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11月26日(月)
第29話
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遠い昔、お茶汲みは女子社員の仕事だという時代があったらしい。俺が入社した頃には、そのような慣習はなくなっており、自分の飲み物は自分で用意することが当たり前である。
給湯室で本日、三杯目のコーヒーを淹れていた。ドロップ式のインスタントコーヒーでも香りは充分楽しめるし、何より疲れをカフェインで誤魔化せる。袖から赤い痣が覗いていることに気がついて、無意識に擦ってしまう。この痕を見る度に、アブノーマルな情事を思い出してしまいそうになって、少し困る。
「有沢さんと呑みに行くつもりなんですか?」
振り返ると、矢口が壁にもたれながら、腕組みをして立っていた。不機嫌そうに眉間に皺を寄せている矢口に、なんの話だろうと反芻して、朝の会話のことだと思い至った。
「有沢さんのあれは社交辞令だろ」
「そうでしょうか? 有沢さんは瀬川さんのことを狙ってる感じがしましたけど。瀬川さんも満更ではなさそうでしたよね?」
真面目な顔の矢口に、思わず吹き出しそうになった。
「おい、ちょっと待ってくれよ。まさか、俺と有沢さんが、どうこうなるって思ってるのか?」
「可能性はありますよね」
「有沢さんが、十歳も離れたオジサンなんか相手にするわけないだろ。彼女が狙ってるとしたら、むしろ矢口くんじゃないか?」
矢口はぴくりと眉を動かした。イライラしているのが伝わってくる。
「……そんな頃もあったかもしれませんけど、今はありませんよ」
やっぱりそんな頃があったんじゃないか。矢口が女子社員に囲まれている姿が脳裏を過った。
「今はないって、どうして、そんなことが言い切れるんだ?」
「好きなタイプを訊かれたので、年上の仕事できる人だと答えましたから」
「へぇ、矢口くんは年上がタイプなんだ?」
男はドンッと軽く壁を叩いた。どうやら茶化す場面ではなかったようだ。
「俺はそんなに信用ないか?」
「瀬川さんのどの辺りが信用できるんですか?」
「うわ、手厳しいなぁ……」
俺なりに誠実に対応してきたつもりだったが、どうやら俺には信用がないらしい。軽くショックを受けつつ、一応、弁明を試みる。
「相手は女子社員だから、端から有沢さんとサシで呑むつもりなんかないよ。あとになって、セクハラだなんだと騒がれても困るからな」
「瀬川さんも、考えてはいるんですね」
「当然だろ。リスク管理はしているつもりだ」
と言いつつ、矢口と付き合うことになっている自分の脇の甘さに、もしかしたら俺は自分が思っているほど、しっかりしていないのかもしれない、と気がついた。
「じゃあ、こうしよう。万が一でも有沢さんにサシで誘われたら、まずは矢口くんに声をかけるよ。複数人での飲み会なら構わないだろ?」
「それなら、俺は二人で呑みたいんですけど」
「論点がズレたな」
矢口はシンクの柄に手をついて、更に俺の行き場を塞いで、じっと瞳を覗き込まれた。
「断るという選択肢はないんですか?」
「基本的に、俺は先約がない限りは、呑みに誘われたら断らない主義だし、今さら変えるつもりもない。男の誘いは乗るけど、女の誘いは乗らないってのも、なんとなく気持ち悪いだろ? 俺は同じ同僚だったら、性別であまり差はつけたくないんだ」
「そうですか。瀬川さんが女性にフラれる理由が、なんとなく、わかってきました」
「失礼なやつだな」
「瀬川さんのおっしゃることは、納得はできませんが、一定の理解はしました」
「お許しが出たなら、そろそろ退いてくれないかな」
軽く胸を押してみたが、退こうとはしない。それどころか、逆に手を捕まれた。
「あと、記憶失くすほど呑むのは、俺が居ないときは、やめてくださいね」
「それは俺が一番わかってるから。今後は気を付けるよ」
疑い深そうに見つめられて、苦笑いを浮かべてしまう。本当に信用がないんだな。
「それで、本題なんですが、来週の土曜日は空いていますか?」
「……ああ、たいした用はないかな」
「じゃあ、一日空けておいてください。楽しい思い出をつくってくれるんですよね」
矢口が手首を意味ありげに撫でるものだから、ぞわりと痣が疼いてしまった。
給湯室で本日、三杯目のコーヒーを淹れていた。ドロップ式のインスタントコーヒーでも香りは充分楽しめるし、何より疲れをカフェインで誤魔化せる。袖から赤い痣が覗いていることに気がついて、無意識に擦ってしまう。この痕を見る度に、アブノーマルな情事を思い出してしまいそうになって、少し困る。
「有沢さんと呑みに行くつもりなんですか?」
振り返ると、矢口が壁にもたれながら、腕組みをして立っていた。不機嫌そうに眉間に皺を寄せている矢口に、なんの話だろうと反芻して、朝の会話のことだと思い至った。
「有沢さんのあれは社交辞令だろ」
「そうでしょうか? 有沢さんは瀬川さんのことを狙ってる感じがしましたけど。瀬川さんも満更ではなさそうでしたよね?」
真面目な顔の矢口に、思わず吹き出しそうになった。
「おい、ちょっと待ってくれよ。まさか、俺と有沢さんが、どうこうなるって思ってるのか?」
「可能性はありますよね」
「有沢さんが、十歳も離れたオジサンなんか相手にするわけないだろ。彼女が狙ってるとしたら、むしろ矢口くんじゃないか?」
矢口はぴくりと眉を動かした。イライラしているのが伝わってくる。
「……そんな頃もあったかもしれませんけど、今はありませんよ」
やっぱりそんな頃があったんじゃないか。矢口が女子社員に囲まれている姿が脳裏を過った。
「今はないって、どうして、そんなことが言い切れるんだ?」
「好きなタイプを訊かれたので、年上の仕事できる人だと答えましたから」
「へぇ、矢口くんは年上がタイプなんだ?」
男はドンッと軽く壁を叩いた。どうやら茶化す場面ではなかったようだ。
「俺はそんなに信用ないか?」
「瀬川さんのどの辺りが信用できるんですか?」
「うわ、手厳しいなぁ……」
俺なりに誠実に対応してきたつもりだったが、どうやら俺には信用がないらしい。軽くショックを受けつつ、一応、弁明を試みる。
「相手は女子社員だから、端から有沢さんとサシで呑むつもりなんかないよ。あとになって、セクハラだなんだと騒がれても困るからな」
「瀬川さんも、考えてはいるんですね」
「当然だろ。リスク管理はしているつもりだ」
と言いつつ、矢口と付き合うことになっている自分の脇の甘さに、もしかしたら俺は自分が思っているほど、しっかりしていないのかもしれない、と気がついた。
「じゃあ、こうしよう。万が一でも有沢さんにサシで誘われたら、まずは矢口くんに声をかけるよ。複数人での飲み会なら構わないだろ?」
「それなら、俺は二人で呑みたいんですけど」
「論点がズレたな」
矢口はシンクの柄に手をついて、更に俺の行き場を塞いで、じっと瞳を覗き込まれた。
「断るという選択肢はないんですか?」
「基本的に、俺は先約がない限りは、呑みに誘われたら断らない主義だし、今さら変えるつもりもない。男の誘いは乗るけど、女の誘いは乗らないってのも、なんとなく気持ち悪いだろ? 俺は同じ同僚だったら、性別であまり差はつけたくないんだ」
「そうですか。瀬川さんが女性にフラれる理由が、なんとなく、わかってきました」
「失礼なやつだな」
「瀬川さんのおっしゃることは、納得はできませんが、一定の理解はしました」
「お許しが出たなら、そろそろ退いてくれないかな」
軽く胸を押してみたが、退こうとはしない。それどころか、逆に手を捕まれた。
「あと、記憶失くすほど呑むのは、俺が居ないときは、やめてくださいね」
「それは俺が一番わかってるから。今後は気を付けるよ」
疑い深そうに見つめられて、苦笑いを浮かべてしまう。本当に信用がないんだな。
「それで、本題なんですが、来週の土曜日は空いていますか?」
「……ああ、たいした用はないかな」
「じゃあ、一日空けておいてください。楽しい思い出をつくってくれるんですよね」
矢口が手首を意味ありげに撫でるものだから、ぞわりと痣が疼いてしまった。
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