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京谷小雨の日常&Fall in the moonlight ジャンル:コメディ&ホラー
9月17日(1) 真紀
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翌日、私はいつもと変わらない朝を迎えた。
今日は土曜日。大学も休みだし、これといった予定もない。 瞬とのデートは明日。今日は一日フリーだ。
暇人の朝は遅い。私が化粧台の前で目を覚ましたのは昼過ぎのことだった。ゆっくり休めるのはいいことだけれど、休日には瞬に会うために口実とか約束とかいうまどろっこしいものが必要になってしまう。不安、或いは駆け引き、といった心理的抵抗はとっくの昔になくなっているけれど、今では、物理的な距離、そして飽きられることへの恐怖が何よりも大きな障壁となっているのだった。もし、突然瞬の家に押し掛けたら、彼はどんな反応をするだろう?
それはそれとして、今日はどうやって過ごそうか。
そうだ、下の階の女の子のところに行ってみよう。週末だから、ご両親も在宅だろうか。私はまだ、彼女の名前すら知らないのだ。これを機会に、ご近所付き合いというものをしてみるのもいいかもしれない。何事も挑戦。俄然気分が高まってきた。
それなりの服装に着替え、エレベーターで三十階まで降りて、彼女の部屋のチャイムを鳴らす。
しかし、しばらく待っても返事はなかった。
扉の向こうは寂せきとして、人の気配が全く感じられない。
やっぱり家族で外出されたのかもしれない。こればかりは仕方のないことだ。きっと彼女も、ご両親と一緒に過ごす休日を楽しんでいることだろう。
私は自分の部屋に戻り、その日の午後は次回の講義のために必要な参考文献に目を通すなどして過ごした。
空の青が深い紺色に変わり始めたころ、私は大変なことに気付いてしまった。
今日が小雨の誕生日であることをすっかり忘れていたのだ。ここ数日のベランダ騒ぎで、それどころではなかったから。
私は急いで小雨におめでとうのLINEを送り、部屋を飛び出した。誕生日プレゼントを買ってこなければ。
どんなものがいいだろう。それさえまだ決まっていない。そんな心の余裕がなかったんだから仕方ない、と、自分にフォローを入れる。何を贈るか、歩きながら考えなくては。しかし、ここから歩いていける範囲にある店では買える物が限られてしまうし、プレゼントが被る危険性も増してしまう。こんなことなら、やっぱり瞬とのデートを今日にして、彼の車で郊外のショッピングモールにでも行くべきだった。いや、ダメ元で、今から瞬に車で来てもらおうか?
さすがに迷惑?
エレベーターの扉が開き、一階に降り立つと、エントランスから吹き込むひんやりとした風が頬を撫でる。ここ数日、昼間はしっとり汗をかくような陽気でも、日が暮れるとめっきり風が涼しく感じられるようになった。長かった残暑ももうすぐ終わり、本格的な秋の足音が聞こえてくる予感。
「おや、西野園さん、これから夕食ですか」
管理人室から、田中さんが白い歯を覗かせる。この人はいつ食事を摂っているのだろう。朝、昼、夕、いつ通っても必ずここにいる。私のベランダの件なんかより、こちらの方がよっぽどミステリーかもしれない。
「いえ、ちょっと、買い物に……」
「そうそう、西野園さん、その後、例の不審者の件はどうです?」
「……ああ、あれでしたら、下の階の女の子の悪戯だったみたいで……大変お騒がせして、申し訳ありません」
「え? 下の階の……女の子?」
「はい、私の部屋の真下の……」
田中さんは怪訝そうな表情で首を傾げた。
「はて、あそこは今空き部屋になっているはずですが……」
「……えっ?」
田中さんは、慎重に言葉を選びながら、いつになく訥々と語り始める。
「西野園さんがいらっしゃる前の年でしたか……それまでは、確かに中学生の女の子と、そのご両親が暮らしていたんですけどね。その女の子が、飲酒運転のトラックに轢かれて、亡くなったんですよ。まったくひどい話です。少し大人びた雰囲気の、綺麗な女の子でね。勉強もできる大人しい子だったんですが、とりわけピアノが上手で、ベートーベンの……ほら、なんと言いましたか……」
「『月光ソナタ』……?」
「そうそう、それです。その曲が好きで、よく演奏していたそうですよ。事故現場はもう、それはそれは酷い有り様で……手足なんかはもう、みんなおかしな方向に……いや、失礼、これは余計でしたな。それで、娘さんを亡くされたご両親は大変心を痛められて、娘との思い出の詰まったこの部屋にはもう辛くて住めない、と仰って、程なくして引っ越して行かれたんです。それ以来、あの部屋には新しい住人は入っておりません。いや、しかし、もし人の気配がするということであれば、念のため私が……」
その日以来、ベランダから視線を感じることはなくなった。
後日、田中さんに聞いた話では、確かに彼女があの部屋で暮らしていた時期、何度か、女の子を模して作られた人形が何者かの手によって地面に落とされていた、という事件があったらしい。
地面に墜落してバラバラになったその人形は、プラ板を加工して作った体の表面を石粒粘土で固めただけのシンプルな造りではあったものの、光沢のある黒い糸で再現された長い黒髪と、うっすらと施された化粧、そして何より、体の内部に仕込まれていた血糊のせいで、妙にリアルで生々しく、周辺住民に大変気味悪がられたそうだ。
だが、その人形落下事件も、一昨年のある時期を境にぱったりと止んだ。人形を造った人物も、また落とした人物も、未だに判明していない。
今となっては最早、真相は闇の中である。
今日は土曜日。大学も休みだし、これといった予定もない。 瞬とのデートは明日。今日は一日フリーだ。
暇人の朝は遅い。私が化粧台の前で目を覚ましたのは昼過ぎのことだった。ゆっくり休めるのはいいことだけれど、休日には瞬に会うために口実とか約束とかいうまどろっこしいものが必要になってしまう。不安、或いは駆け引き、といった心理的抵抗はとっくの昔になくなっているけれど、今では、物理的な距離、そして飽きられることへの恐怖が何よりも大きな障壁となっているのだった。もし、突然瞬の家に押し掛けたら、彼はどんな反応をするだろう?
それはそれとして、今日はどうやって過ごそうか。
そうだ、下の階の女の子のところに行ってみよう。週末だから、ご両親も在宅だろうか。私はまだ、彼女の名前すら知らないのだ。これを機会に、ご近所付き合いというものをしてみるのもいいかもしれない。何事も挑戦。俄然気分が高まってきた。
それなりの服装に着替え、エレベーターで三十階まで降りて、彼女の部屋のチャイムを鳴らす。
しかし、しばらく待っても返事はなかった。
扉の向こうは寂せきとして、人の気配が全く感じられない。
やっぱり家族で外出されたのかもしれない。こればかりは仕方のないことだ。きっと彼女も、ご両親と一緒に過ごす休日を楽しんでいることだろう。
私は自分の部屋に戻り、その日の午後は次回の講義のために必要な参考文献に目を通すなどして過ごした。
空の青が深い紺色に変わり始めたころ、私は大変なことに気付いてしまった。
今日が小雨の誕生日であることをすっかり忘れていたのだ。ここ数日のベランダ騒ぎで、それどころではなかったから。
私は急いで小雨におめでとうのLINEを送り、部屋を飛び出した。誕生日プレゼントを買ってこなければ。
どんなものがいいだろう。それさえまだ決まっていない。そんな心の余裕がなかったんだから仕方ない、と、自分にフォローを入れる。何を贈るか、歩きながら考えなくては。しかし、ここから歩いていける範囲にある店では買える物が限られてしまうし、プレゼントが被る危険性も増してしまう。こんなことなら、やっぱり瞬とのデートを今日にして、彼の車で郊外のショッピングモールにでも行くべきだった。いや、ダメ元で、今から瞬に車で来てもらおうか?
さすがに迷惑?
エレベーターの扉が開き、一階に降り立つと、エントランスから吹き込むひんやりとした風が頬を撫でる。ここ数日、昼間はしっとり汗をかくような陽気でも、日が暮れるとめっきり風が涼しく感じられるようになった。長かった残暑ももうすぐ終わり、本格的な秋の足音が聞こえてくる予感。
「おや、西野園さん、これから夕食ですか」
管理人室から、田中さんが白い歯を覗かせる。この人はいつ食事を摂っているのだろう。朝、昼、夕、いつ通っても必ずここにいる。私のベランダの件なんかより、こちらの方がよっぽどミステリーかもしれない。
「いえ、ちょっと、買い物に……」
「そうそう、西野園さん、その後、例の不審者の件はどうです?」
「……ああ、あれでしたら、下の階の女の子の悪戯だったみたいで……大変お騒がせして、申し訳ありません」
「え? 下の階の……女の子?」
「はい、私の部屋の真下の……」
田中さんは怪訝そうな表情で首を傾げた。
「はて、あそこは今空き部屋になっているはずですが……」
「……えっ?」
田中さんは、慎重に言葉を選びながら、いつになく訥々と語り始める。
「西野園さんがいらっしゃる前の年でしたか……それまでは、確かに中学生の女の子と、そのご両親が暮らしていたんですけどね。その女の子が、飲酒運転のトラックに轢かれて、亡くなったんですよ。まったくひどい話です。少し大人びた雰囲気の、綺麗な女の子でね。勉強もできる大人しい子だったんですが、とりわけピアノが上手で、ベートーベンの……ほら、なんと言いましたか……」
「『月光ソナタ』……?」
「そうそう、それです。その曲が好きで、よく演奏していたそうですよ。事故現場はもう、それはそれは酷い有り様で……手足なんかはもう、みんなおかしな方向に……いや、失礼、これは余計でしたな。それで、娘さんを亡くされたご両親は大変心を痛められて、娘との思い出の詰まったこの部屋にはもう辛くて住めない、と仰って、程なくして引っ越して行かれたんです。それ以来、あの部屋には新しい住人は入っておりません。いや、しかし、もし人の気配がするということであれば、念のため私が……」
その日以来、ベランダから視線を感じることはなくなった。
後日、田中さんに聞いた話では、確かに彼女があの部屋で暮らしていた時期、何度か、女の子を模して作られた人形が何者かの手によって地面に落とされていた、という事件があったらしい。
地面に墜落してバラバラになったその人形は、プラ板を加工して作った体の表面を石粒粘土で固めただけのシンプルな造りではあったものの、光沢のある黒い糸で再現された長い黒髪と、うっすらと施された化粧、そして何より、体の内部に仕込まれていた血糊のせいで、妙にリアルで生々しく、周辺住民に大変気味悪がられたそうだ。
だが、その人形落下事件も、一昨年のある時期を境にぱったりと止んだ。人形を造った人物も、また落とした人物も、未だに判明していない。
今となっては最早、真相は闇の中である。
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