藍沢響は笑わない

橘しづき

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山中さん

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 白い扉をノックする。中から低い男性の声が聞こえてきた。私は扉を開ける。

「おはようございます! 今日の受け持ちの椎名です。よろしくお願いします」

 私が顔を出すと、ベッドに座っていた男性はにこりと笑った。灰色の短髪、瘦せ型で身長も小柄なその人は、山中浩一さんという人だ。私は笑顔で中に入る。

「今日も椎名さんだったか。よかった、椎名さんで。いい一日になりそう」

「お上手ですね」

「いやいやほんと、優しいし見てて元気が出てくるよ」

 そう目を細めて言ってくれるので、私も笑顔を返した。年齢は確か六十歳、独身。

 末期の食道癌が見つかり、つい先日入院してきた人だった。ほかにも転移が認められており、完治を目指す……というよりは、進行を遅らせるための化学療法になる方向だ。本人には告知済み。だが、まるで嘆く様子もなく、いつも笑顔で優しく接してくれるので、私としても話しやすい患者だった。

 私が彼の入院を取ったので、それ以降よく受け持つようになっていた。気のいいおじさん、という感じで、人とのおしゃべりが好きな普通の男性だ。入院してから、彼に面会に訪れた人は見たことがないので、会話相手がおらず寂しいのかもしれない。

 私は血圧計を取り出し、話しながら腕に巻き付ける。

「夜は眠れましたか」

「うん、まあまあ」

「よかった。熱も測りましょう」

 症状についていくつか質問をする。やや掠れた声で山中さんは返してくれた。一通り質問が終われば、待ってましたとばかりに彼は雑談を始める。こういう話をするのも、仕事のうちなのだ。

 彼はとりとめのない話をした。大体が今までの半生についてだった。もしかしたら、予後のことを考え、これまでの人生をよく思い返しているのかもしれない。

 最近まで仕事人間で、体調不良に気づいていながらも病院へ行かなかったことを、悲しそうに語った。

「こういう時なあ、家族がいたら違ったかもしれない、と思うんだが……そんなこと言っても今更だよなあ」

「おひとりで暮らされてるんでしたっけ」

「ああ、ずっと一人だよ、寂しいもんだ。一度結婚の話が出たこともあったんだが、周囲に反対されて駄目になってしまった」

「え? どうしてまた?」

「相手が二十以上も年下だったんだよ」

 目を細めて山中さんが言った。なるほど、年の差婚というやつだ。状況によっては、相手の親などが反対するパターンもあるかもしれない。

 彼は懐かしむように言う。

「思えば、椎名さんはあの子にちょっと似てるんだよなあ。ああ、ごめん、おじさんにこんなこと言われても嫌だよな」

「あは! そんなことないですよ。似てるんですか、私?」

「うん、だから話しやすいもかもしれない。あれは本当に、年甲斐もなく夢中になった恋だった」

「その方とは、それ以降は……?」

 小さく首を振る。

「連絡先も分からない。あっちは若いし、きっと今頃新しい相手でもいるだろ」

「でも、山中さんは心残りですか?」

 つい聞いてしまった。相手ははは、と乾いた笑顔を漏らした。

「まさか、もう過去の話だよ。まあ、私はかなり恋愛にのめりこむタイプだったんだが、時間が経てばそんな気持ちも薄れるもの。懐かしくは思うが、今更どうこう思いはしないよ」

 そういった声が、寂し気に聞こえた。私は複雑な気持ちになってしまう。

 山中さん、こうは言ってるけど、未練があるんじゃないのかな。連絡も取れないなんて……こうして入院することになったことも伝えられないなんて。

 だがそんなことを言えるはずもなく、私はやや話を逸らすようにして言った。

「私は年の差なんて全然いいと思いますけどね!」

「さすが、最近の若い人は違うなあ。色々寛大ってわけだ。ちょっと前は厳しかったもんだよ」

「まあ、今も気にする人はいますけどね。本人たちがよければいいんじゃないかと思います」

「椎名さんは結婚してないんだっけ? 結婚相手を周りに反対されたらどうする?」

「うーん周りの意見も重要だとは思いますけどね。でも、相手を信じたい気持ちはありますね」

「ははは、さすがしっかりしてる。看護師さんは凄いなあ。 
 手に職もある。自立して生きていけるのは素晴らしい。だが、仕事ばかりにならないようにね。私みたいに、病気に気付けない日が来るかもしれないよ」

 そう言って笑う山中さんの表情は、どこか不思議な表情をしているように見えた。

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