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第5話 勇者、闇の巣窟に潜入する
〜3〜
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女の子も仕事に戻ったことだし、俺はゼロ番街の視察を終えて事務所に帰ろうとした。
しかし、ニーアは身も心も疲れ切った俺をゼロ番街の店に引き摺って行く。市の課長がゼロ番街を把握しておけと言ったのだから店を見ておく必要がある、という理屈らしい。
ウラガノとニーアの会話を思い出すと、ゼロ番街で何か問題があった時、市は知らんぷりをするけど国の勇者は対処しろ、というような内容だった気がする。問題しかない街を俺に押し付けるな。
そもそも、今この時間だって市の職員のニーアには残業代が出ているが、俺には出ない。無給のサービス残業中だ。
「大丈夫です。知り合いがいる店なので」
何が大丈夫なのか知らないが、ニーアは表面だけ城を貼り付けたような派手な店の前で足を止めた。
目が痛いほど暴力的に光る装飾が施された扉を開けると、中も白銀の光に満ちていた。広い店内を区切るように仕切りが並んでいて、テーブルとソファーが並んでいるのが辛うじて見えるが、目が開けられない。その眩しさに目が慣れる前に、赤いスーツを着た細身の男がニーアと俺の前に躍り出て来た。
「はい!ご新規様!エデンへご招待しまー……うわッ」
男は勇者の俺ではなく、ニーアを見て叫び声を上げた。体を反らしてニーアに顔が見えないように両手で隠す。
「何だよ……何しに来たんだよ。お前、こんなとこ来るキャラじゃねーだろ」
「ニーアの知り合いか?」
「はい。リトルスクールの時の」
俺が尋ねると、ニーアが乾いた声で教えてくれる。
リトルスクールは、ヴィルドルク国の義務教育施設で、俺の前世でいうと小学校のようなものだ。
俺はリトルスクールで友達ができなかったが、例えば前世で、小学校の同級生がホストになっていて、エデンにご招待されたらどんな気分になるか少し考えた。
ニーアがゼロ番街に来るのを嫌がったのは、潔癖で水商売を嫌悪しているからではなく、同級生と会ってお互い気まずくなるからだと思う。
「お店の様子が見たいので、席を用意してくれませんか?エデンじゃなくていいので」
「お前、馬鹿にしてんのか!うちのババァに余計なこと言うんじゃねーぞ!」
ホストに怒鳴られながら、ニーアと俺は店の奥の隠れた階段を3階分くらい上って、小部屋に案内された。どうやらここはエデンではないらしい。
1階の内装と比べると落ち着いた調度品でまとめられた室内で、チープながら高級ホテルのような雰囲気の部屋だ。ソファーとテーブルとベッドがあって、大金を持っている客がホストと一対一で楽しむのだろう。
部屋の一面は劇場のバルコニー席のようになっていて、吹き抜けになった一階の店を上から見下ろせるようになっている。階下の店内ではぽつぽつと客が入り始めて、徐々に賑わっていた。
テンションの高いホストと女性客の歓声がここまで聞こえて来る。前世でも現世でも、大人の店に入るのは始めてだから、遊園地みたいで面白い。
1つ文句を言わせてもらえるなら、ホストクラブではなくて女の子がいる店に行きたい。
この店の事はもうわかったから、次は女の子がいる店の営業を確認したい。そして、いい機会だから覆面客として市民の目線に立って体験したい。
俺が勤勉な提案をしたというのに、ニーアは鋭い緑の目で俺を見ていた。
「不名誉な事に、ここ数年で『ホーリアのゼロ番街』は国内でも指折りの歓楽街になっています。だから、働いている人間はプロです。ペルラはリトルスクールではお漏らしばかりしていましたが、ここでは引っ掛かった男を皆、一文無しにしていますし」
ニーアはオタクっぽいと言われた事を根に持っているのか、言わなくていいペルラの恥を打ち明けつつ、俺が着ているマントを引き剥がした。
「ミミーは手癖が悪い子なので、街の外では近付かないようにしてください」
ニーアがマントを振ると、ミミ-の名刺がバラバラと床に落ちる。
べたべた抱き着いて来る子だと思っていたが、気配もなく名刺を入れてくるとは。勇者の俺でも気付かなかった。盗みなら敵意を察して止められると思うが、どうも自信が無くなってくる。
「痛い目に遭いたくなかったら、大人しく見学をしていてください」
「……」
大人のテーマパークで大人しく見学していろとは、ニーアも酷な事を言う。
仕事で来ているからニーアの言う事を聞くべきだと頭では理解しているが、俺の10代の好奇心が頷く事を拒否していた。
「ニーア!勝手に見学してねーでツラ見せろって。店長が呼んでる」
俺が理性と好奇心に挟まれて唸っていると、部屋の扉が開けられてさっきのホストが入って来た。服も髪型も派手だが、良く見ればニーアと同じ年くらいのようだ。
「仕事で来てるって言っておいてください」
「だから、公僕が何の用だってうるせぇんだよ」
「……わかりました。勇者様、ここにいてくださいね」
ニーアは俺にそう言って、ホストの後に付いて部屋を出て行く。
せっかくの歓楽街だと言うのに、俺は1人、酒もホストもいない店内に残された。こんな所に置いてあるベッドで1人で寝る気になれなくて、バルコニーに出て欄干に寄りかかって店の営業を眺めた。
ホストが席に座って距離が近い接客をする以外は、料理と酒を出す普通の飲食店だ。
その後、どこまで接客を深めるかは客と店員が交渉して決めている。階下の騒めきから魔法で声を抜き出すと、金と相性次第でどんなサービスでもしてくれるようだ。
女の子の店でも同じシステムなのかどうか、後で確認して財布と相談しておこう。
しばらく賑やかな階下の声に耳を澄ましていたが、それにも飽きて部屋に戻ろうとした時、壁で仕切られた隣の部屋のバルコニーから手が伸びて来てきた。
俺のいるバルコニーの欄干に、ショットグラスがこつん、と置かれる。闇色の細い爪をした指がすっとそれを押すと、俺の肘まで滑って来た。
グラスの中には透明な紫色をした酒が入っていた。持ち上げて店の明かりに透かすと、キラキラと紫の欠片が光ってグラスの中で蝶のように舞っている。
「飲まないの?」
「仕事で来てるんだ」
聞こえた女性の声に俺が返事をすると、隣のバルコニーから身を乗り出して、壁の向こうから声の主が顔を出した。
腰までありそうな長い黒髪が、絹のカーテンのように広がって白い顔を隠す。青い目は氷のように冷たく光っていたが、子供のようにバルコニーの隙間から足を出して揺らしていて、黒いドレスが白い腿に纏わりついていた。
ニーアよりも5歳くらいは年上に見える。藍色の口紅を塗った顔は、精神年齢が今の姿よりもずっと上の俺でも怯む程大人の色気がある。
ゼロ番街のどこかの店で働いているのなら、後で行くから教えて欲しいところだ。しかし、ミミ-やペルラのような子とレベルが違って見えたし、だからといってもこのホストクラブの上客にも見えなかった。
「勇者って、案外、慎重派なのね」
そう言った彼女は、同じ液体に満ちたショットグラスを目の高さで揺らして、そのまま一気に飲み干した。馬鹿にされているような気がして、俺もグラスを掴んで口を付ける。
しかし、唇に液体が付いて、すぐに後悔した。
これは、酒ではない。ホーリア名物の魔術で使うハーブを極限まで煮詰めた液体だ。
スプーン1杯くらいを根性試しで舌の上に乗せて遊んでいるのを勇者養成学校で見た事がある。そうやってはしゃいでいた馬鹿2人が、再起不能になって退学していった。
しかし、俺は首席卒業だ。この程度の量なら魔術で無害化できる。平気なフリをして喉に押し込んで空になったグラスを欄干を滑らせて相手に返した。
「勇者様、名前は?」
空になったグラスをキャッチして、女性は自分が持っていたグラスと並べた。足元にあった瓶を掴んで、2つ並んだグラスにまた紫の液体をなみなみと満たす。
「ホーリア。街付は街の名前を名乗る決まりだ」
「そう。つまんないの」
「尋ねておいて、名乗らないのか?」
俺が尋ねると、液体で満たされたグラスが戻って来た。
「リコリス」
冷たい声でそう名乗ると、リコリスは自分のグラスを持ち上げて喉を晒して一息で空にした。
これは、俺も負けられない。だから、グラスを掴んで息を止めて中身を飲み干す。普通の人間の致死量はとっくに超えていて、2杯も飲めば声も出さずに死ぬだろう。グラスを返すと、またすぐに紫で満たされて戻って来た。
「勇者様、仕事はどう?」
今度は、リコリスは自分のグラスを飲み干してから俺に聞いて来た。張り合う所では無いが、こんなところで負けたら勇者の名が廃る。手が震えてくるのを隠してグラスを返すと、間髪入れずに戻って来る。
どちらかが倒れるまで終わらないパターンだ。リコリスの方は、シロップでも味わうようにグラスの縁を赤い舌でペロリと舐めて、余裕そうに見えた。
「順調だ」
「魔獣と共生するんだって?」
「そう」
「それって、勇者がいる意味ないわね」
リコリスが、皆が気付いていたけれども誰も言わないでいてくれた事をはっきり言ってしまった。
内々の理由として、俺を解雇すると多分副市長がオグオンに消されるとか、首席で卒業してクビになった勇者を養成校が生かしておくはずがないとか。深刻な理由が色々あるが、一般人に教える事ではない。
俺は、6杯目になるグラスを空にした。
「勇者は魔獣を倒すだけが仕事じゃない」
無害化が間に合わなくなって来たから、口内から胃まで防御魔法の膜を張ることで防いだ。全く問題ない。
リコリスは、さっきから同じ量を飲んでいるのに顔色1つ変えていない。俺と同じ方法で防いでいるのか、もしかしたら、俺が揶揄われているだけで、リコリスの飲んでいるのはただのシロップなのかもしれない。だとしたら俺はとんだ道化だ。
「市民の平和を守るのが仕事だ」
「そう。期待してるわ」
リコリスが俺が返したグラスと自分のグラスを掌でまとめて受け止めて、がしゃん、とガラスが割れる音がした。
リコリスは欄干に凭れていた体を揺らして、瓶を片手にバルコニーから部屋に入っていく。
隣の部屋のドアが開く音がして、俺もバルコニーから部屋に戻る。ニーアに床に捨てられたマントを着直して廊下に出ると、青いドレスのぺルラが廊下に出たリコリスに駆け寄るところだった。
「御姉様。言われた通り、勇者のお迎えをしました」
「ありがとう。もういいわ」
リコリスの後について行こうとしたペルラは俺に気付いたが、先程とは打って変わって、金を払っていない奴に一切興味が無い様子だった。
しかし、俺が口を抑えているのとリコリスがぶら下げた瓶とを見比べて、哀れみの表情に変わる。
「下から出すなら部屋のトイレ。上から出すなら店出て裏行って」
勇者の俺が、まさか情けない姿は見せるわけにはいかない。だから部屋に戻ろうとしたが、やっぱり諦めて階段を駆け下りた。
しかし、ニーアは身も心も疲れ切った俺をゼロ番街の店に引き摺って行く。市の課長がゼロ番街を把握しておけと言ったのだから店を見ておく必要がある、という理屈らしい。
ウラガノとニーアの会話を思い出すと、ゼロ番街で何か問題があった時、市は知らんぷりをするけど国の勇者は対処しろ、というような内容だった気がする。問題しかない街を俺に押し付けるな。
そもそも、今この時間だって市の職員のニーアには残業代が出ているが、俺には出ない。無給のサービス残業中だ。
「大丈夫です。知り合いがいる店なので」
何が大丈夫なのか知らないが、ニーアは表面だけ城を貼り付けたような派手な店の前で足を止めた。
目が痛いほど暴力的に光る装飾が施された扉を開けると、中も白銀の光に満ちていた。広い店内を区切るように仕切りが並んでいて、テーブルとソファーが並んでいるのが辛うじて見えるが、目が開けられない。その眩しさに目が慣れる前に、赤いスーツを着た細身の男がニーアと俺の前に躍り出て来た。
「はい!ご新規様!エデンへご招待しまー……うわッ」
男は勇者の俺ではなく、ニーアを見て叫び声を上げた。体を反らしてニーアに顔が見えないように両手で隠す。
「何だよ……何しに来たんだよ。お前、こんなとこ来るキャラじゃねーだろ」
「ニーアの知り合いか?」
「はい。リトルスクールの時の」
俺が尋ねると、ニーアが乾いた声で教えてくれる。
リトルスクールは、ヴィルドルク国の義務教育施設で、俺の前世でいうと小学校のようなものだ。
俺はリトルスクールで友達ができなかったが、例えば前世で、小学校の同級生がホストになっていて、エデンにご招待されたらどんな気分になるか少し考えた。
ニーアがゼロ番街に来るのを嫌がったのは、潔癖で水商売を嫌悪しているからではなく、同級生と会ってお互い気まずくなるからだと思う。
「お店の様子が見たいので、席を用意してくれませんか?エデンじゃなくていいので」
「お前、馬鹿にしてんのか!うちのババァに余計なこと言うんじゃねーぞ!」
ホストに怒鳴られながら、ニーアと俺は店の奥の隠れた階段を3階分くらい上って、小部屋に案内された。どうやらここはエデンではないらしい。
1階の内装と比べると落ち着いた調度品でまとめられた室内で、チープながら高級ホテルのような雰囲気の部屋だ。ソファーとテーブルとベッドがあって、大金を持っている客がホストと一対一で楽しむのだろう。
部屋の一面は劇場のバルコニー席のようになっていて、吹き抜けになった一階の店を上から見下ろせるようになっている。階下の店内ではぽつぽつと客が入り始めて、徐々に賑わっていた。
テンションの高いホストと女性客の歓声がここまで聞こえて来る。前世でも現世でも、大人の店に入るのは始めてだから、遊園地みたいで面白い。
1つ文句を言わせてもらえるなら、ホストクラブではなくて女の子がいる店に行きたい。
この店の事はもうわかったから、次は女の子がいる店の営業を確認したい。そして、いい機会だから覆面客として市民の目線に立って体験したい。
俺が勤勉な提案をしたというのに、ニーアは鋭い緑の目で俺を見ていた。
「不名誉な事に、ここ数年で『ホーリアのゼロ番街』は国内でも指折りの歓楽街になっています。だから、働いている人間はプロです。ペルラはリトルスクールではお漏らしばかりしていましたが、ここでは引っ掛かった男を皆、一文無しにしていますし」
ニーアはオタクっぽいと言われた事を根に持っているのか、言わなくていいペルラの恥を打ち明けつつ、俺が着ているマントを引き剥がした。
「ミミーは手癖が悪い子なので、街の外では近付かないようにしてください」
ニーアがマントを振ると、ミミ-の名刺がバラバラと床に落ちる。
べたべた抱き着いて来る子だと思っていたが、気配もなく名刺を入れてくるとは。勇者の俺でも気付かなかった。盗みなら敵意を察して止められると思うが、どうも自信が無くなってくる。
「痛い目に遭いたくなかったら、大人しく見学をしていてください」
「……」
大人のテーマパークで大人しく見学していろとは、ニーアも酷な事を言う。
仕事で来ているからニーアの言う事を聞くべきだと頭では理解しているが、俺の10代の好奇心が頷く事を拒否していた。
「ニーア!勝手に見学してねーでツラ見せろって。店長が呼んでる」
俺が理性と好奇心に挟まれて唸っていると、部屋の扉が開けられてさっきのホストが入って来た。服も髪型も派手だが、良く見ればニーアと同じ年くらいのようだ。
「仕事で来てるって言っておいてください」
「だから、公僕が何の用だってうるせぇんだよ」
「……わかりました。勇者様、ここにいてくださいね」
ニーアは俺にそう言って、ホストの後に付いて部屋を出て行く。
せっかくの歓楽街だと言うのに、俺は1人、酒もホストもいない店内に残された。こんな所に置いてあるベッドで1人で寝る気になれなくて、バルコニーに出て欄干に寄りかかって店の営業を眺めた。
ホストが席に座って距離が近い接客をする以外は、料理と酒を出す普通の飲食店だ。
その後、どこまで接客を深めるかは客と店員が交渉して決めている。階下の騒めきから魔法で声を抜き出すと、金と相性次第でどんなサービスでもしてくれるようだ。
女の子の店でも同じシステムなのかどうか、後で確認して財布と相談しておこう。
しばらく賑やかな階下の声に耳を澄ましていたが、それにも飽きて部屋に戻ろうとした時、壁で仕切られた隣の部屋のバルコニーから手が伸びて来てきた。
俺のいるバルコニーの欄干に、ショットグラスがこつん、と置かれる。闇色の細い爪をした指がすっとそれを押すと、俺の肘まで滑って来た。
グラスの中には透明な紫色をした酒が入っていた。持ち上げて店の明かりに透かすと、キラキラと紫の欠片が光ってグラスの中で蝶のように舞っている。
「飲まないの?」
「仕事で来てるんだ」
聞こえた女性の声に俺が返事をすると、隣のバルコニーから身を乗り出して、壁の向こうから声の主が顔を出した。
腰までありそうな長い黒髪が、絹のカーテンのように広がって白い顔を隠す。青い目は氷のように冷たく光っていたが、子供のようにバルコニーの隙間から足を出して揺らしていて、黒いドレスが白い腿に纏わりついていた。
ニーアよりも5歳くらいは年上に見える。藍色の口紅を塗った顔は、精神年齢が今の姿よりもずっと上の俺でも怯む程大人の色気がある。
ゼロ番街のどこかの店で働いているのなら、後で行くから教えて欲しいところだ。しかし、ミミ-やペルラのような子とレベルが違って見えたし、だからといってもこのホストクラブの上客にも見えなかった。
「勇者って、案外、慎重派なのね」
そう言った彼女は、同じ液体に満ちたショットグラスを目の高さで揺らして、そのまま一気に飲み干した。馬鹿にされているような気がして、俺もグラスを掴んで口を付ける。
しかし、唇に液体が付いて、すぐに後悔した。
これは、酒ではない。ホーリア名物の魔術で使うハーブを極限まで煮詰めた液体だ。
スプーン1杯くらいを根性試しで舌の上に乗せて遊んでいるのを勇者養成学校で見た事がある。そうやってはしゃいでいた馬鹿2人が、再起不能になって退学していった。
しかし、俺は首席卒業だ。この程度の量なら魔術で無害化できる。平気なフリをして喉に押し込んで空になったグラスを欄干を滑らせて相手に返した。
「勇者様、名前は?」
空になったグラスをキャッチして、女性は自分が持っていたグラスと並べた。足元にあった瓶を掴んで、2つ並んだグラスにまた紫の液体をなみなみと満たす。
「ホーリア。街付は街の名前を名乗る決まりだ」
「そう。つまんないの」
「尋ねておいて、名乗らないのか?」
俺が尋ねると、液体で満たされたグラスが戻って来た。
「リコリス」
冷たい声でそう名乗ると、リコリスは自分のグラスを持ち上げて喉を晒して一息で空にした。
これは、俺も負けられない。だから、グラスを掴んで息を止めて中身を飲み干す。普通の人間の致死量はとっくに超えていて、2杯も飲めば声も出さずに死ぬだろう。グラスを返すと、またすぐに紫で満たされて戻って来た。
「勇者様、仕事はどう?」
今度は、リコリスは自分のグラスを飲み干してから俺に聞いて来た。張り合う所では無いが、こんなところで負けたら勇者の名が廃る。手が震えてくるのを隠してグラスを返すと、間髪入れずに戻って来る。
どちらかが倒れるまで終わらないパターンだ。リコリスの方は、シロップでも味わうようにグラスの縁を赤い舌でペロリと舐めて、余裕そうに見えた。
「順調だ」
「魔獣と共生するんだって?」
「そう」
「それって、勇者がいる意味ないわね」
リコリスが、皆が気付いていたけれども誰も言わないでいてくれた事をはっきり言ってしまった。
内々の理由として、俺を解雇すると多分副市長がオグオンに消されるとか、首席で卒業してクビになった勇者を養成校が生かしておくはずがないとか。深刻な理由が色々あるが、一般人に教える事ではない。
俺は、6杯目になるグラスを空にした。
「勇者は魔獣を倒すだけが仕事じゃない」
無害化が間に合わなくなって来たから、口内から胃まで防御魔法の膜を張ることで防いだ。全く問題ない。
リコリスは、さっきから同じ量を飲んでいるのに顔色1つ変えていない。俺と同じ方法で防いでいるのか、もしかしたら、俺が揶揄われているだけで、リコリスの飲んでいるのはただのシロップなのかもしれない。だとしたら俺はとんだ道化だ。
「市民の平和を守るのが仕事だ」
「そう。期待してるわ」
リコリスが俺が返したグラスと自分のグラスを掌でまとめて受け止めて、がしゃん、とガラスが割れる音がした。
リコリスは欄干に凭れていた体を揺らして、瓶を片手にバルコニーから部屋に入っていく。
隣の部屋のドアが開く音がして、俺もバルコニーから部屋に戻る。ニーアに床に捨てられたマントを着直して廊下に出ると、青いドレスのぺルラが廊下に出たリコリスに駆け寄るところだった。
「御姉様。言われた通り、勇者のお迎えをしました」
「ありがとう。もういいわ」
リコリスの後について行こうとしたペルラは俺に気付いたが、先程とは打って変わって、金を払っていない奴に一切興味が無い様子だった。
しかし、俺が口を抑えているのとリコリスがぶら下げた瓶とを見比べて、哀れみの表情に変わる。
「下から出すなら部屋のトイレ。上から出すなら店出て裏行って」
勇者の俺が、まさか情けない姿は見せるわけにはいかない。だから部屋に戻ろうとしたが、やっぱり諦めて階段を駆け下りた。
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