29 / 95
11月24日(土)
第27話
しおりを挟む
熱めのシャワーを浴びて一息吐くと、矢口が用意してくれたルームウェアに袖を通した。部屋に戻ってみると、旨そうな匂いが鼻をくすぐる。急に腹が減ってくる。匂いの元を辿ると、ローテーブルに並べられた綺麗な料理に辿り着き、目を丸くした。
「簡単なものですが、」
ワンプレートに収まっているのは、白米の上に肉そぼろが乗せられ、その上に半熟の目玉焼きが乗っている料理だった。その上、レタスやミニトマトが散らされていて、見た目にも華やかだった。
「なんだこれ」
「タコライスですけど、苦手でしたか?」
「いや、そうじゃなくて、旨そうだなと」
コトンと手作りらしき野菜スープが追加される。ここはカフェか何かだろうか。確かに矢口はカフェでのバイト経験があるらしいが、キッチン担当だったのだろうか。それとも、この料理はバイトとはなんの関係もないのだろうか。
ソファを背凭れにして、並んでラグに腰を落として、いただきます、と二人で手を合わせる。
タコライスという料理を初めて口にしたが、しっかりとした肉の味と、トマトの酸味、ピリっと辛いスパイスが食欲をそそる。外食とはどこか違う家庭的な優しい味付けに、自然と顔がほころんだ。
なるほど。家めし派というのはこういうことなのだ。俺には、とてもこんな洒落た料理は作れないけれど。
「矢口くんって一人でも生きていけそうだな」
スプーンを口に含もうとしていた矢口の手が止まり、無表情でこちらに視線を向ける。
「どういう意味ですか?」
「あ、いや、生活力があるから、結婚しなくても困らないんだろうなと。深い意味はないんだけど」
矢口の眉がぴくりと動く。
「瀬川さんは、結婚したいんですか」
「今すぐしたいってわけじゃないけど、この歳になったら周りもうるさいし、人並みに焦りもあるよ。まあ、相手がいないから、したくてもできないんけど」
「相手がいれば、結婚したいってことですか?」
矢口の顔が曇っていく。不味いと思ったが、言葉を続けるしかなかった。
「矢口くんだって、いつかは結婚するだろ?」
「俺は、結婚なんてしたくないです」
「若いなぁ」
苦笑いを浮かべてしまった。確かに、俺だって二十五の頃は、結婚なんて遠いものだった。真面目に考えたことがなかった。
いつかは結婚したい。
けれど、今ではない。いつか。そのうち。
いい人に出会えたら。
ずっとそんな気持ちでいたし、今だってそうだ。何も変わっていない。けれど、周囲はそれを良しとしない。
仕事に忙殺されれば、そんな雑音を紛らわせることもできたが、友人から結婚報告がある度に、少しずつ焦燥感が募っていく。これから付き合う相手は、きっと結婚を前提として考えるべきなのだろう。
二十五歳の俺だったら、ただ好きだという気持ちだけで、恋愛ができただろうか。後先など考えずに、飛び込んでいけただろうか。けれど、三十二歳の俺には、もうそれが難しくなっている。
矢口の輝くような眼差しが、盲目的な情熱が、妬ましいとさえ思う。
「これは、別れ話ですか?」
矢口が俯いて、震える声で問うてくる。
「そんなつもりじゃない。……それに、俺から別れるなんて言えないだろ?」
「それって、別れたいって言っているようなものじゃないですか」
空気が凍りつく。肩を震わせ、言葉を振り絞る矢口に、かける言葉が見つからず、ただ背中を擦ってやることしかできない。
俺には矢口と前向きには付き合えない。終わせ方ばかりを考えてしまう。
いつか、必ず、矢口は目が覚める。
明日なのか、半年後か、一年後か、もっと先なのか、いつかは、わからないけれど、その日は確実に訪れる。そして、矢口は、ちゃんと素敵な女性と結婚するだろう。矢口暁斗は男が好きなわけじゃないんだから。瀬川佑介が女であればよかった、というぐらいには、女の身体の方がいいのだから。
「瀬川さんが俺との未来を考えられないのは、わかりました。…………でも、せめて、ちゃんと諦めるための時間をくれませんか」
Yシステムのリリースが完了すれば、俺はプロジェクトから離脱する。他社に常駐すれば、矢口と顔を会わせることは、ほとんどなくなるだろう。そうなれば、きっと時間が解決してくれるはずだ。
期限が定められたことで、急に肩の力が抜けた。心の底から安堵した。
すでに矢口の存在が心地好く感じ初めている自分が怖くて仕方がなかったのだ。重ねた肌の温もりだとか、与えられる快楽だとか、甘く囁かれる言葉だとか。そんなものに、少しずつ絆されて、ふとした瞬間に、全て明け渡してしまいそうになる。
今は、まだ、矢口の「好き」言葉の重みに追い付いている気がしない。けれど、そう遠くはないうちに、そうなってしまうような予感がしていた。このまま矢口と離れられなくなるのではないかと思うと、不安で仕方がなかった。
けれど、今ここで、矢口が引き返してくれるなら、きっとまだ、お互いにやり直せるだろう。
「矢口くんが気が済むまで付き合うよ。楽しい思い出つくろうな」
矢口は俯いたまま、自分自身をぎゅっと拳を握りしめて「はい」と小さく頷いた。
今、初めて、この歪な関係を大切にしたいと思えた。矢口暁斗という男に、ようやく向き合える気がしたのだ。
「簡単なものですが、」
ワンプレートに収まっているのは、白米の上に肉そぼろが乗せられ、その上に半熟の目玉焼きが乗っている料理だった。その上、レタスやミニトマトが散らされていて、見た目にも華やかだった。
「なんだこれ」
「タコライスですけど、苦手でしたか?」
「いや、そうじゃなくて、旨そうだなと」
コトンと手作りらしき野菜スープが追加される。ここはカフェか何かだろうか。確かに矢口はカフェでのバイト経験があるらしいが、キッチン担当だったのだろうか。それとも、この料理はバイトとはなんの関係もないのだろうか。
ソファを背凭れにして、並んでラグに腰を落として、いただきます、と二人で手を合わせる。
タコライスという料理を初めて口にしたが、しっかりとした肉の味と、トマトの酸味、ピリっと辛いスパイスが食欲をそそる。外食とはどこか違う家庭的な優しい味付けに、自然と顔がほころんだ。
なるほど。家めし派というのはこういうことなのだ。俺には、とてもこんな洒落た料理は作れないけれど。
「矢口くんって一人でも生きていけそうだな」
スプーンを口に含もうとしていた矢口の手が止まり、無表情でこちらに視線を向ける。
「どういう意味ですか?」
「あ、いや、生活力があるから、結婚しなくても困らないんだろうなと。深い意味はないんだけど」
矢口の眉がぴくりと動く。
「瀬川さんは、結婚したいんですか」
「今すぐしたいってわけじゃないけど、この歳になったら周りもうるさいし、人並みに焦りもあるよ。まあ、相手がいないから、したくてもできないんけど」
「相手がいれば、結婚したいってことですか?」
矢口の顔が曇っていく。不味いと思ったが、言葉を続けるしかなかった。
「矢口くんだって、いつかは結婚するだろ?」
「俺は、結婚なんてしたくないです」
「若いなぁ」
苦笑いを浮かべてしまった。確かに、俺だって二十五の頃は、結婚なんて遠いものだった。真面目に考えたことがなかった。
いつかは結婚したい。
けれど、今ではない。いつか。そのうち。
いい人に出会えたら。
ずっとそんな気持ちでいたし、今だってそうだ。何も変わっていない。けれど、周囲はそれを良しとしない。
仕事に忙殺されれば、そんな雑音を紛らわせることもできたが、友人から結婚報告がある度に、少しずつ焦燥感が募っていく。これから付き合う相手は、きっと結婚を前提として考えるべきなのだろう。
二十五歳の俺だったら、ただ好きだという気持ちだけで、恋愛ができただろうか。後先など考えずに、飛び込んでいけただろうか。けれど、三十二歳の俺には、もうそれが難しくなっている。
矢口の輝くような眼差しが、盲目的な情熱が、妬ましいとさえ思う。
「これは、別れ話ですか?」
矢口が俯いて、震える声で問うてくる。
「そんなつもりじゃない。……それに、俺から別れるなんて言えないだろ?」
「それって、別れたいって言っているようなものじゃないですか」
空気が凍りつく。肩を震わせ、言葉を振り絞る矢口に、かける言葉が見つからず、ただ背中を擦ってやることしかできない。
俺には矢口と前向きには付き合えない。終わせ方ばかりを考えてしまう。
いつか、必ず、矢口は目が覚める。
明日なのか、半年後か、一年後か、もっと先なのか、いつかは、わからないけれど、その日は確実に訪れる。そして、矢口は、ちゃんと素敵な女性と結婚するだろう。矢口暁斗は男が好きなわけじゃないんだから。瀬川佑介が女であればよかった、というぐらいには、女の身体の方がいいのだから。
「瀬川さんが俺との未来を考えられないのは、わかりました。…………でも、せめて、ちゃんと諦めるための時間をくれませんか」
Yシステムのリリースが完了すれば、俺はプロジェクトから離脱する。他社に常駐すれば、矢口と顔を会わせることは、ほとんどなくなるだろう。そうなれば、きっと時間が解決してくれるはずだ。
期限が定められたことで、急に肩の力が抜けた。心の底から安堵した。
すでに矢口の存在が心地好く感じ初めている自分が怖くて仕方がなかったのだ。重ねた肌の温もりだとか、与えられる快楽だとか、甘く囁かれる言葉だとか。そんなものに、少しずつ絆されて、ふとした瞬間に、全て明け渡してしまいそうになる。
今は、まだ、矢口の「好き」言葉の重みに追い付いている気がしない。けれど、そう遠くはないうちに、そうなってしまうような予感がしていた。このまま矢口と離れられなくなるのではないかと思うと、不安で仕方がなかった。
けれど、今ここで、矢口が引き返してくれるなら、きっとまだ、お互いにやり直せるだろう。
「矢口くんが気が済むまで付き合うよ。楽しい思い出つくろうな」
矢口は俯いたまま、自分自身をぎゅっと拳を握りしめて「はい」と小さく頷いた。
今、初めて、この歪な関係を大切にしたいと思えた。矢口暁斗という男に、ようやく向き合える気がしたのだ。
5
あなたにおすすめの小説
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
死ぬほど嫌いな上司と付き合いました
三宅スズ
BL
社会人3年目の皆川涼介(みながわりょうすけ)25歳。
皆川涼介の上司、瀧本樹(たきもといつき)28歳。
涼介はとにかく樹のことが苦手だし、嫌いだし、話すのも嫌だし、絶対に自分とは釣り合わないと思っていたが‥‥
上司×部下BL
宵にまぎれて兎は回る
宇土為名
BL
高校3年の春、同級生の名取に告白した冬だったが名取にはあっさりと冗談だったことにされてしまう。それを否定することもなく卒業し手以来、冬は親友だった名取とは距離を置こうと一度も連絡を取らなかった。そして8年後、勤めている会社の取引先で転勤してきた名取と8年ぶりに再会を果たす。再会してすぐ名取は自身の結婚式に出席してくれと冬に頼んできた。はじめは断るつもりだった冬だが、名取の願いには弱く結局引き受けてしまう。そして式当日、幸せに溢れた雰囲気に疲れてしまった冬は式場の中庭で避難するように休憩した。いまだに思いを断ち切れていない自分の情けなさを反省していると、そこで別の式に出席している男と出会い…
イケメンモデルと新人マネージャーが結ばれるまでの話
タタミ
BL
新坂真澄…27歳。トップモデル。端正な顔立ちと抜群のスタイルでブレイク中。瀬戸のことが好きだが、隠している。
瀬戸幸人…24歳。マネージャー。最近新坂の担当になった社会人2年目。新坂に仲良くしてもらって懐いているが、好意には気付いていない。
笹川尚也…27歳。チーフマネージャー。新坂とは学生時代からの友人関係。新坂のことは大抵なんでも分かる。
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
優しく恋心奪われて
静羽(しずは)
BL
新人社員・湊が配属されたのは社内でも一目置かれる綾瀬のチームだった。
厳しくて近寄りがたい、、、そう思っていたはずの先輩はなぜか湊の些細な動きにだけ視線を留める。
綾瀬は自覚している。
自分が男を好きになることも、そして湊に一目で惹かれてしまったことも。
一方の湊は、まだ知らない。
自分がノーマルだと思っていたのにこの胸のざわつきは、、、。
二人の距離は、少しずつ近づいていく。
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる