に苦手な分野だし、こっちの本筋とは全く関係ないので、興味のある方は然るべきところで読まれたし。まあ、そもそも、私の背徳的で堕落した私生活をだらだら綴っているだけのこの話に、本筋なんてものがあるかどうかは甚だ疑問だが。
現に、真紀の話を聞いている間も、私は口の中の苦味とねばつきが気になっていた。どんだけ出せば気が済むんだ、まったく。
真紀の話が一通りすむと、今度は、昨日私のバイト先を訪れた彼女の母親のことが話題になった。
「ねえ、真紀のお母さんっていくつなの? めっちゃ若いよね」
「え? う~んと、確か、私を産んだのはアラフォーのときだよ。三十代後半」
今二十歳の真紀を産んだのが三十代後半ということは……え、えええ?
うちの母さんより年上じゃん。
「うっそ、マジで……二回りぐらいは若く見えるよ……」
「ふふ、今度お母さんに会ったら伝えとくね、『小雨がお母さんの年聞いて驚いてたよ~』って」
私と真紀がこんな会話を繰り広げている最中の瞬の気まずそうな顔。読者の皆様にもお見せしたいぐらいである。なにしろ彼女の母親とニアミスしていた可能性があるのだから、そりゃあもう背筋が凍る思いだったに違いない。
さて、光陰矢の如し(違)。午後の講義が終わると、瞬はいつも真紀のところに行ってしまう。自分のバイトがない日は、必ずと言っていいほど真紀とデートして、そのままマンションまで送ってやっているらしい。彼女利権とでも言おうか。私のバイトは大体夕方から夜にかけてなので、私がせっせと働いている時間に奴らはよろしくやっているわけだ。あぁ、嫌になるね。
周囲のリア充どもが楽しそうに囁きかわす中を、私は一人でとぼとぼ歩いて行く。なんだか晒し者にされているみたいで、構内の無駄な広さが恨めしい。だが、やがて校門に差し掛かり、孤独な逃避行もようやく終わりが見えてきた。校門と言えば、今朝は初めてそっちを弄られて、なんだか今でも少しむずむずする。まったく、盛りやがって……。
「あ〜、小雨ちゃん! やっほー! 今一人?」
突然辺りに響き渡る甲高い声。振り返ると、そこにいたのは最近友達になった(らしい)堀江梨子ちゃんだった。堀江が名字で、名前は梨子。念のため。
彼女は、私が所属している読書サークルで知り合った下級生、つまり一年の女の子だ。それなりの読書家ではあるらしいのだが、およそ読書家らしからぬパーソナリティーの持ち主で、人見知りせず誰ともすぐに仲良くなれる一方、空気を読むことができないし、敬語を全く使わない。さらには、全く嘘がつけないのである。
そんな梨子ちゃんだから、最初は誰とでも仲良くなるのだが、やがて人が離れていってしまう。何故ならば、梨子ちゃんの前で陰口を叩こうものなら、すぐにその内容が当人に伝わってしまうのだ。そのため、今では女子の友達がすっかりいなくなり、元々陰口の輪に加わっていなかった私が結果として残った、というわけだ。
童顔でかわいらしい顔立ちをしているため男子には結構人気があるのだが、地元に彼氏がいるため、デートの誘いは全て断っているそうだ。基本的に真面目な子なのである。
「ああ、うん、今帰るとこ」
「あのコンビニでバイト?」
「そうそう」
「じゃあ私も方向同じやけ、途中まで一緒に行こ!」
タンクトップにミニスカート、ウェーブのかかった茶髪。化粧もやや濃い目で、一見するとギャルにしか見えない梨子ちゃん。一方の私は、すっぴんに眼鏡、Tシャツにショーパンといういかにも垢抜けない出で立ちだった。私は地味な感じだし、梨子ちゃんはとても目立つ子なので、一緒に歩いていると視線を感じることが多い。見た目が真逆だから凸凹コンビみたいに見えるんだろう。
先程、梨子ちゃんには地元に彼氏がいると述べたが、彼女の地元は九州のなんとかいうところだ。私は小学校以来ずっと自宅から通える距離にある学校にばかり進んできたので、九州からわざわざ東北まで引っ越すなんて大変だなあと思う。
梨子ちゃんは真紀のように実家がやたら金持ちなわけではない。しかし、その割には服やオシャレにそれなりの投資をしている。何故か? 答えは簡単。バイトをしているからだ。
実は、知り合った当初、彼女から『バイトを探しているんだけどどこかいいところはないか』と相談を受けたことがある。別段顔が広いわけでもない私は、唯一伝手のある自分のバイト先の店長に梨子ちゃんを紹介し、面接を受けさせてみたのだが、全く話にならなかった。なにしろ梨子ちゃんは敬語が全く喋れないのだから。
それなりに本を読んでいるはずなのに何故、とも思うのだが、それを言い出したら私ももっとコミュ力高くなっていたり恋愛上手になっていなければおかしい、という具合に都合の悪い話になってくるので、深く追及はしない。とにかく、彼女には接客業は無理だと思ったものである。
では結局梨子ちゃんは何のバイトをしているのかというと、まあ、所謂デリヘルだ。
彼女からその話を聞いたとき、私はなるほど、と思ったものだ。男受けのする童顔でかわいらしい顔立ちと甲高い声。剥き出しの方言と生来の親しみやすさによって、一切敬語が使えないというハンデを補い、彼女はすぐに妹キャラとして大人気になったそうだ。梨子ちゃんの羽振りの良さにはそうした背景がある。彼氏には内緒らしいけど。
方言がかわいいってめちゃくちゃうらやましい初期ステータスだよなあ。
梨子ちゃんと別れてバイト先のコンビニに到着した私は、いつも通り、そこそこ真面目に仕事をこなしていた。
今日は店長と一緒だ。普通は緊張するシチュエーションなんだろうけど、私は子供のころから店長と知り合いであるため、それほど気を使うことはない。
子供のころ、私が初めてこのコンビニに来たとき、店長に対して抱いた第一印象は、『こわいおばさん』だった。声も大きいし、とにかく早口でまくしたてるので、接客されているはずなのになんだか叱られているような気分になってしまうからだ。
別に悪気はないし怒ってもいない、これはただの癖なのだ、と知ってからは、何の蟠りもなく接することができるようになった。話してみると、意外と優しいおばさんなのだ。年齢の話はなるべくしないようにしているのだが、もう六十ぐらいにはなっているはずである(真紀の母親とそんなに違わない)。ここ二、三年で皺も増えたし、髪にも白いものが目立つようになった。あと何年、この店舗を続けられるだろうか。
感傷に浸っているときに限って、客が来るものだ。案の定、入り口の両開きのドアを押す人影が目に入った。
「いらっしゃいませ〜」
あっ。
いつものイケメンだ。別にだらけていたわけではないのだが、あの人が来店すると無意識のうちに姿勢を正してしまう自分がいる。
イケメンは今日もおにぎりとお茶を持ってレジにやってきた。手早く会計を済ませ、お釣りを渡す段に。今日は手が触れるだろうか……。淡い期待を抱きながら小銭を渡すと、私の手に触れたのは何かガサガサとした紙の感触だった。間違って紙幣を渡してしまったのだろうか、と戸惑っていると、イケメンはその紙を私の手にはっきりと握らせて、意味ありげに微笑んだ。いったい何だろう、そう問いかける間もなく、イケメンはさっと身を翻し、足早に店を出ていってしまった。
私の手に残されたのは、小さく折り畳まれたメモ用紙だった。開いてみると、そこには、電話番号と携帯のメールアドレス、そしてLINEのIDが書いてあったのである。どっちか片方だけでよくね?
さて、ここは人それぞれ見解の別れるところだと思うのだが、私にとってイケメンとは主に眺めて楽しむ対象であって、触れ合う対象ではない。例えるならば、街中に突然レッサーパンダが現れたぐらいの感覚である。いや、動物ならモフりたいと思ってしまうから、レッサーパンダよりは菩薩像とかのほうが近いかもしれない。つまりは一種の偶像崇拝なのだ。突然菩薩像が動き出して、『いつもお供え物ありがとうね、よかったら一緒に食べない?』なんて言い出したらどうだろうか。普通の人間ならば、慌ててそこから逃げ出すだろう。
この比喩が適切だったかどうかはわからないが、とにかく、私はこうして生々しい男の側面を見せられると一気に幻滅してしまう性格なのである。渡された紙は、その場で破ってゴミ箱に放り込んだ。
「あら〜有実ちゃん! 有実ちゃんじゃない?」
その時、店の外で作業をしていた店長の、普段より一層大きな声が店内にまで響き渡った。有実さん……?
それから少しして、入り口のガラス扉の向こう、店長に伴われて、見覚えのある懐かしい姿が見えた。小さな男の子を二人連れた、小さなお母さん。あんなに小さかったっけ……。
「え〜っ、小雨ちゃん? 随分大きくなって〜! 私、覚えてる? 昔、ここでよく遊んでた……」
忘れもしない。忘れるわけがない。
彼女は、もう十年以上前にこのコンビニで働いていた、上原有実さん……いや、その後、離婚と再婚をしているはずだから、苗字は変わっているだろう。当時まだ子供だった私と瞬が、よく遊んでもらっていたお姉さんだ。みかんが好きで、あぶり出しで描いてもらった絵などは今でも大事にとってある。私の記憶の中にいる有実さんはとっても大人なお姉さんなのだが、身長でだいぶ追い越してしまったせいか、今目の前にいる有実さんは、若くて小さくてかわいらしい、小動物みたいな雰囲気がある。
「勿論覚えてますよ~、お久しぶりです。昔描いてもらったあぶり出し、まだちゃんととってありますよ」
「ええ~ほんと? 嬉しい~!」
「有実ちゃんね、今家族でこっちに旅行に来てて、ほら、すぐそこのホテルに宿をとったんだって。それで、せっかく近くまで来たんだから、ちょっと顔を出そうって」
「そうそう。なぁんか、懐かしくなっちゃってね。この辺りの街並みは随分変わっちゃったけど、ここのコンビニは全然変わってなくて、安心したよ~。ほら、あんたたち、小雨お姉さんにご挨拶は?」
有実さんに背中を押されて、二人の男の子が私の前に進み出た。ちょうど私達が有実さんに遊んでもらっていた当時の年頃ぐらいだろうか。少年たちは、おずおずと『こんにちは』と言った。
「いや~懐かしいわねえ。小雨ちゃんたちが有実ちゃんと遊んでたのも、これぐらいの時じゃない? なんか当時を思い出しちゃうわぁ。私も年を取ったものね」
店長はしみじみと回想に耽っている。
「そうそう、瞬くんだっけ? 一緒に来てた男の子。彼はどう? 元気?」
「ええ、元気にしてますよ」
「彼もまだこの辺にいるの?」
「はい、実家から大学に通ってます」
「へえ~~、そうなんだ! 今も仲良くやってる?」
やってる? という言葉に過剰に反応してしまうお年頃。もちろん、有実さんはそういうニュアンスでこの言葉を用いたわけではないはずだが。
「……ええ、それなりに、仲良く」
自分では平静を保って答えたつもりだったのだが、隠しきれていなかったらしく、有実さんは一瞬『おや?』という表情をした。しかし、すぐに店長が世間話を始めたので、それ以上聞かれることはなかった。ほっ。
話題は有実さんの旦那さんの人柄や旅行の日程についてなどに派生し、結局店長と有実さんは三十分ぐらいは話し込んでいたのではないだろうか。その間のレジ打ちはほとんど私一人でこなさなければならず、結構大変だった。
帰り際、客が引いたタイミングを見計らって有実さんがこちらへやってきた。
「ねえ小雨ちゃん、LINEやってる?」
「ええ、はい、やってますよ」
「じゃあさ、お友達に登録させてもらってもいい?」
「はい、もちろん!」
そんなわけで、私のLINEの友達欄には、イケメンの代わりに有実お姉さんの名前が加わったのであった。
現に、真紀の話を聞いている間も、私は口の中の苦味とねばつきが気になっていた。どんだけ出せば気が済むんだ、まったく。
真紀の話が一通りすむと、今度は、昨日私のバイト先を訪れた彼女の母親のことが話題になった。
「ねえ、真紀のお母さんっていくつなの? めっちゃ若いよね」
「え? う~んと、確か、私を産んだのはアラフォーのときだよ。三十代後半」
今二十歳の真紀を産んだのが三十代後半ということは……え、えええ?
うちの母さんより年上じゃん。
「うっそ、マジで……二回りぐらいは若く見えるよ……」
「ふふ、今度お母さんに会ったら伝えとくね、『小雨がお母さんの年聞いて驚いてたよ~』って」
私と真紀がこんな会話を繰り広げている最中の瞬の気まずそうな顔。読者の皆様にもお見せしたいぐらいである。なにしろ彼女の母親とニアミスしていた可能性があるのだから、そりゃあもう背筋が凍る思いだったに違いない。
さて、光陰矢の如し(違)。午後の講義が終わると、瞬はいつも真紀のところに行ってしまう。自分のバイトがない日は、必ずと言っていいほど真紀とデートして、そのままマンションまで送ってやっているらしい。彼女利権とでも言おうか。私のバイトは大体夕方から夜にかけてなので、私がせっせと働いている時間に奴らはよろしくやっているわけだ。あぁ、嫌になるね。
周囲のリア充どもが楽しそうに囁きかわす中を、私は一人でとぼとぼ歩いて行く。なんだか晒し者にされているみたいで、構内の無駄な広さが恨めしい。だが、やがて校門に差し掛かり、孤独な逃避行もようやく終わりが見えてきた。校門と言えば、今朝は初めてそっちを弄られて、なんだか今でも少しむずむずする。まったく、盛りやがって……。
「あ〜、小雨ちゃん! やっほー! 今一人?」
突然辺りに響き渡る甲高い声。振り返ると、そこにいたのは最近友達になった(らしい)堀江梨子ちゃんだった。堀江が名字で、名前は梨子。念のため。
彼女は、私が所属している読書サークルで知り合った下級生、つまり一年の女の子だ。それなりの読書家ではあるらしいのだが、およそ読書家らしからぬパーソナリティーの持ち主で、人見知りせず誰ともすぐに仲良くなれる一方、空気を読むことができないし、敬語を全く使わない。さらには、全く嘘がつけないのである。
そんな梨子ちゃんだから、最初は誰とでも仲良くなるのだが、やがて人が離れていってしまう。何故ならば、梨子ちゃんの前で陰口を叩こうものなら、すぐにその内容が当人に伝わってしまうのだ。そのため、今では女子の友達がすっかりいなくなり、元々陰口の輪に加わっていなかった私が結果として残った、というわけだ。
童顔でかわいらしい顔立ちをしているため男子には結構人気があるのだが、地元に彼氏がいるため、デートの誘いは全て断っているそうだ。基本的に真面目な子なのである。
「ああ、うん、今帰るとこ」
「あのコンビニでバイト?」
「そうそう」
「じゃあ私も方向同じやけ、途中まで一緒に行こ!」
タンクトップにミニスカート、ウェーブのかかった茶髪。化粧もやや濃い目で、一見するとギャルにしか見えない梨子ちゃん。一方の私は、すっぴんに眼鏡、Tシャツにショーパンといういかにも垢抜けない出で立ちだった。私は地味な感じだし、梨子ちゃんはとても目立つ子なので、一緒に歩いていると視線を感じることが多い。見た目が真逆だから凸凹コンビみたいに見えるんだろう。
先程、梨子ちゃんには地元に彼氏がいると述べたが、彼女の地元は九州のなんとかいうところだ。私は小学校以来ずっと自宅から通える距離にある学校にばかり進んできたので、九州からわざわざ東北まで引っ越すなんて大変だなあと思う。
梨子ちゃんは真紀のように実家がやたら金持ちなわけではない。しかし、その割には服やオシャレにそれなりの投資をしている。何故か? 答えは簡単。バイトをしているからだ。
実は、知り合った当初、彼女から『バイトを探しているんだけどどこかいいところはないか』と相談を受けたことがある。別段顔が広いわけでもない私は、唯一伝手のある自分のバイト先の店長に梨子ちゃんを紹介し、面接を受けさせてみたのだが、全く話にならなかった。なにしろ梨子ちゃんは敬語が全く喋れないのだから。
それなりに本を読んでいるはずなのに何故、とも思うのだが、それを言い出したら私ももっとコミュ力高くなっていたり恋愛上手になっていなければおかしい、という具合に都合の悪い話になってくるので、深く追及はしない。とにかく、彼女には接客業は無理だと思ったものである。
では結局梨子ちゃんは何のバイトをしているのかというと、まあ、所謂デリヘルだ。
彼女からその話を聞いたとき、私はなるほど、と思ったものだ。男受けのする童顔でかわいらしい顔立ちと甲高い声。剥き出しの方言と生来の親しみやすさによって、一切敬語が使えないというハンデを補い、彼女はすぐに妹キャラとして大人気になったそうだ。梨子ちゃんの羽振りの良さにはそうした背景がある。彼氏には内緒らしいけど。
方言がかわいいってめちゃくちゃうらやましい初期ステータスだよなあ。
梨子ちゃんと別れてバイト先のコンビニに到着した私は、いつも通り、そこそこ真面目に仕事をこなしていた。
今日は店長と一緒だ。普通は緊張するシチュエーションなんだろうけど、私は子供のころから店長と知り合いであるため、それほど気を使うことはない。
子供のころ、私が初めてこのコンビニに来たとき、店長に対して抱いた第一印象は、『こわいおばさん』だった。声も大きいし、とにかく早口でまくしたてるので、接客されているはずなのになんだか叱られているような気分になってしまうからだ。
別に悪気はないし怒ってもいない、これはただの癖なのだ、と知ってからは、何の蟠りもなく接することができるようになった。話してみると、意外と優しいおばさんなのだ。年齢の話はなるべくしないようにしているのだが、もう六十ぐらいにはなっているはずである(真紀の母親とそんなに違わない)。ここ二、三年で皺も増えたし、髪にも白いものが目立つようになった。あと何年、この店舗を続けられるだろうか。
感傷に浸っているときに限って、客が来るものだ。案の定、入り口の両開きのドアを押す人影が目に入った。
「いらっしゃいませ〜」
あっ。
いつものイケメンだ。別にだらけていたわけではないのだが、あの人が来店すると無意識のうちに姿勢を正してしまう自分がいる。
イケメンは今日もおにぎりとお茶を持ってレジにやってきた。手早く会計を済ませ、お釣りを渡す段に。今日は手が触れるだろうか……。淡い期待を抱きながら小銭を渡すと、私の手に触れたのは何かガサガサとした紙の感触だった。間違って紙幣を渡してしまったのだろうか、と戸惑っていると、イケメンはその紙を私の手にはっきりと握らせて、意味ありげに微笑んだ。いったい何だろう、そう問いかける間もなく、イケメンはさっと身を翻し、足早に店を出ていってしまった。
私の手に残されたのは、小さく折り畳まれたメモ用紙だった。開いてみると、そこには、電話番号と携帯のメールアドレス、そしてLINEのIDが書いてあったのである。どっちか片方だけでよくね?
さて、ここは人それぞれ見解の別れるところだと思うのだが、私にとってイケメンとは主に眺めて楽しむ対象であって、触れ合う対象ではない。例えるならば、街中に突然レッサーパンダが現れたぐらいの感覚である。いや、動物ならモフりたいと思ってしまうから、レッサーパンダよりは菩薩像とかのほうが近いかもしれない。つまりは一種の偶像崇拝なのだ。突然菩薩像が動き出して、『いつもお供え物ありがとうね、よかったら一緒に食べない?』なんて言い出したらどうだろうか。普通の人間ならば、慌ててそこから逃げ出すだろう。
この比喩が適切だったかどうかはわからないが、とにかく、私はこうして生々しい男の側面を見せられると一気に幻滅してしまう性格なのである。渡された紙は、その場で破ってゴミ箱に放り込んだ。
「あら〜有実ちゃん! 有実ちゃんじゃない?」
その時、店の外で作業をしていた店長の、普段より一層大きな声が店内にまで響き渡った。有実さん……?
それから少しして、入り口のガラス扉の向こう、店長に伴われて、見覚えのある懐かしい姿が見えた。小さな男の子を二人連れた、小さなお母さん。あんなに小さかったっけ……。
「え〜っ、小雨ちゃん? 随分大きくなって〜! 私、覚えてる? 昔、ここでよく遊んでた……」
忘れもしない。忘れるわけがない。
彼女は、もう十年以上前にこのコンビニで働いていた、上原有実さん……いや、その後、離婚と再婚をしているはずだから、苗字は変わっているだろう。当時まだ子供だった私と瞬が、よく遊んでもらっていたお姉さんだ。みかんが好きで、あぶり出しで描いてもらった絵などは今でも大事にとってある。私の記憶の中にいる有実さんはとっても大人なお姉さんなのだが、身長でだいぶ追い越してしまったせいか、今目の前にいる有実さんは、若くて小さくてかわいらしい、小動物みたいな雰囲気がある。
「勿論覚えてますよ~、お久しぶりです。昔描いてもらったあぶり出し、まだちゃんととってありますよ」
「ええ~ほんと? 嬉しい~!」
「有実ちゃんね、今家族でこっちに旅行に来てて、ほら、すぐそこのホテルに宿をとったんだって。それで、せっかく近くまで来たんだから、ちょっと顔を出そうって」
「そうそう。なぁんか、懐かしくなっちゃってね。この辺りの街並みは随分変わっちゃったけど、ここのコンビニは全然変わってなくて、安心したよ~。ほら、あんたたち、小雨お姉さんにご挨拶は?」
有実さんに背中を押されて、二人の男の子が私の前に進み出た。ちょうど私達が有実さんに遊んでもらっていた当時の年頃ぐらいだろうか。少年たちは、おずおずと『こんにちは』と言った。
「いや~懐かしいわねえ。小雨ちゃんたちが有実ちゃんと遊んでたのも、これぐらいの時じゃない? なんか当時を思い出しちゃうわぁ。私も年を取ったものね」
店長はしみじみと回想に耽っている。
「そうそう、瞬くんだっけ? 一緒に来てた男の子。彼はどう? 元気?」
「ええ、元気にしてますよ」
「彼もまだこの辺にいるの?」
「はい、実家から大学に通ってます」
「へえ~~、そうなんだ! 今も仲良くやってる?」
やってる? という言葉に過剰に反応してしまうお年頃。もちろん、有実さんはそういうニュアンスでこの言葉を用いたわけではないはずだが。
「……ええ、それなりに、仲良く」
自分では平静を保って答えたつもりだったのだが、隠しきれていなかったらしく、有実さんは一瞬『おや?』という表情をした。しかし、すぐに店長が世間話を始めたので、それ以上聞かれることはなかった。ほっ。
話題は有実さんの旦那さんの人柄や旅行の日程についてなどに派生し、結局店長と有実さんは三十分ぐらいは話し込んでいたのではないだろうか。その間のレジ打ちはほとんど私一人でこなさなければならず、結構大変だった。
帰り際、客が引いたタイミングを見計らって有実さんがこちらへやってきた。
「ねえ小雨ちゃん、LINEやってる?」
「ええ、はい、やってますよ」
「じゃあさ、お友達に登録させてもらってもいい?」
「はい、もちろん!」
そんなわけで、私のLINEの友達欄には、イケメンの代わりに有実お姉さんの名前が加わったのであった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる