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12月19日(水)
第60話
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週の真ん中水曜日。残業を終えた仕事帰りに矢口を飲みに誘えば、二つ返事で応えてくれた。
冬の寒空の下、適当に会社近くの赤い提灯がぶら下がる居酒屋に足を向ける。年の瀬が近づいているためか店は甚く盛況ぶりで、空いているカウンター席に通された。
とりあえずビールを頼んで、二つのコートをハンガーにかけて、カウンター横の壁に吊るした。
「この席、前も座りましたよね」
「そうだったか?」
「ええ、夏の始めですよ。……瀬川さんは覚えていないかもしれませんけど」
お通しの切り干し大根が配膳されたところで、矢口は寂しそうに笑った。
「矢口くんって、記憶力いいよな」
「瀬川さんが忘れっぽいだけじゃないですか?」
そんなことを言われたのは始めてのことで、カチンとくる。けれど、言われてみれば、年々、物事の時系列や細かな記憶が曖昧になっていくような気はしていた。一年が過ぎていくのが矢のように早く感じて、それが年を取る毎に、更に加速していくようで、気づけば勤続年数十年目になっている。
矢口のことも三年目であることは頭では理解しているのだけれど、時折、彼が新人のように思えてしまうのは、配属された当時の矢口暁斗のイメージが拭えないからかもしれない。
それでも、矢口に告白をされてから、時間の経過が幾ばかりか遅緩しているような感覚があった。自分の中にはなかった未知の経験をしているからだろうか。
カウンターの向こうから、店員の手が伸びて、中瓶のビールとグラスを二つ並べられた。矢口が俺のグラスにビールを注いでくれて、そのビール瓶を受け取ると、彼のグラスにもビールを注いだ。
「おつかれさま」
グラス同士を軽くぶつけ合って、乾杯する。苦味のある炭酸の液体を飲み込んで、少し時間差があってから、カァと胃の中が熱くなる。
「今日は、何の話があるんですか?」
「ん? 矢口くんと飲みたいと思っただけだけど」
改まったように聞いてくるので、可笑しくなる。
「じゃあ、これは、プライベートってことですか?」
「まあ、そうかな」
豚の角煮をつつきながら、頷いて答えると、矢口が肩の力をふっと抜いて、少しネクタイを緩めた。男の纏う空気がふわりと代わる。後輩の矢口から、恋人の暁斗の顔になる。きっと、他人は気づかないような些細な変化ではあるけれど、そういう瞬間に、少しドキリとする。
取り纏めもないような他愛もない会話をしながら、暁斗の低くて心地の好い声に浸る。相変わらず、若くてキラキラしているなぁなんて思うのは、俺が年を取ったからだろうか。
「佐々木くんとは、上手くやっていけそうか?」
ほんの僅かではあるけれど、あれから佐々木と矢口が言葉を交わすことが増えてきたような気がした。頬杖をつきながら、漬物の茄子を摘まむ。酒のせいか、少し頬を上気させて、微笑んでいた暁斗の顔が強張った。
「佐々木さんと何かあったんですか?」
「何って?」
「最近、急に仲良くなりましたよね」
子供のように少し口を尖らせて、面白くなさそうな口振りだった。
「少し話をしただけだよ」
「へー、少し話をしただけで、あんなに簡単に仲良くなれるものなんですね。さすが、人たらしの瀬川さんは違うなぁ」
随分とトゲを含んだ物言いで、暁斗は流し見てきた。
「やめろよ。むしろ矢口くんの方が人好きするだろ?」
整った甘めのマスクと洒落た出で立ち、笑顔が可愛らしいと女性社員から評判だ。本人だって自覚しているはずだ。
「俺は、『瀬川さん』みたいに、誰にでも愛想振り撒いたりしませんから」
「あ、バカにしてるだろ」
暁斗は可笑しそうに笑いながらも、少し俯いて、ぽつりぽつりと言葉を続けた。
「瀬川さんは、みんなに優しくて慕われてますけど、それって裏を返せば、誰も特別にはなれないってことですよね」
「そんな風に思ってたのか」
暁斗がこちらを見て、困ったように笑う。俺も釣られて笑ってしまう。俺の右手に暁斗の左手が自然と重なった。
「暁斗のこと、ちゃんと特別だと思ってるよ」
ゴフッと隣から音がして、振り返れば、草臥れたサラリーマンが噎せていた。ここは居酒屋のカウンター席だったことを思い出して、すぅと酔いが醒めていく。
「もう出ようか」
「そうですね」
気まずい空気に、暁斗も手を引っ込めて、少し寂しげに笑う。
なんだか情けない気持ちになる。公の場で恥ずかしいことを言ってしまった自分に対してか、男同士でイチャついているところを他人に見られたことが恥ずかしいと思った自分に対してか。
カウンターの向かいの店員に声をかけて、会計を済ませると、足早に店を出る。冷たい夜風が頬を撫でて、身震いした。少し戸惑い気味に、暁斗が軽く肩をぶつけてきた。
「この後、どうしますか」
「二軒目でも行くか?」
このまま分かれたら、気まずくなりそうな予感がした。
「それもいいですけど、俺の家で宅飲みしませんか?」
「うーん、でも、帰れなくなりそうだからなぁ」
「泊まっていってもいいじゃないですか」
平日に暁斗の部屋に泊まってしまったら、あの居心地の良い部屋になし崩しで転がり込んでしまいそうで、腰が引ける。暁斗が不安げに顔を覗き込んでくる。
「ダメですか?」
「そんなこと、ないよ」
暁斗に微笑むと、少し安堵したように微笑み返された。二週間もしたら、この街からしばらく離れるのだと思うと、些細なことを気にしても仕方がないことのように思えたのだ。
冬の寒空の下、適当に会社近くの赤い提灯がぶら下がる居酒屋に足を向ける。年の瀬が近づいているためか店は甚く盛況ぶりで、空いているカウンター席に通された。
とりあえずビールを頼んで、二つのコートをハンガーにかけて、カウンター横の壁に吊るした。
「この席、前も座りましたよね」
「そうだったか?」
「ええ、夏の始めですよ。……瀬川さんは覚えていないかもしれませんけど」
お通しの切り干し大根が配膳されたところで、矢口は寂しそうに笑った。
「矢口くんって、記憶力いいよな」
「瀬川さんが忘れっぽいだけじゃないですか?」
そんなことを言われたのは始めてのことで、カチンとくる。けれど、言われてみれば、年々、物事の時系列や細かな記憶が曖昧になっていくような気はしていた。一年が過ぎていくのが矢のように早く感じて、それが年を取る毎に、更に加速していくようで、気づけば勤続年数十年目になっている。
矢口のことも三年目であることは頭では理解しているのだけれど、時折、彼が新人のように思えてしまうのは、配属された当時の矢口暁斗のイメージが拭えないからかもしれない。
それでも、矢口に告白をされてから、時間の経過が幾ばかりか遅緩しているような感覚があった。自分の中にはなかった未知の経験をしているからだろうか。
カウンターの向こうから、店員の手が伸びて、中瓶のビールとグラスを二つ並べられた。矢口が俺のグラスにビールを注いでくれて、そのビール瓶を受け取ると、彼のグラスにもビールを注いだ。
「おつかれさま」
グラス同士を軽くぶつけ合って、乾杯する。苦味のある炭酸の液体を飲み込んで、少し時間差があってから、カァと胃の中が熱くなる。
「今日は、何の話があるんですか?」
「ん? 矢口くんと飲みたいと思っただけだけど」
改まったように聞いてくるので、可笑しくなる。
「じゃあ、これは、プライベートってことですか?」
「まあ、そうかな」
豚の角煮をつつきながら、頷いて答えると、矢口が肩の力をふっと抜いて、少しネクタイを緩めた。男の纏う空気がふわりと代わる。後輩の矢口から、恋人の暁斗の顔になる。きっと、他人は気づかないような些細な変化ではあるけれど、そういう瞬間に、少しドキリとする。
取り纏めもないような他愛もない会話をしながら、暁斗の低くて心地の好い声に浸る。相変わらず、若くてキラキラしているなぁなんて思うのは、俺が年を取ったからだろうか。
「佐々木くんとは、上手くやっていけそうか?」
ほんの僅かではあるけれど、あれから佐々木と矢口が言葉を交わすことが増えてきたような気がした。頬杖をつきながら、漬物の茄子を摘まむ。酒のせいか、少し頬を上気させて、微笑んでいた暁斗の顔が強張った。
「佐々木さんと何かあったんですか?」
「何って?」
「最近、急に仲良くなりましたよね」
子供のように少し口を尖らせて、面白くなさそうな口振りだった。
「少し話をしただけだよ」
「へー、少し話をしただけで、あんなに簡単に仲良くなれるものなんですね。さすが、人たらしの瀬川さんは違うなぁ」
随分とトゲを含んだ物言いで、暁斗は流し見てきた。
「やめろよ。むしろ矢口くんの方が人好きするだろ?」
整った甘めのマスクと洒落た出で立ち、笑顔が可愛らしいと女性社員から評判だ。本人だって自覚しているはずだ。
「俺は、『瀬川さん』みたいに、誰にでも愛想振り撒いたりしませんから」
「あ、バカにしてるだろ」
暁斗は可笑しそうに笑いながらも、少し俯いて、ぽつりぽつりと言葉を続けた。
「瀬川さんは、みんなに優しくて慕われてますけど、それって裏を返せば、誰も特別にはなれないってことですよね」
「そんな風に思ってたのか」
暁斗がこちらを見て、困ったように笑う。俺も釣られて笑ってしまう。俺の右手に暁斗の左手が自然と重なった。
「暁斗のこと、ちゃんと特別だと思ってるよ」
ゴフッと隣から音がして、振り返れば、草臥れたサラリーマンが噎せていた。ここは居酒屋のカウンター席だったことを思い出して、すぅと酔いが醒めていく。
「もう出ようか」
「そうですね」
気まずい空気に、暁斗も手を引っ込めて、少し寂しげに笑う。
なんだか情けない気持ちになる。公の場で恥ずかしいことを言ってしまった自分に対してか、男同士でイチャついているところを他人に見られたことが恥ずかしいと思った自分に対してか。
カウンターの向かいの店員に声をかけて、会計を済ませると、足早に店を出る。冷たい夜風が頬を撫でて、身震いした。少し戸惑い気味に、暁斗が軽く肩をぶつけてきた。
「この後、どうしますか」
「二軒目でも行くか?」
このまま分かれたら、気まずくなりそうな予感がした。
「それもいいですけど、俺の家で宅飲みしませんか?」
「うーん、でも、帰れなくなりそうだからなぁ」
「泊まっていってもいいじゃないですか」
平日に暁斗の部屋に泊まってしまったら、あの居心地の良い部屋になし崩しで転がり込んでしまいそうで、腰が引ける。暁斗が不安げに顔を覗き込んでくる。
「ダメですか?」
「そんなこと、ないよ」
暁斗に微笑むと、少し安堵したように微笑み返された。二週間もしたら、この街からしばらく離れるのだと思うと、些細なことを気にしても仕方がないことのように思えたのだ。
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