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第15話 勇者、過去と対峙する
〜3〜
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事務所のキッチンで、俺はタコのような生物を前に思い悩んでいた。
流しの中から逃げ出そうと元気に触手を動かしているこの生き物は、プリスタスの漁師に「勇者様、これ持って行きなよ!」と押し付けられたものだ。
断ったのに無理矢理渡されて持って帰って来てしまった。初めて一般市民に勇者らしい扱いをされて少し浮かれてしまったのかもしれない。
プリスタス育ちのクラウィスなら調理方法がわかるだろうが、しばらく帰省して不在だ。刺身で食べるなら新鮮なうちに調理しなくては。
「勇者様……」
キッチンに入って俺を呼びかけたニーアは険しい顔をしている。
ホーリア育ちのニーアはタコを見るのが初めてだったようで、珍しく甲高い叫び声を上げて、大いに不評だった。
俺だってもっと気の利いた土産を持ち帰りたかったが、金が無いのだから仕方ない。
そんな心配をしなくても、大抵の物は火を通せば食べられる。何ならペットとして飼ってもいい。ニーアだって、慣れれば可愛く見えてくるはずだ。
「その不気味な生物の話じゃなくて、あの人の事です」
ニーアは料理本を捲っている俺をリビングの入り口まで引っ張って行って、テラスにいるティータを指差した。
彼女は、プリスタス生まれで長く国外に出ていたが、先日数十年ぶりに故郷に戻って来た。今は1人暮らしで土産物屋とか漁の手伝いをしたりして暮らしている。そして、十数年前のある雪の日、当時の夫からの暴力と生活苦から、生まれた子供を教会に捨ててしまったと言う。
「耳もやってほしいのだー」
「あらあら、わかったわ。綺麗にしましょうね」
ティータは優しい手付きで膝に乗るコルダのブラッシングをしていて、コルダはご機嫌に尻尾をぶんぶん振っている。
事務所の番犬にもならないコルダだが、あそこまで懐くのは珍しい。何の問題も無いだろう。
「どうして連れて来ちゃったんですか?」
「俺の母親だって言うから」
ティータは伸ばしたままの茶色い髪をして地味な格好をしていたが、コルダを撫でる手付きは柔らかく、優しい瞳で見下ろしていた。多分、多くの人間が考える母親像を人型にしたら、ティータのような姿になると思う。
「そもそも、あんた、デュランって名前なの?」
知らない人が事務所に入って来て、リリーナも何事かと自室から出て来ていた。タコに怯えてキッチンにいる時は俺から離れていたが、今は俺の後ろに隠れてティータを疑わしそうに睨み付けている。
「いや、違うけど」
「ますます疑わしいじゃないですか。本当に、勇者様の御母様なんですか?」
「でも、そうだったらいいなと思ったんだ」
「そんなぼんやりした理由で知らない人を事務所に入れないでよ!」
「デュラン。あなたの髪もとかしてあげましょうか……あら、あなたも。綺麗な白い髪」
リリーナの大声で俺たちに気付いたティータが、リリーナに穏やかな声をかけた。
意外にもリリーナは「結構よ。田舎者に手入れしてもらうほど落ちぶれてないわ」と敵意をむき出しにしたままきっぱりと言う。
しかし、姿は俺の後ろに隠れたままで、ティータには絶対に聞こえない声量だった。
「勇者様、この事務所は一応職場なんですから、無関係な人を入れないでください」
もちろん、俺は部外者に仕事の資料を見せるほど愚かではない。ティータをここに連れて来たのは、俺の財布が空で宿代を出せないという深刻な理由があるからだ。ホーリア市が俺に残業代をちゃんと支払っていれば、こんな事にはならなかったのに。
俺がそう答えようとした時、ブラッシングで毛並が綺麗に整えられたコルダが2階の部屋に駆けて、何かを持って戻って来た。
「コルダの日記見てーなのだ。コルダ、ちゃんと文字の練習してるのだ」
「あらあら、上手。がんばってるのね」
「のだー」
ティータが捲っているのは、コルダの絵日記ではなく俺の報告書だ。ティータから取り上げようと俺がリビングに入ると、最初の方のページに気付いたティータが俺に柔らかい茶色い瞳を向けた。
「あら、デュランも。ちゃんとお料理しているのね」
「でもー勇者様、最近は全然やってないのだ。職務放棄なのだー」
「勇者の仕事は料理じゃない。魔獣退治だ」
「あらあら、そんな大変な仕事をしているのね……」
ティータの手が伸びて来て、俺の頭に乗った。何事かと思うと、ぽんぽんと頭が軽く撫でられる。
「でも、そんなに危ない仕事をしなくてもいいのよ……今までの分、私が一緒にいてあげるからね」
俺はキッチンに引き返して、コーヒーを淹れてティータの前に差し出す。大した情報も書いていない。俺の料理日記兼コルダの絵日記だ。ゆっくり読んでくれて構わない。
しばらくそれで楽しんでいてもらうことにして、俺は自室で寝ようとしたが、ニーアがマントを掴んで俺を止めた。
「ちょっと、どこに行くんですか?」
「昨日は一晩馬車を魔術で飛ばしていたから」
「凄いわ。デュランは魔法をそんなに使えるの?」
ティータが驚いた様子で言って、俺は当然と頷いた。魔術で馬車を飛ばして行くなど勇者の俺には楽勝だ。しかし、寝ながらでは不可能で徹夜だったから、そろそろ昼寝の時間だ。
「あらあら、それなら、デュランもここで一緒にお昼寝したら?」
そう言ってティータが俺に手招きをした。膝の上では、既にコルダが丸くなって寝息を立てている。
昼寝などどこでしても同じだから、お言葉に甘えようとソファーの下から昼寝用のタオルケットとクッションを引っ張り出していると、俺の後頭部がぺしん、と叩かれた。
勇者の俺を叩く不届き者は誰だと振り返ると、思った通りニーアが呆れた顔で俺を見下ろしている。
「勇者様……一度冷静になってください。勇者の親になりたい人は沢山いるんですよ」
ニーアに比べたら俺はいつでも冷静だ。白銀種のコルダの毛は、一房でもオークションに掛けられる程の価値があるし、獣人にそれをチラつかせるだけで従わせられる絶大な権力を持つ。コルダが寝ている間に、ティータが毛を切り取らないように俺が見張らなくては。
「それならコルダさんを引き離せばいいじゃないですか」
あれだけ懐いているコルダを引き離すのは可哀想だろう。
俺がそう言うと「だから獣人って馬鹿なのよ」とリリーナがまた絶対に聞こえない声でそう言った。
流しの中から逃げ出そうと元気に触手を動かしているこの生き物は、プリスタスの漁師に「勇者様、これ持って行きなよ!」と押し付けられたものだ。
断ったのに無理矢理渡されて持って帰って来てしまった。初めて一般市民に勇者らしい扱いをされて少し浮かれてしまったのかもしれない。
プリスタス育ちのクラウィスなら調理方法がわかるだろうが、しばらく帰省して不在だ。刺身で食べるなら新鮮なうちに調理しなくては。
「勇者様……」
キッチンに入って俺を呼びかけたニーアは険しい顔をしている。
ホーリア育ちのニーアはタコを見るのが初めてだったようで、珍しく甲高い叫び声を上げて、大いに不評だった。
俺だってもっと気の利いた土産を持ち帰りたかったが、金が無いのだから仕方ない。
そんな心配をしなくても、大抵の物は火を通せば食べられる。何ならペットとして飼ってもいい。ニーアだって、慣れれば可愛く見えてくるはずだ。
「その不気味な生物の話じゃなくて、あの人の事です」
ニーアは料理本を捲っている俺をリビングの入り口まで引っ張って行って、テラスにいるティータを指差した。
彼女は、プリスタス生まれで長く国外に出ていたが、先日数十年ぶりに故郷に戻って来た。今は1人暮らしで土産物屋とか漁の手伝いをしたりして暮らしている。そして、十数年前のある雪の日、当時の夫からの暴力と生活苦から、生まれた子供を教会に捨ててしまったと言う。
「耳もやってほしいのだー」
「あらあら、わかったわ。綺麗にしましょうね」
ティータは優しい手付きで膝に乗るコルダのブラッシングをしていて、コルダはご機嫌に尻尾をぶんぶん振っている。
事務所の番犬にもならないコルダだが、あそこまで懐くのは珍しい。何の問題も無いだろう。
「どうして連れて来ちゃったんですか?」
「俺の母親だって言うから」
ティータは伸ばしたままの茶色い髪をして地味な格好をしていたが、コルダを撫でる手付きは柔らかく、優しい瞳で見下ろしていた。多分、多くの人間が考える母親像を人型にしたら、ティータのような姿になると思う。
「そもそも、あんた、デュランって名前なの?」
知らない人が事務所に入って来て、リリーナも何事かと自室から出て来ていた。タコに怯えてキッチンにいる時は俺から離れていたが、今は俺の後ろに隠れてティータを疑わしそうに睨み付けている。
「いや、違うけど」
「ますます疑わしいじゃないですか。本当に、勇者様の御母様なんですか?」
「でも、そうだったらいいなと思ったんだ」
「そんなぼんやりした理由で知らない人を事務所に入れないでよ!」
「デュラン。あなたの髪もとかしてあげましょうか……あら、あなたも。綺麗な白い髪」
リリーナの大声で俺たちに気付いたティータが、リリーナに穏やかな声をかけた。
意外にもリリーナは「結構よ。田舎者に手入れしてもらうほど落ちぶれてないわ」と敵意をむき出しにしたままきっぱりと言う。
しかし、姿は俺の後ろに隠れたままで、ティータには絶対に聞こえない声量だった。
「勇者様、この事務所は一応職場なんですから、無関係な人を入れないでください」
もちろん、俺は部外者に仕事の資料を見せるほど愚かではない。ティータをここに連れて来たのは、俺の財布が空で宿代を出せないという深刻な理由があるからだ。ホーリア市が俺に残業代をちゃんと支払っていれば、こんな事にはならなかったのに。
俺がそう答えようとした時、ブラッシングで毛並が綺麗に整えられたコルダが2階の部屋に駆けて、何かを持って戻って来た。
「コルダの日記見てーなのだ。コルダ、ちゃんと文字の練習してるのだ」
「あらあら、上手。がんばってるのね」
「のだー」
ティータが捲っているのは、コルダの絵日記ではなく俺の報告書だ。ティータから取り上げようと俺がリビングに入ると、最初の方のページに気付いたティータが俺に柔らかい茶色い瞳を向けた。
「あら、デュランも。ちゃんとお料理しているのね」
「でもー勇者様、最近は全然やってないのだ。職務放棄なのだー」
「勇者の仕事は料理じゃない。魔獣退治だ」
「あらあら、そんな大変な仕事をしているのね……」
ティータの手が伸びて来て、俺の頭に乗った。何事かと思うと、ぽんぽんと頭が軽く撫でられる。
「でも、そんなに危ない仕事をしなくてもいいのよ……今までの分、私が一緒にいてあげるからね」
俺はキッチンに引き返して、コーヒーを淹れてティータの前に差し出す。大した情報も書いていない。俺の料理日記兼コルダの絵日記だ。ゆっくり読んでくれて構わない。
しばらくそれで楽しんでいてもらうことにして、俺は自室で寝ようとしたが、ニーアがマントを掴んで俺を止めた。
「ちょっと、どこに行くんですか?」
「昨日は一晩馬車を魔術で飛ばしていたから」
「凄いわ。デュランは魔法をそんなに使えるの?」
ティータが驚いた様子で言って、俺は当然と頷いた。魔術で馬車を飛ばして行くなど勇者の俺には楽勝だ。しかし、寝ながらでは不可能で徹夜だったから、そろそろ昼寝の時間だ。
「あらあら、それなら、デュランもここで一緒にお昼寝したら?」
そう言ってティータが俺に手招きをした。膝の上では、既にコルダが丸くなって寝息を立てている。
昼寝などどこでしても同じだから、お言葉に甘えようとソファーの下から昼寝用のタオルケットとクッションを引っ張り出していると、俺の後頭部がぺしん、と叩かれた。
勇者の俺を叩く不届き者は誰だと振り返ると、思った通りニーアが呆れた顔で俺を見下ろしている。
「勇者様……一度冷静になってください。勇者の親になりたい人は沢山いるんですよ」
ニーアに比べたら俺はいつでも冷静だ。白銀種のコルダの毛は、一房でもオークションに掛けられる程の価値があるし、獣人にそれをチラつかせるだけで従わせられる絶大な権力を持つ。コルダが寝ている間に、ティータが毛を切り取らないように俺が見張らなくては。
「それならコルダさんを引き離せばいいじゃないですか」
あれだけ懐いているコルダを引き離すのは可哀想だろう。
俺がそう言うと「だから獣人って馬鹿なのよ」とリリーナがまた絶対に聞こえない声でそう言った。
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