【完結】ある売れない作家の奇妙な体験

睦良 信彦

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第六章 悔恨 1

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 その翌日の朝のことであった。

 八王子横山署に二人の若い女性が出頭してきた。
 木村瀬里奈と怜里の姉妹であった。

 姉妹は署の窓口で、
「三年前に八王子市内のミライズマンションで起きた木村沙彩の転落死事件と、この度同マンションで発生した篠崎賢こと楢原豪乃介が死亡した事件についてお話したいことがあるので、担当の丸花刑事さんを呼んでください」
 と申し出た。

 それを知って驚いた当該署の丸花警部補は、二人から良く事情を聴いてから、上司とも相談の上姉妹を緊急逮捕した。

 楢原豪乃介の事件について、八王子横山署は楢原が事故死したものとして捜査を打ち切っていた。だが姉妹の話を聞くに及び、同署では姉妹が篠崎賢こと楢原豪乃介を殺害した疑いがあるとして、二人の緊急逮捕に踏み切ったのである。

 木村姉妹は、その後警察からそれぞれ別々に聴取を受けていた。

 楢原豪乃介が死亡した事件に関連して、西東京医療大学学生の木村瀬里奈とその妹の怜里が警察に身柄を拘束され事情聴取を受けていることについて、丸花は名高准教授に一報を入れた。

「三年前に起きた市内のマンション屋上からの女性の転落事故については、彼女たちが出してきた楢原犯人説の根拠を警察がすべて認めたわけではありません。しかし姉妹の訴えによって、三年前と違い現在の状況ではこの事故の事件性を否定できなくなったため、捜査をやり直す必要性が出てきました。

 このように姉妹の姉の木村沙彩を楢原が殺害した疑いが出てきたため、一方で姉妹が楢原を殺害する強い動機も初めて明らかとなったのです」

 電話口で丸花は名高にそう語った。

「そうですか。その件はぜひ真相を解明していただくよう、丸花さんにお願いします」
 名高は努めて冷静な態度で返した。

 瀬里奈とその妹の自首は、名高も考えなかったわけではない。何しろ昨晩は、瀬里奈に対して厳しいものの言い方で事件の核心に迫る自分の推理を言い渡したのだから。そしてその推理は、間違いなく真相を言い当てていると、その時名高は確信していた。

 だがこんなに急に二人が警察に出頭するとは名高にとって意外であり、彼の心中には少なからず動揺が走っていた。自分の大学の学生が殺人事件の犯人として扱われることになり、さすがに名高もそのことでは心を悩ませていたのだ。

 もともと事件の真相に迫る推理は、名高の方から瀬里奈に語り出したことではあった。だがその相手は自分の大学の学生なのだ。

 ものの言い方や話の順序にもう少し配慮が必要だったのではないかと、名高は今になって少なからぬ自責の念に駆られていた。

「楢原の事件における彼女たちの犯行の認否はどうでしたか」
 電話での会話の中で名高は訊ねたが、丸花は
「それはこれからの捜査に支障を来すため、現段階では明かせません」
 と、にべもなく答えを秘匿した。
「そうですか。分かりました……」

 そうして言葉少なに、名高は研究室の固定電話の受話器を置いた。彼は今、自分が成し遂げたことへの、迷いにも似た焦燥感に駆られていた。

 翌日は土曜日であった。

 名高は久しぶりに休日を取った。

 いつもは土日でも研究室に出てきて実験をしたり論文をまとめたりしているのだが、今日はどうしても外せない用事があった。ミステリー作家楢原豪乃介の妻美智を、沼津の自宅に訪問する予定があったのだ。

 美智は先日八王子にて丸花警部補立会いの下、ミライズマンションで脳挫傷により亡くなった篠崎賢こと楢原豪乃介の遺体と対面した。

 そうして夫楢原豪乃介の遺体を引き取り沼津の自宅に戻ってからも、美智は通夜、葬式とあわただしい日々を送ったばかりである。さぞやその心身にこたえたものであろうと、名高は察している。だがそのことを押してでも、楢原美智に話しておきたいことが名高にはあった。

 JR沼津駅を降り、市街地をタクシーで南西に走ると、千本浜公園の向こうに海が見えてくる。タクシーの窓をわずかに開けると、車内はたちまち潮の香りでいっぱいになった。

 楢原のマンションは、砂浜から歩いて十分ほどの海と富士の見える眺望の素晴らしい場所に建っていた。

 これまで美智とは縁もゆかりもなかった名高がここを訪れるのは、むろん今回が初めてのことであった。

 事前に電話でアポを取っていたので、楢原の妻美智は一人部屋で待っていた。

「はじめまして。西東京医療大学の名高と申します。先日はお電話でお話しできましたが、今日は僕のような者の突然の訪問にさぞやびっくりされたことでしょう」

 名高が言うように美智とは一度電話で話したことがあったが、二人が直接会うのはこれが初めてである。ドアが開いた玄関先で名高は名乗り、低姿勢で頭を上げぬまま唐突ともいえる訪問を詫びた。

 名高から差し出された名刺を見ながら、美智は作った笑顔の中にも相手を訝しがりやや躊躇する素振りをみせた。

「まあそこではなんですから、どうぞお上がりください」
 仕方なさそうに、中へ入るよう美智が招く。
「はあ、恐縮です」
 言いながら名高はようやく頭を上げると、八王子駅前で買った名産品の菓子折りを両手で美智に渡した。

 楢原の霊前に線香をあげたあと、名高はリビングに導かれた。

 廊下を移動する途中、ドアの閉まった部屋に何気なく目をやると、
「主人の部屋です。亡くなってからは何も手を付けず、そのままにしてあります」
と、美智が言った。

 リビングのソファーに身を沈めてようやく落ち着き、出されたお茶に畏まって口をつけていると、キッチンに一度引っ込んだ美智がまたリビングにやって来た。美智は名高の右手にある一人掛けのソファーに浅くかけ、伏目がちに名高と向き合った。

 室内はよく片付いていた。美智はもともとあまり物を買い込まないたちらしい。今名高が座っているソファーや応接セットを含め、見たところ家具は皆高級品である。

 そういえば美智の父親の樺山泰造は、ファーマケア製薬株式会社営業部長の職にあると名高は聞いている。平社員だった楢原の月給や売れない彼の原稿料だけでは、こんな暮らしはできまい。きっと美智は結婚後も、樺山からの多大な経済的バックアップを受けていたのであろう。

 そんなことを思いながら部屋のあちこちに目をやっていると、ややしびれを切らしたのか美智の方が要件を促した。
「それで、西東京医療大学の先生が、今日は一体どのようなご用件で私のところへ……」

 美智の危惧は当然のことだ、と名高は思った。どうつじつまを合わせようとしても、美智と名高との間には何の接点もない。

 名高はうなずき唾を一つ飲み込むと、用意してきた挨拶とも説明ともつかぬ口上を、訥々と切り出した。

「ご主人の楢原豪乃介さんの事件で、昨日二人の若い女性たちが八王子横山署に出頭しました。木村瀬里奈と怜里の姉妹です」
「それが何か……?」
「姉の瀬里奈は私の大学の学生です。現在薬学部三年生として本学に在籍し、将来薬剤師になるべく勉学を重ねていました。
 ではなぜこの学生が妹と共に警察に出頭したのかと、あなたは疑問に思われたかもしれません。それは彼女たちとあなたのご主人である楢原豪乃介さんとの間に、因縁の関りがあったからなのです」
名高はあえて大げさな言い方で美智の関心を繋ぎとめた。
「因縁の関り?」
 美智は眉をひそめる。
「はい。単刀直入に申し上げましょう。
 三年前、楢原さんはこの姉妹の一番上の姉である木村沙彩と愛人関係にあったのです。時期的に言えばそれは、楢原さんがあなたとご結婚なさる丁度ひと月ほど前の事でした」

 美智の表情がにわかに変わった。
「その時木村沙彩さんは、楢原さんの子供を身ごもって三月にもなっていたのです」
「まさか……」
 美智は愕然とした様子で呟いたが、その声はほとんど名高の耳には入らなかった。

 その時美智は、楢原の部屋で見つけた「カーペットヴァイパー」からのあの不気味な手紙の文面を思い出していた。

「三年前、八王子市内の朝日町にあるミライズマンションの屋上から転落死した若い女性は、妊娠していた」と、その手紙には書かれていた。あれは本当だったのか……。

 一方名高はその時の美智の様子から確信した。やはり美智は、そのことを楢原から聞かされてはいなかったのだ。

 名高は続けた。
「しかし楢原さんは、自身が勤務する会社の重役の娘であるあなたとの結婚を間近に控えていた。そこで楢原さんは木村沙彩さんになにがしかの金を渡し、子を堕ろして自分と別れてくれるよう頼んだのですが、沙彩さんは聞き入れませんでした。

 沙彩さんは、楢原さんとのことを彼女のご両親には話していませんでした。ですが、彼女の二人の妹すなわち瀬里奈さんと怜里さんにはいろいろと相談していたのです。瀬里奈が僕にそう言っていました。

 そうしたある晩の事。楢原さんは、篠崎賢名義で借りていたミライズマンションの自分の部屋に沙彩さんを呼び寄せました。その時彼が沙彩さんに何と言ったかは分かりませんが、例えば妻の美智さんあなたと別れ沙彩さんと一緒になるようなことを言ったかもしれません。

 でもそれは彼女をだます罠でした。楢原さんの心は決まっていた。美智さんあなたと一緒になれば、会社での昇進は約束されたようなものです。あなたは重役の娘なのですから。

 楢原さんの甘言に絆されて沙彩さんがマンションの屋上に一緒に赴いたとき、楢原さんはすきを見て沙彩さんを抱き上げ、フェンス越しに彼女を下の駐車場に転落させた……」
 
 名高の口調が若干激しくなった。一方その述懐を聞いていた美智の視線は、なぜか虚ろに宙をさまよい始めた。

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