完璧からはほど遠い

橘しづき

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沼ってる

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「いやじゃないです!」

「大丈夫、言ったと思うけど俺それなりに家事も頑張るつもりだから! 完璧は無理かもだけど、佐伯さんに頼りきりじゃないよ」

「そんなことを心配してるわけじゃないんです」

「じゃあ、何?」

「……単に、心の準備っていうか。成瀬さんは私をよくしっかり者、みたいなこと言ってくれるけど、私だってずぼらで適当なとこあるんですよ。まだそんな私を見せる勇気が出ないんです」

 俯きながら小さな声で言った。

 なぜか成瀬さんも私を好いてくれて今付き合えてるわけだけど、そもそも私たちは釣り合ってない。散々大和や高橋さんも言ってたけど、正直納得してる自分もいる。

 外に出た成瀬さんはかっこよくて、仕事も出来て人望もある。私はよくいる一社員だ。

 俯いた私の手を、成瀬さんが突然握った。ひんやりした冷たい手だった。顔を上げると、彼はにこっと笑い、その手を引いて歩き出す。

「悲しいな。俺は初めから結構佐伯さんにはさらけ出してるのに、佐伯さんだけ見せてくれないのは」

「そ、そりゃ私は」

「こんな俺が、佐伯さんの何を見て幻滅するっていうの? 飯もちゃんと食えない、掃除も人に任せてゴミ出しも出来ない、毛玉ついた服着てテーブルも持ってない。めんどいときは風呂もさぼる。はい、佐伯さんこれよりすごいエピソードある?」

「………………」

 ないわ。

 考えたけど出てこなかった。私もずぼらだけど、例えば食べた食器は次の日まで洗わないとか、日曜日はパジャマのまま過ごしちゃうとか、休日のお昼はお酒とカップラーメン食べてるとかそんなのだもんね。可愛いエピソードに思えてきてしまった。

 私の顔を見て成瀬さんが笑う。

「ね? 言っておくけど、佐伯さんが俺を好きになってくれたことの方が奇跡なわけ」

「そ、そんなことないですよ」

「俺からしたらそうなの。
 佐伯さんもそのままを出してほしい、俺絶対幻滅しないから。てゆうか正直に言うけど、佐伯さんを守りたいのもあるけどもっとずーっと一緒にいたいわけ」

 白い歯を出して恥ずかしそうに笑う成瀬さん。そんな笑顔、反則だ、と思った。胸がきゅううって痛くなる。

 こんなの、頷くしかないじゃないか。

 いつだってこうだ。私は成瀬さんに弱い。振り回されて、結局なんでも許してしまう。こんなに弱くて大丈夫なのかな。

「分かりました……よろしくお願いします」

「やった!」

 成瀬さんがわっと喜んだ。つないだ手は随分温かくなっていた。

 彼は子供みたいに嬉しそうにしながらその手を握りなおす。私は丸め込まれてばかりは駄目だ、と思い慌てて厳しい声を出した。

「で、でもちゃんとルール決めましょう!」

「勿論! 俺掃除とかちゃんと頑張るよ」

「出来るんですか……?」

「佐伯さんがいてくれたら頑張れると思う。あ、一緒に暮らすなら佐伯さんの親に挨拶とかしなきゃねー」

「!? もうですか!?」

「今度予定あわせよう。
 あ、それとさ」

 低い声で成瀬さんが言いだしたので身構えた。一体何が飛び出してくるやら。

 少し眉をひそめた彼は真剣なまなざしで言う。

「元カレさ、名前で呼んでたよね?」

「え? まあ、そうですね。一年付き合ってたので」

「佐伯さんも大和、って呼んでたよね」

「は、はい」

「ずるくない? 俺未だに苗字なんだけど」

 不快そうにそんなことを大真面目に言ったので、私はつい吹き出してしまった。何か大きな問題があるかと思っていたのに、そんなことだったなんて。

「え、笑うとこ?」

「すみません、怖い声で言うので何があるんだろうって身構えてたので」

「俺にとったら重要だよ?」

「えっとじゃあ、下の名前で呼んでください」

「志乃」

 自分で言ったくせに、呼ばれた瞬間、笑いなんて引っ込んだ。そして代わりに、痛いほどに暴れる心臓をなだめることに必死になった。

 初めて呼ばれた、成瀬さんから。好きな人から呼ばれるととても特別な名前に聞こえる。今まで何万回も聞いてきた名前なのに、初めて付けられたみたい。

「……はい」

「じゃ、そっちの番」

「……け、」

「け?」

「け、け、
 うわー! すみません、もうちょっと時間ください!」

 手で顔を覆ってしまった私を、今度は成瀬さんが笑った。夜道に笑い声が響く。

 そうこうしてるうちに、見慣れたマンションが現れた。散々通ったあのマンションだ。

 これからは私の帰る家になるだなんて、いまだに信じられない。すべては熱を出して倒れた成瀬さんを看病した、それが始まり。

 いつでも玄関に置かれたパンパンのゴミ袋。テーブルすらないリビング、水しか入ってない冷蔵庫。

 まさか自分がここに住むなんて。

「うーさむ。早く入ろう」

「はい」

「あ、やべ、コンビニ寄り忘れた」

「フライパンもないんじゃ何も作れませんしね……」

「仕方ない、何かデリバリーしよ。そうだ、今度佐伯さんの家から鍋持ってきたらさ、カレー作って」

「またカレー!!?」

 私たちは笑いながら中に入っていく。丁度一階に止まっていたエレベーターに乗り込み行き先ボタンを押す。静かに上昇する中で、私は言った。

「カレーって凄く簡単なんですよ、あ、高橋さんのやつは多分手が込んでますけど」

「そうなの?」

「何か悔しいから、今度私も手が込んだカレー作りたいです。成瀬さんは簡単でいいよって言うだろうけど、やっぱりたまには頑張りたいって言うか」

 そう私が気合を入れて言っている途中、突然口を塞がれた。

 成瀬さんが無言でキスを落としてきたせいで言葉を止められる。エレベーターの上がる音だけが耳に入ってきていた。

 彼が離れたと同時に、私は顔を熱くさせて怒る。

「成瀬さんのタイミングが分かりません!」

「え? そう? 分かりやすいよ、可愛いなって思った時」

「かわ……?」

「うん、こうやって顔赤くして怒ってるときとかね」

 そう意地悪く笑った成瀬さんは再び私に唇を押し当てた。

 全然想像と違った。

 あの普段やる気のない成瀬さんからは考えられないほど、彼は意外と恋愛に熱いし積極的だ。信じられない、ソファから離れられない彼と本当に同一人物?

 チン、と高い音がした。扉が開かれる。成瀬さんは残念そうに顔を離した。

「着くのはえーな」

「……普通だと思います」

「はは、そっか。じゃ、続きは家でってことで」

 そう笑った彼は私の手を引いてエレベーターから降りた。えらく上機嫌で、私もついつられて笑ってしまう。

 ああ、可愛いな、なんて思ってしまうから、多分もう私はもう戻れないのだ。ダメダメのくせに私を惹きつけて離さない彼の魅力に、とことん沼ってる。





<完>


→番外編をいくつか書くよ
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