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第六章 悔恨 3
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美智は表情一つ変えなかったが、その白い肌が余計引き立つくらいに顔面は蒼白となっていた。名高は語り続けた。
「あなたはご主人の留守の時にしばしばご主人の部屋に入り、浮気相手の女の痕跡を探っていた。ご主人はよく一日、二日ご自宅を空けることがあったようですね。だからあなたにはご主人の部屋を調べる機会が多分にあったと、僕は推察します」
名高は、今は主のいなくなった廊下の端にある部屋の方を見やりながら、
「そうしてある時あなたは、ご主人の部屋で見知らぬマンションの鍵を見つけた。その鍵がどこの誰のマンションの鍵であるか、もちろんその時のあなたには分からなかったでしょう。しかしとにかくあなたはその鍵を持って鍵専門店に行き、そこで少々の時間と大金をかけてでもその鍵のスペアを作ってもらった。いずれご主人の浮気の現場を押さえて、楢原さんに反省を促そうと考えていたのではないでしょうか。鍵はすぐにご主人の部屋の元あったところに戻し、スペアキーはご自分で密かに隠し持った。
あなたはご主人の行動を探るべく、時々その行先を追尾していましたね。そうして事件が起きました。八王子のバー・エルンストからホステスと一緒に出て来る楢原さんをあなたは捉えたのです。そのホステスとは、私の大学の学生でルノこと木村瀬里奈でした。楢原さんはその時長髪のカツラを被りサングラスをかけて、篠崎賢に成りすましていました。ですが、たとえ変装していてもあなたが見慣れた夫を見間違えることはありませんでした。
店を出て二人がタクシーに乗ると、あなたは別のタクシーを捕まえて後を追った。そうして行き着いたのが、八王子のミライズマンションだったのです。
二人が体を寄せ合ってタクシーから降りるところを、あなたはスマホの写真に収めたかもしれません。続いて二人がマンションのエレベーターに乗るところを見極め、行きつく部屋が何階かを知りました。庭をベランダの方に回って見れば、その時は深夜の事だったから、暗かった部屋のどこに明かりが灯るかが分かります。七八一号室でした。こうしてあなたは二人が入って行く部屋を見届けたのです」
名高はそこで短く息を吐くと、またすぐに述懐を続けた。
「早速浮気の現場に乗り込んで、ご主人とホステスを糾弾することもできたと思います。しかしあなたはその時考えを巡らせて、いわばもっと陰険な方法をとろうとした。二人の写真を撮って、それをネタに夫をいじめてやろうとでも思ったのではないですか。
すみません。これは言い過ぎですね」
名高は苦笑すると、相手を見やる。
「それはともかく、しばらくして七階のその部屋から女だけが出て来ました。あなたはその女、つまりルノこと木村瀬里奈を捕まえて、そこでひと騒ぎすることもできたでしょうね。だがそうせずあなたは女を見送った後、すぐさまご主人のいる七八一号室に赴きました。
この時あなたは、エレベーターホールからエレベーターを使って七階に上がったのではなく、非常階段を歩いて昇って行きました。エレベーターホールには防犯カメラがありました。あなたはそれに気が付き、自分の姿がカメラに映るのを避けた。ホテルの防犯カメラと違って、マンションのカメラは設置場所がすぐに分かりますからね。カメラを避けたのは、その時あなたの中に殺意が芽生えていたからだと僕は訝っているのです。違いますか?」
美智は無言だった。返事を待たず名高は先を急ぐ。
「七階フロアに上がると、あなたは楢原さんの部屋の前に行き着きました。そこであらかじめ作っておいたスペアキーが役に立つのです。あなたがその合鍵を使うのは、その時が初めてだったでしょうが、案の定合鍵は篠崎賢こと楢原さんの部屋の玄関ドアにぴたりと合った。
そこで部屋にいた楢原さんとあなたは、口論になりました。『さっきの女は誰』、『ただのバーの女だ』、『嘘よ。正直に言いなさい』という具合に。
その口論あるいは話し合いは二時間近くに及んだのだろうと推察します。というのも、木村瀬里奈が楢原さんのマンションを辞したのが午前二時少し前で、一方楢原さんの死亡推定時刻が四時二十分頃ですから。あなた方にとってそれはある意味有意義な時間だったかもしれない。恐らくはその時までそんなにお互い自分をさらけ出すような会話の機会も、二人の間にはなかったでしょうから。
おっと、これも僕の余計な勘繰りです。どうぞご容赦を」
名高はおどけたように頭をかいたが、反面その表情は真剣そのものであった。名高は訥々と話を紡ぐ。
「その時果たしてあなたに殺意があったかどうかは、正直言って僕にも分かりません。しかし楢原さんは酒に酔っていた上にSSRIを服用し、しかもルノこと木村瀬里奈にスコポラミンを多量に飲まされていました。それから多少時間が過ぎてはいましたが、酩酊状態は脱したものの楢原さんの体調はすこぶる良くなかったと思います。
別れ際、あなたは多分はずみで楢原さんを突き飛ばし、その勢いで楢原さんは真後ろに倒れ後頭部を机の脚でしたたか打った。それで頭がい骨骨折と脳挫傷を負ったとしても、不思議ではありません」
名高はそこでまた美智の様子を窺った。美智は不機嫌そうにあらぬ方向へ目をやっている。
「救急車を呼べば」
名高は穏やかな口調で言い添えた。
「楢原さんは助かったかもしれません。でもあなたはそうしませんでした。あなたは倒れた楢原さんを放ったまま、室内に自分の痕跡がないか確認してから部屋を出ました。そして持ってきたスペアキーでドアを施錠すると、マンションから立ち去ったのです。
楢原さんが所持しているオリジナルの鍵は、ずっと遺体のズボンのポケットの中に入ったままでした。楢原さんの部屋の合鍵はあなた以外の人には作成するチャンスがなかったでしょうから、こうして現場は見かけ上密室となったのです。
ちなみに、現場を立ち去る時あなたが部屋のドアに鍵をかけたのは、楢原さんの死が自殺か事故によるものと警察に思わせるためです」
美智の表情に変化は見られない。視線は名高の体を通り過ぎて、窓外の青く晴れ渡る空の辺りを彷徨っているようだ。
「楢原さんは瀕死の重傷を負いながら、スマホでメールを打って助けを呼びました。ただ一言『助けてくれ』と。その相手はもちろんあなたではなかった。楢原さんが篠崎として知り合ったホステスの木村瀬里奈だったのです。瀬里奈にとって楢原さんは姉の仇でした。しかしそれでも彼女は楢原さんのことを心配して、早朝にもかかわらず篠崎のマンションに駆けつけたのですよ。結局は手遅れでしたけれどね」
無反応の美智を横目に名高は続けた。
「ところで奥さん」
その声が室内に響く。
「なぜあなたは、ただのチンピラのような鶴牧張磨まで殺害したのでしょう。僕はこう考えます。鶴牧は木村姉妹に雇われていましたが、若い彼女たちから得られる報酬には限りがありました。そこへもってきて、鶴牧は篠崎を監視しながら、たまたまその篠崎の部屋から奥さんあなたが出て来るところを目撃した。
ところが翌日、そのマンションの七八一号室で篠崎賢が亡くなっていることが発覚し、ニュースになった。これらの事実を知った鶴牧は、篠崎賢の死にあなたが関係していると疑った。
そうして鶴牧は、楢原豪乃介という作家の妻であるあなたの存在を知った。鶴牧は、三年前に木村沙彩をマンションの屋上から突き落とした犯人が楢原さんであると、木村姉妹から吹き込まれていました。したがってこれらの事件とその背後に存在する人たちの役割を、彼は良く理解していました。
楢原さんの事件におけるあなたの犯行を疑った鶴牧は、奥さんあなたが大手製薬会社の重役の娘で金も相当持っていることを知って、あなたを強請ったのではありませんか。鶴牧は事件のあったマンションからあなたが深夜に人目を忍んで出てくるところを、スマホの写真に収めることもできたと思います。
一度か二度は鶴牧の要求に応じたかもしれませんが、それで強請りが終わるはずもなく鶴牧はあなたに再度金をせびった。いよいよ鶴牧を亡き者にしなくては一生強請られると覚悟したあなたは、江東区内にある東京ベイサイドビューホテルに部屋を取ったからそこで金を渡すと言って鶴牧をおびき出した。
あとはマスコミから世に周知されているとおり、鶴牧は翌日ホテルの一室内で後頭部を鈍器で殴られたうえビニール紐のようなもので首を絞められ、殺されていました。殺ったのはあなたですね、奥さん」
美智からの返事はなかった。だがそのことが、自分の話を美智が肯定していることの表れであると名高は理解した。
「もう一つ、僕はより重大な点をあなたに指摘し、その真偽を確かめなくてはなりません」
名高は少しく言葉を切ってから、そこで意識的に声色を低くした。
「そもそも、三年前八王子市朝日町のミライズマンションの屋上から木村沙彩さんを転落死させたのは、本当に楢原豪乃介氏だったのか。そんな疑問が僕の胸中で熱く動き出したのです。それは、木村瀬里奈が僕に見せた『楢原氏の自白』の動画に端を発します。
篠崎に扮した楢原氏は、確かに瀬里奈のスマホの動画の中で、自分がミライズマンションの屋上から木村沙彩さんを突き落としたと言っていました。酒とSSRIを摂取したうえ瀬里奈にスコポラミンを飲まされ、朦朧とした意識の中で自白を迫られれば、楢原さんは秘匿していた真実を正直に語ってしまったに違いない。僕も一度はそう信じたものです。やはりスコポラミンには、SSRIとの併用で自白を促す作用があったのではないか、と……」
名高の脳裏にはその時、瀬里奈に自白を迫られそれをスマホの動画に撮られている楢原の心の中が鮮明に浮かんでいだ。
「しかし僕は思い返しました。SSRI併用の有無にかかわらず、科学はそのようなスコポラミンの薬理作用を、否定することはあっても認めることはないと。そんな研究論文などないことを、僕は知っているからです。
そうすると、篠崎こと楢原さんが成した自白はどうなるのか。僕はこう思います。その時楢原さんは真実を自白したのではなく、虚偽の自白をしたと」
美智はゆっくりとかぶりを振った。
「私には分かりません。その時楢原が何を自白しようが嘘をつこうが、もともとあの人は私に対して不誠実そのものでしたから」
彼女は久しぶりに口を開いたが、名高はその言葉を激しく否定した。
「そうじゃない、そうじゃない。あなたは間違っている。あなたは楢原さんのことを誤解している」
不審な表情をしながら美智はまた黙った。名高は反論を続けた。
「楢原さんが自白したことは薬物のせいではなく、彼が誰かを庇っているために口から出た虚構であったとしたらどうだろう。僕は自分にそう問いかけてみました。彼が誰かを庇っているとしたら、その誰かとは」
名高はそこでしばし言葉を切った。そしてその余韻をかみしめるかのように言った。
「奥さん、それはあなたではないか……」
「私? なぜあの人が私を庇ったりするのです。あの人の心はもうとっくに私から……」
「いいえ、逆です」
名高は断言した。
「楢原さんは、奥さんのことをずっと愛していた。あなた以外の女性に関係を求めていたのは、あなたの心があまりにもご主人から遠ざかっていたからではないでしょうか。それをどうにもできず、長い間歯がゆい思いを続けながら、楢原さんはあなたの心が自分の元に返ってくることをずっとずっと待っていたのです。
独身の僕に、夫婦の心の中の何が分かるのかとあなたは言いたいでしょうね。でも、僕は今心からそう思うのです。理由は……理由は、分かりません……」
聞いていた美智は、また口を噤んだ。決して納得している態度ではない。だがそれを無視するかのように名高は問いかけた。
「では、彼はあなたを何から庇ったのでしょうか」
返事はない。名高は言い放った。
「楢原さんは、あなたが犯した罪からあなたを庇った。僕はそう思います。なぜなら、木村沙彩さんをマンションの屋上から突き落としたのは、奥さんあなただったからです」
美智は表情一つ変えなかったが、その白い肌が余計引き立つくらいに顔面は蒼白となっていた。名高は語り続けた。
「あなたはご主人の留守の時にしばしばご主人の部屋に入り、浮気相手の女の痕跡を探っていた。ご主人はよく一日、二日ご自宅を空けることがあったようですね。だからあなたにはご主人の部屋を調べる機会が多分にあったと、僕は推察します」
名高は、今は主のいなくなった廊下の端にある部屋の方を見やりながら、
「そうしてある時あなたは、ご主人の部屋で見知らぬマンションの鍵を見つけた。その鍵がどこの誰のマンションの鍵であるか、もちろんその時のあなたには分からなかったでしょう。しかしとにかくあなたはその鍵を持って鍵専門店に行き、そこで少々の時間と大金をかけてでもその鍵のスペアを作ってもらった。いずれご主人の浮気の現場を押さえて、楢原さんに反省を促そうと考えていたのではないでしょうか。鍵はすぐにご主人の部屋の元あったところに戻し、スペアキーはご自分で密かに隠し持った。
あなたはご主人の行動を探るべく、時々その行先を追尾していましたね。そうして事件が起きました。八王子のバー・エルンストからホステスと一緒に出て来る楢原さんをあなたは捉えたのです。そのホステスとは、私の大学の学生でルノこと木村瀬里奈でした。楢原さんはその時長髪のカツラを被りサングラスをかけて、篠崎賢に成りすましていました。ですが、たとえ変装していてもあなたが見慣れた夫を見間違えることはありませんでした。
店を出て二人がタクシーに乗ると、あなたは別のタクシーを捕まえて後を追った。そうして行き着いたのが、八王子のミライズマンションだったのです。
二人が体を寄せ合ってタクシーから降りるところを、あなたはスマホの写真に収めたかもしれません。続いて二人がマンションのエレベーターに乗るところを見極め、行きつく部屋が何階かを知りました。庭をベランダの方に回って見れば、その時は深夜の事だったから、暗かった部屋のどこに明かりが灯るかが分かります。七八一号室でした。こうしてあなたは二人が入って行く部屋を見届けたのです」
名高はそこで短く息を吐くと、またすぐに述懐を続けた。
「早速浮気の現場に乗り込んで、ご主人とホステスを糾弾することもできたと思います。しかしあなたはその時考えを巡らせて、いわばもっと陰険な方法をとろうとした。二人の写真を撮って、それをネタに夫をいじめてやろうとでも思ったのではないですか。
すみません。これは言い過ぎですね」
名高は苦笑すると、相手を見やる。
「それはともかく、しばらくして七階のその部屋から女だけが出て来ました。あなたはその女、つまりルノこと木村瀬里奈を捕まえて、そこでひと騒ぎすることもできたでしょうね。だがそうせずあなたは女を見送った後、すぐさまご主人のいる七八一号室に赴きました。
この時あなたは、エレベーターホールからエレベーターを使って七階に上がったのではなく、非常階段を歩いて昇って行きました。エレベーターホールには防犯カメラがありました。あなたはそれに気が付き、自分の姿がカメラに映るのを避けた。ホテルの防犯カメラと違って、マンションのカメラは設置場所がすぐに分かりますからね。カメラを避けたのは、その時あなたの中に殺意が芽生えていたからだと僕は訝っているのです。違いますか?」
美智は無言だった。返事を待たず名高は先を急ぐ。
「七階フロアに上がると、あなたは楢原さんの部屋の前に行き着きました。そこであらかじめ作っておいたスペアキーが役に立つのです。あなたがその合鍵を使うのは、その時が初めてだったでしょうが、案の定合鍵は篠崎賢こと楢原さんの部屋の玄関ドアにぴたりと合った。
そこで部屋にいた楢原さんとあなたは、口論になりました。『さっきの女は誰』、『ただのバーの女だ』、『嘘よ。正直に言いなさい』という具合に。
その口論あるいは話し合いは二時間近くに及んだのだろうと推察します。というのも、木村瀬里奈が楢原さんのマンションを辞したのが午前二時少し前で、一方楢原さんの死亡推定時刻が四時二十分頃ですから。あなた方にとってそれはある意味有意義な時間だったかもしれない。恐らくはその時までそんなにお互い自分をさらけ出すような会話の機会も、二人の間にはなかったでしょうから。
おっと、これも僕の余計な勘繰りです。どうぞご容赦を」
名高はおどけたように頭をかいたが、反面その表情は真剣そのものであった。名高は訥々と話を紡ぐ。
「その時果たしてあなたに殺意があったかどうかは、正直言って僕にも分かりません。しかし楢原さんは酒に酔っていた上にSSRIを服用し、しかもルノこと木村瀬里奈にスコポラミンを多量に飲まされていました。それから多少時間が過ぎてはいましたが、酩酊状態は脱したものの楢原さんの体調はすこぶる良くなかったと思います。
別れ際、あなたは多分はずみで楢原さんを突き飛ばし、その勢いで楢原さんは真後ろに倒れ後頭部を机の脚でしたたか打った。それで頭がい骨骨折と脳挫傷を負ったとしても、不思議ではありません」
名高はそこでまた美智の様子を窺った。美智は不機嫌そうにあらぬ方向へ目をやっている。
「救急車を呼べば」
名高は穏やかな口調で言い添えた。
「楢原さんは助かったかもしれません。でもあなたはそうしませんでした。あなたは倒れた楢原さんを放ったまま、室内に自分の痕跡がないか確認してから部屋を出ました。そして持ってきたスペアキーでドアを施錠すると、マンションから立ち去ったのです。
楢原さんが所持しているオリジナルの鍵は、ずっと遺体のズボンのポケットの中に入ったままでした。楢原さんの部屋の合鍵はあなた以外の人には作成するチャンスがなかったでしょうから、こうして現場は見かけ上密室となったのです。
ちなみに、現場を立ち去る時あなたが部屋のドアに鍵をかけたのは、楢原さんの死が自殺か事故によるものと警察に思わせるためです」
美智の表情に変化は見られない。視線は名高の体を通り過ぎて、窓外の青く晴れ渡る空の辺りを彷徨っているようだ。
「楢原さんは瀕死の重傷を負いながら、スマホでメールを打って助けを呼びました。ただ一言『助けてくれ』と。その相手はもちろんあなたではなかった。楢原さんが篠崎として知り合ったホステスの木村瀬里奈だったのです。瀬里奈にとって楢原さんは姉の仇でした。しかしそれでも彼女は楢原さんのことを心配して、早朝にもかかわらず篠崎のマンションに駆けつけたのですよ。結局は手遅れでしたけれどね」
無反応の美智を横目に名高は続けた。
「ところで奥さん」
その声が室内に響く。
「なぜあなたは、ただのチンピラのような鶴牧張磨まで殺害したのでしょう。僕はこう考えます。鶴牧は木村姉妹に雇われていましたが、若い彼女たちから得られる報酬には限りがありました。そこへもってきて、鶴牧は篠崎を監視しながら、たまたまその篠崎の部屋から奥さんあなたが出て来るところを目撃した。
ところが翌日、そのマンションの七八一号室で篠崎賢が亡くなっていることが発覚し、ニュースになった。これらの事実を知った鶴牧は、篠崎賢の死にあなたが関係していると疑った。
そうして鶴牧は、楢原豪乃介という作家の妻であるあなたの存在を知った。鶴牧は、三年前に木村沙彩をマンションの屋上から突き落とした犯人が楢原さんであると、木村姉妹から吹き込まれていました。したがってこれらの事件とその背後に存在する人たちの役割を、彼は良く理解していました。
楢原さんの事件におけるあなたの犯行を疑った鶴牧は、奥さんあなたが大手製薬会社の重役の娘で金も相当持っていることを知って、あなたを強請ったのではありませんか。鶴牧は事件のあったマンションからあなたが深夜に人目を忍んで出てくるところを、スマホの写真に収めることもできたと思います。
一度か二度は鶴牧の要求に応じたかもしれませんが、それで強請りが終わるはずもなく鶴牧はあなたに再度金をせびった。いよいよ鶴牧を亡き者にしなくては一生強請られると覚悟したあなたは、江東区内にある東京ベイサイドビューホテルに部屋を取ったからそこで金を渡すと言って鶴牧をおびき出した。
あとはマスコミから世に周知されているとおり、鶴牧は翌日ホテルの一室内で後頭部を鈍器で殴られたうえビニール紐のようなもので首を絞められ、殺されていました。殺ったのはあなたですね、奥さん」
美智からの返事はなかった。だがそのことが、自分の話を美智が肯定していることの表れであると名高は理解した。
「もう一つ、僕はより重大な点をあなたに指摘し、その真偽を確かめなくてはなりません」
名高は少しく言葉を切ってから、そこで意識的に声色を低くした。
「そもそも、三年前八王子市朝日町のミライズマンションの屋上から木村沙彩さんを転落死させたのは、本当に楢原豪乃介氏だったのか。そんな疑問が僕の胸中で熱く動き出したのです。それは、木村瀬里奈が僕に見せた『楢原氏の自白』の動画に端を発します。
篠崎に扮した楢原氏は、確かに瀬里奈のスマホの動画の中で、自分がミライズマンションの屋上から木村沙彩さんを突き落としたと言っていました。酒とSSRIを摂取したうえ瀬里奈にスコポラミンを飲まされ、朦朧とした意識の中で自白を迫られれば、楢原さんは秘匿していた真実を正直に語ってしまったに違いない。僕も一度はそう信じたものです。やはりスコポラミンには、SSRIとの併用で自白を促す作用があったのではないか、と……」
名高の脳裏にはその時、瀬里奈に自白を迫られそれをスマホの動画に撮られている楢原の心の中が鮮明に浮かんでいだ。
「しかし僕は思い返しました。SSRI併用の有無にかかわらず、科学はそのようなスコポラミンの薬理作用を、否定することはあっても認めることはないと。そんな研究論文などないことを、僕は知っているからです。
そうすると、篠崎こと楢原さんが成した自白はどうなるのか。僕はこう思います。その時楢原さんは真実を自白したのではなく、虚偽の自白をしたと」
美智はゆっくりとかぶりを振った。
「私には分かりません。その時楢原が何を自白しようが嘘をつこうが、もともとあの人は私に対して不誠実そのものでしたから」
彼女は久しぶりに口を開いたが、名高はその言葉を激しく否定した。
「そうじゃない、そうじゃない。あなたは間違っている。あなたは楢原さんのことを誤解している」
不審な表情をしながら美智はまた黙った。名高は反論を続けた。
「楢原さんが自白したことは薬物のせいではなく、彼が誰かを庇っているために口から出た虚構であったとしたらどうだろう。僕は自分にそう問いかけてみました。彼が誰かを庇っているとしたら、その誰かとは」
名高はそこでしばし言葉を切った。そしてその余韻をかみしめるかのように言った。
「奥さん、それはあなたではないか……」
「私? なぜあの人が私を庇ったりするのです。あの人の心はもうとっくに私から……」
「いいえ、逆です」
名高は断言した。
「楢原さんは、奥さんのことをずっと愛していた。あなた以外の女性に関係を求めていたのは、あなたの心があまりにもご主人から遠ざかっていたからではないでしょうか。それをどうにもできず、長い間歯がゆい思いを続けながら、楢原さんはあなたの心が自分の元に返ってくることをずっとずっと待っていたのです。
独身の僕に、夫婦の心の中の何が分かるのかとあなたは言いたいでしょうね。でも、僕は今心からそう思うのです。理由は……理由は、分かりません……」
聞いていた美智は、また口を噤んだ。決して納得している態度ではない。だがそれを無視するかのように名高は問いかけた。
「では、彼はあなたを何から庇ったのでしょうか」
返事はない。名高は言い放った。
「楢原さんは、あなたが犯した罪からあなたを庇った。僕はそう思います。なぜなら、木村沙彩さんをマンションの屋上から突き落としたのは、奥さんあなただったからです」
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