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宮廷編
16桂林一枝
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「ええはい、紫沈からの使者でしたら、確かに北玄海との仲介をして頂いた事があります。直接やり取りしたのは子佑兄さ、周子佑ではありません。北玄海には外使官という外官が居ましてその方と繋げて頂き、以降は中央を挟まず北玄海と交渉をしておりました」
あっけらかんと話す卓浩の雰囲気は、彼の養父であるあの薬師にそっくりだった。妻と甥の不義によって誰より気の毒な立場だった薬師卓珍だが、息子が彼に似て育った事は卓珍にとっても周子佑にとっても或いは幸いな事だったのかも知れない。
そうしてほんわかとした性格に育った卓浩だが、彼は自身の置かれている状況がよく分かっていないのか、それとも腹を括っているのか、周子佑に比べて驚くほど軽快に質問に答えた。
曰く、北玄海と山芒の橋渡しをしたのは「桂」という名の男だったという。
姓しか思い出せない辺りが、何とも実父との血縁を希薄にさせる。周子佑は決して口八丁だけの男というわけではなく、北玄海の内政についてもおおよそ把握していた。だからこそ、自身の関与しない北玄海と紫沈の高官同士の繋がりや、玲馨が文官の供をしたあの視察を親子の危機と認識して息子を逃がすために命からがら北から故郷へ逃げたのである。
それにしても、「外使官」などというものが置かれている事に気付けなかったのは失態だった。恐らく北玄海の対外的な事に対応するための役職で、そこを突けば塩の密売の情報も落ちてきた事だろう。だがそうならないために周子佑が玲馨たちの対応をさせられたのだ。北玄海の水王は侮れない人物のようだ。
「玲馨! お前もたまには剣を握れ!」
額から汗を流して爽やかに笑う戊陽が剣を持った手を持ち上げ、思考に耽っていた玲馨を呼ぶ。
先日の李将軍との手合わせでは良い勝負をしながらも結局最後まで勝ち星が付かなかった事が悔しかったようで、今日は朝議から戻るなり着替えて黄麟宮の庭で木剣を振り出した。
文事はさておき武事にはあまり興味を持てない玲馨は何とかして彼の無邪気な誘いから逃げたいところだが、今は四郎の他に宮女たちの目もある。
渋々予備の木剣を手に戊陽の正面まで歩いていき構えると、戊陽が強気に微笑んだ。
「着替えてくるくらい待ってやるが?」
「いいえ陛下。陛下となら一、二本打ち合っただけで私は腰砕けになりますので」
弱気な事を言ったせいか戊陽から笑顔が消えて途端につまらなそうな表情になる。しかしやめるつもりはないようで、気合いの籠った掛け声と同時に木剣を打ち込んでくる。
カンッと乾いた音を立てて木剣の腹同士がぶつかると、玲馨の腕の骨にビリビリと痺れるような振動が伝わってきた。手心は加えられているようだが、体格が一回りほど違っているおかげで上から打ち下ろされる勢いは相当なものだ。
一合、二合と斬り結んで一度距離を取り、再び木剣が重なった時、戊陽は不意に声を潜めて玲馨にある事を伝えた。
「桂は名誉貴族だ」
思わず気を取られて腕の力が緩んでしまい、戊陽に押される形で背中から地面に倒れ込みそうになる。咄嗟に左手を後ろに伸ばしたがその手が地面に触れるより早く戊陽に腰を支えられ、どうにか背中を打ち付けずに済んだ。
「訓練不足ではないか?」
至近距離での挑発するような笑みに対し、戊陽の影になって周囲から見えないのをいい事に睨み返す。と、眉根が寄って今度は困ったような笑顔に変わる。だがどことなく喜色が滲んで見えるのは、玲馨が気兼ねしない態度で接するのが好きだからだ。
「すまない。加減を間違えた」
玲馨を立たせると、腰から手が離れ、桃の香が遠ざかっていく。
「いえ。ですから申し上げたでしょう、腰砕けになりますと」
「ふ、はは、そうだったな。優れた武人ほど相手との力量差を正確に読めると言うし、お前も嫌わず稽古をこなせば武に優れた宦官になれるかも知れないな」
なりたいとは思わないので、とりあえず拱手して「光栄で御座います」と適当に返しておいた。
名誉貴族とはその昔、勲功貴族や一代貴族と呼ばれていたもので、その名の通り一代限りの身分でその子孫は貴族ではなかった。しかし時が下るにつれて一代限りではなくなり名誉貴族と名を変えて、歴史の長い氏族は百年ほど続いている。
しかし、元々が一代限りの身分であった事から、他の貴族と比べて皇帝への忠誠心は希薄だ。それは今現在でも変わっておらず、皇帝の縁戚や四王の縁戚と比べて位が一つ低くされている。
つまり、名誉貴族とは歴史の長い氏族ほど皇帝への忠誠心が薄れる傾向にあり、現在の沈では皇帝にとって最も信頼出来ない中央貴族という事だ。
「次で最後だな」
玉座から響く戊陽の声に、玲馨は思議から戻ってくる。上奏の最中につい考え事をしてしまった事を反省する。
桂が名誉貴族だと分かってから一日が過ぎたが特に進展はない。
「あわいについてご報告が御座います」
最後と言われて立ち上がったのは向家長男の向亗だ。向亗は玉座を中心に壁に沿って両脇に縦列した中で右列の前から二番目に座っていた。
初めて顔を見るとは言わないが、これまではもう少し目立たない位置に居たと記憶している。また玲馨の知らない間に配置換えでもあったのだろうか。
「解状より、やはりあわいが拡大しているとの事です」
向亗は確か工部という官署の次官だったはずだ。長官は長く体調を崩しているので代わりに向亗がここに居るのだろうが、それにしてはまるで萎縮した様子が無いのが気になった。
周囲は誰も彼も殆どが五十を越えた老人高官ばかりの中に、恐らく二十代から三十代ほどの若者が交じると大抵は緊張で肩が縮こまってしまうものだ。
どこか向亗の態度に違和感を覚えつつも再び考え込んでしまわないよう向亗の声に耳を傾ける。
「つきましては、東門の外に影壁を造設してはいかがかと存じます」
周囲から戸惑いのどよめきが起こる。あわいが紫沈に近付いているその対策に、影壁というつまりは壁を造る事の意味が分からない。
「影壁には中央を守護する黄龍を彫らせ、妖魔から城や町を守らせるのです」
──黄龍か、なるほど。媚びを売ろうとしているのか。
四方を守護する四神と共に中央を守護する神は黄龍という。沈では四神よりも一つ上の神格として扱われるが、建国神話などでは同格として描かれる。皇帝に都合の良いように人間が勝手に黄龍を格上げしたという事だ。それは嘗ての皇帝の権威がとても高かった事も示している。
禁軍が掲げる旗は朱華色に染めた生地に黄金の龍を刺繍した物が使われる。しかし近年ではそうした神に対する信仰のようなものは薄れて久しい。
紫沈の外壁に沿って黄龍を置くという事は、改めてこの紫沈が皇帝のものであると主張する意味合いがある。そして恐らく、妖魔避けとして効果が発揮されれば今度は四方にこれを造ろうとなるはずで、それにもまた黄龍を彫らせれば民はこれを崇め黄一族の民であるという意識を強めるのに一役買うという寸法だ。
向亗の考えが読めた者たちの顔付きは険しいものに変わっていく。当の戊陽にも笑顔は無い。
「それをするには、国庫の問題があるな」
戊陽が指摘すると官吏たちは視線を下げた。なるほど確かにこの宮廷には純然たる中央貴族は随分と少ないらしい。
戊陽が即位してからというもの漠然と宮廷内の全てが敵だと思っていたが、紫沈に根差した貴族にとって皇帝の威光が鈍くなるのは歓迎出来ない事態だったはず。にも関わらず、所謂皇帝派閥のような官吏がこれといって現れないという事は、およそ七十年かけて中央貴族は四方貴族に侵食されていったのだ。養子縁組を利用して。
七十年もあればニ世代、或いは三世代まで四方の息が掛かっている事になる。そうなればもはやそれは中央貴族の皮を被った四方貴族だ。
独裁者であった凱寧の目を盗んで勢力を増していった四王と、天子教育をされないまま即位した戊陽との力の差は歴然。以前までよりもはっきりとそれが分かるようになった。玲馨でさえそう感じるのだから戊陽の目には四方に高く聳え立つ障壁のように見えている事だろう。
恐らく影壁造設の話がまとまる事はない。沈は現在、財政難だ。中央の金は恐らく外に流れている。
玲馨は最前に黙して座る老人を見遣る。戊陽が何を言っても一切の動揺を見せない石のような老爺。彼が尚書令の林隆宸だ。
戊陽とそして玲馨は、彼を黄昌毒殺の首謀者だと考えている。
林隆宸はいついかなる時も冷酷、冷淡だ。声を荒げる事もなければ嘲笑する官吏に混ざって口角を釣り上げる事もない。それは誰かを思い出す。東妃だ。彼女の冷たい気配と林隆宸のあまりにも端然とした様は、例えば親子だと言われたら疑いもしないだろう。
東江に暮らす民はひょっとすると血が通っていないのではないかと疑うほどに、冷ややかな雰囲気を持つ者が多い。その中でも第五皇弟の小杰だけは母に似なかったようだ。無論、賢妃や戊陽も東江の一族とは似つかぬ暖かな空気を持つ人たちだ。
「国庫を潤沢にするのであれば、税を引き上げる他ありますまい」
思いの外影壁について粘る向亗を見かねたか、林隆宸が口を挟むと水を掛けたように静まった。しかしすかさずそれを戊陽が否定する。
「それはならぬ。取り上げるとしたら各王たちの税収だ。しかし──」
沈は時刻を告げる音が日に三度鳴らされる。早朝と夕方、そして正午だ。朝議とはその名の通り朝に行うものと決められており、正午が刻限となる。
玲馨の想像通り影壁の件は何一つ話は進展せず官吏たちは解散していく。向亗もこうなる事を想定していたのかさほど気にした様子はない。あくまで向家は皇帝を後押しするという主張のつもりだったのかも知れない。
皆が礼をし解散した後で戊陽は玉座からのっそりと立ち上がる。思えば正午まで朝議が続いたのは久しぶりだ。凝り固まった体を人目も憚らずに伸ばす戊陽をぼんやりと見つめ、はて、と玲馨は思う。
──今日は後宮の話が持ち上がらなかったな。
まさか本当に戊陽の刺した釘が効いているとでもいうのか。あの古狸たちを相手に。
どうにも朝議に漂っていた据わりの悪い気配を気にしつつも、戊陽の後に続いて外廷を去る。
「見えたか?」
「はい」
頭が痛むと方便を使って四郎に侍医を呼びに行かせ二人きりになると戊陽は徐に訊ねる。それに頷きながら「左列後方ですね」と返す。
「しきりに欠伸をしている男がいたろう。そいつが桂だ。桂昭といって発言しているところは見た事がないし誰かに付き従っているという風でもないな」
確かに終始退屈そうに見えたが玉座から遠い席に、他の官吏の影に重なるようにして座っていた。恐らく普段からそうして目立たないようにしているのだろう、玲馨は桂昭の顔に見覚えが無かった。
「よく覚えていましたね陛下」
「朝議に顔を出す者なら概ね顔と名前が一致する。二年間ぼうっと椅子に座っていた訳ではないぞ?」
勿論玲馨とてそれはよく分かっている。彼があの張りぼての椅子にどんな思いで座っているのか、玲馨とて二年の間見てきたつもりだ。
「卓浩の言う桂があの男の事かは分からん」
いかんせん卓浩は桂という姓しか覚えていなかった。
玲馨は卓浩との会話を思い出す。
『中央のお役人さんといっても何だか野暮ったいお人でした。無精髭を生やして衣もくたくた、紫沈からの使いだというので向のお屋敷に上げたのを最初は後悔するほどでした。でもお話がお上手な方で……そうそう、確か柳がお好きだと仰っていたのを覚えていますよ。向青倫様は何故かそれを聞いて渋い顔をなさったのですが』
つらつらと当時の記憶を語ってくれたうち外見の特徴は役に立つかと思ったが、それがそういう変装だった可能性も否めない。玲馨も紫沈を発つ時は宦官の衣から着替えていく。
他に手掛かりになりそうなものというと──。
「『柳』は、妓楼の隠語です」
玲馨の脳裏には、大きな目と丸い頬で愛らしく笑う少年の姿が浮かんでいた。猿猿の母は妓女で、妓楼の事を柳と呼ぶのは彼から教わった事だ。生涯縁の無いはずの知識を思わぬ所で思い出したが、これが本当に役に立つかはまだ分からない。
「木王が嫌な顔をしたというのは、妓楼通いを想像したからではないでしょうか」
気心知れた仲ならいざ知らず、身なりを整えようともしない男から女を買っているという話題が飛び出してきて印象が良くなる者がどれだけ居るか。
「妓楼か……。市井の事となると途端に弱るな。視察が足りていない証拠だ」
「視察をするにしても妓楼があるような場所に向かう事は無いでしょう」
戊陽はうーんと低く唸って腕を組む。
「……ここは、詳しそうな人間に訊くしかあるまいな」
「で、俺が呼ばれたって訳ですか」
「そうだ。役人が通っていそうな妓楼の事を知らないか?」
「っても、妓楼なんて縁が無いですからねぇ」
困ったようにして頭を掻く梅を、玲馨と戊陽が揃ってじっと見つめる。
「ちょっと、何ですかその目。あんな所は金持ちの行く所ですよ」
「自警団の人間なら妓楼に通うくらいの給金は出ていただろう」
「まぁ……そういう奴も居たけど、それでも役人が行くような所なんざとても」
妓楼にも格というものがある。高級なところほど妓女は技芸に秀で、時事にも詳しく、見て良し喋って良し、夜の具合もまぁ当然のように仕込まれているとくれば、日の高いうちから金持ち客で賑わうのだとか。
一方、そうした妓楼は紫沈にも一つか二つで、その他はつまり庶民を相手に商売をするのだが、これが一気に格が落ちて出てくる飯も酒も質は悪く、灯火具用の油は高価なので夜には灯りをつけずにこっそり営業しているような店もあるのだとか。ちなみに全て猿猿の受け売りである。
「妓楼……妓楼と言やぁ、お国が運営してる妓楼があるけど、大抵のお役人ってのは疚しい事でも無けりゃそういう所に行くもんじゃないですか?」
今度は戊陽へと視線が集中し、戊陽は苦笑する。
「しまったな。商業の方にはほとんど手を付けてなかった。これは私の落ち度だな」
要は国営の妓楼の事など知らないという事らしい。
「だったら実際に行ってみたらいいんじゃないですか? お忍びで」
「妓楼に? 陛下が?」
まさかとんでもない。妃の事も何も決まっていないのに妓楼通いなど知れたらどんな噂が立つか。
しかし反対するのはどうやら玲馨だけのようだ。
「そうだな。それなら、報告の手間も省けるな、玲馨」
長い長い溜息が玲馨の口から漏れていく。梅はそんな玲馨を見てけたけたと笑い、戊陽は神妙な面持ちで「頼んだぞ」という顔をする。
梅の事はさておき、戊陽に言われたら皇帝と宦官という関係を抜きにしても断れないのが玲馨という人間なのだ。
お忍び、というからには忍ぶのである。とは言えあまりにもみすぼらしい格好をしてしまうとどうやら門前払いをされてしまうほどには、高級妓楼とは敷居が高いもののようだ。
貧民出身の宦官、後宮育ちの現皇帝、庶民生まれ庶民育ちの元自警団の三名ではこの辺りの塩梅に非常に頭を悩ませた。
とにかく皇帝の身分を隠すためにあまりにも上等な装いをする事だけは避け、紅桃宮で即位前に着ていた衣からどうにか一般的な官吏らしい装いを見繕うと、玲馨と梅はその従者として質素な格好に化けた。
「ふむ。まぁまぁ様になっているのではないか?」
「そりゃあもう新進気鋭の若手官僚! ってな感じで、良家のお嬢様が放っときませんよ」
それは当然だろう。何せ皇帝になる前に着ていた衣なのだから戊陽に似合うように誂えてある。しかし皇族には見えないと言われて美しく磨かれた青銅鏡を見て満足げに笑う皇族など後にも先にも戊陽くらいのものだろう。変わっているというより好奇心が強すぎるのだ。今彼の頭は初めて訪れる妓楼の事でいっぱいになっているはず。
「陛下、目的をお忘れにならないで下さい。あくまで私たちは『桂』を見つけるために妓楼へ行くのです」
「何だ、嫉妬か?」
戊陽がいつもの調子で冗談を飛ばす。ひひっと梅の下品な笑い声に玲馨の柳眉が釣り上がった。
「この者を連れて行く必要は無かったのでは?」
暗に梅の事を示すと本人は肩を竦めておどけてみせる。怒るでもなく軽い調子でいなされると、どうにも相手に上手を取られたような気がして癇に障った。
宮女や宦官に見つからないよう三人は慎重に部屋を出る。
「万一のためだ。梅の強さはお前も見たろう」
確かに、山芒までの道では命を救われた。辛新に脅された時も強気に出られたのは梅が見張りをしていたからだ。だが、しかし、反りが合わない事ばかりはどうにもならないのだ。感謝こそすれど、今後ともよろしくはしたくない。
ぐうと唸る訳にもいかないので胸に納める。そんな玲馨の心を知ってか知らずか戊陽が「それに」と言葉を継ぐ。
「市井には私もお前も詳しくない。迷って目的地に着けなければ何のためのお忍びか」
「仰る通りで御座います、陛下!」
他人の金で妓楼に行ける事が嬉しいのか、それとも何やら面白い事が起きそうだとでも考えているのか梅はご機嫌だ。至極真っ当な理由を言われてしまってはもはや反論する気も削がれるというもの。玲馨のは単なるわがままに過ぎない。
妙な事にならなければ良いと祈りながら、紅桃宮を出て市井へと続く午門の方へと向かった。
魚鱗甲の甲冑は禁軍所属の兵士の証だ。丈夫な鎧と長柄を手に仁王立ちした姿は厳しく、特に皇族の住まう殿舎付近の見張りの兵士たちは勤勉な者から選ばれる。
さすがに彼らの目を誤魔化す事は出来そうにない。しかしここまで来て二の足を踏みたくないというのは三人とも共通していただろう。
どうするつもりか、戊陽が一行を代表するように門衛の方へ進み出る。戊陽に気付いた兵士がさっと礼の姿勢を取るとその握った拳を掴んで何かを握らせた。それからこう囁く「朝には戻る」
兵士が拳を開くとそこには銀が一枚。彼らの俸給の、さて、どれくらいだろうか。三月かそれとも半年か。今後とも是非見逃してくれという意味が込められている。
一体どこでそんなやり方を知ったのかと思ったが、よくよく考えてみたら戊陽は幼い頃後宮をしょっちゅう脱走しては見張りの兵士や宦官に宮女たちを困らせていた不良皇子だった。きっとその頃に鼻薬を嗅がせる方法を学んだに違いない。そうしていくらかの兵士は処罰されたのだろう。
城を出ても誰一人追いかけてくる者が居ない事にほっとしつつ、城下を進み始める。
日が暮れた後の城下はどの家からもすっかり灯りが消されており、道を照らすのは月明かりばかりだ。宮城では宦官でさえも夜には自室で灯りを灯したりするので、民の質素な暮らしぶりが通りを歩くだけでも感じられた。
どれくらい歩いただろうか。感覚では半時辰ほど経った頃だ。真っ暗な通りに突然煌々と灯りが漏れる楼閣が現れた。
「あれがそうか? 金の柱とはまた豪奢な」
「あれは全部鍍金ですよ。鍍金だって知られてからは、俺たちみたいな庶民からやれ品が無いだの成金だのやっかまれてましたね」
いつ頃建てられた物かは分からないが、風雨に晒されて柱の塗装が一部剥げている。夜闇の中でも分かるのはちょうど人の目線の高さに禿げがあるからだ。ぽつぽつと斑に剥げて内側の木が露わになってしまっている。触れると硬くてギザギザした鍍金の端が皮膚に引っ掛かった。
「職人が居ないのかも知れないな。──さて、では参るぞ」
頼もう! と大声で叫び出しそうな気迫で、戊陽は妓楼の前の低い階を上がっていく。その足元を玲馨が持ってきた手燭で照らす。
最後尾は梅だ。傍目には分かり辛いが、梅の手は剣の柄にかかっていた。
「あれ、お客様ですか?」
「ああ、そうだ」
どこか肩透かしを食らったような声で答えたのは戊陽だ。後ろに控えている玲馨も同じ気持ちで内心頷く。
扉の向こうは女の花園──という事はなく、まず奥の部屋を隠すようにして置かれた衝立が三人を出迎えた。衝立の真上には更に紗が左右に分かれて掛けられている徹底ぶりは、扉が開いた時にうっかり外から中が見えてしまわないよう配慮してあるのだろう。
と、いう事はまさかこの衝立の向こうでは、などと考えたが案内の女に誘われ紗を潜ってみるとそこには吹き抜けの広い空間が広がっていた。壁に沿っていくつか円卓と椅子が用意されており、一階では食事と酒を嗜めるようになっているらしい。
二階から三階にかけては全ての部屋に扉があるのでつまりその先では妓女におもてなししてもらえるようだ。
妓楼の内装は、外の鍍金の柱から受ける印象通りどこもかしこも派手だ。
赤と緑に塗られた壁や階段、手摺りに欄干と、それらをぼんやりと照らす真っ赤な提灯。円卓のある空間は、入り口を隠していた紗と同じものが垂らされて何とも妖艶な雰囲気を醸している。他には龍が彫られた縁の中に「夜華楼」とこの妓楼の名が書いて二階の欄干に掛けてあったりと、とにかく飾れる所は全部飾っておこうという感じだ。
入り口から見て正面、吹き抜けの中央にある椅子に掛けて待つ事しばし。
「ご案内致しますね」
最初の案内の女が戻ってきてにこやかに言うと、玲馨たちを二階へと誘導していく。
一見では断られる可能性を踏まえて女には事前に戊陽が玉佩を見せていた。雲朱の鉱山で出る美しい玉をあしらった佩飾で、蓮を模した青磁に紐は東江産の絹を使ったりと、目利きが出来ない者でも高価であると一目に分かるような代物だ。
それがちゃんと効いたのか、通された部屋の造りは悪くない。剥げた鍍金を思い出すとどうしても経営難が頭を過ぎったが、戊陽が呟いていたように職人が足りていないだけなのかも知れない。
「ここは、芸ばかりを売るのでしょうか?」
妓女を待つ間ふと疑問に思った事を口にする。
屋内の雰囲気や二階三階のぴたりと閉じた扉を見て閨事まで想像してしまったが、国営の妓楼ならばもっと高尚で格式高いものではないだろうか。妓女たちには教養があって、才女たちが好むのは専ら詩歌や書だという。
何よりこの部屋へ通されてから、隣室から音らしい音は聞こえてこない。扉の外、一階で響く楽しげな喧騒はうっすらと聞こえてくるというのにだ。
「さて……。昔は高級妓楼を青楼と呼んだらしいが、あわいの発生以後は娯楽も衰退した。芸だけ売って店の経営が保てたのならそのままだろうが……」
そうはいかないのが今の沈だろう、という事だ。ではやはり、と思っているうちに扉の縁を叩く音がして、着飾った妓女が数人入ってきた。後に続いて見習いのような少女たちが酒を運んでくる。
胸元まで引き上げた薄青の裙に柔らかな白の披帛、飛仙髻に結い上げた髪に刺した金の簪とどれを取っても一見すると艶やかだ。後宮の妃に負けずとも劣らないほど美しいのだが、見る者が見れば妓女を飾り立てる物の質がさほど良いものではないとすぐに分かる。
しかし、ここにいる妓女たちの中で恐らく一番格上と思しき女がつける簪は銀で出来ているようで、揺れものには翡翠があしらわれている。銀の簪はくすんだりせず、翡翠も琅玕という最高級品のようだ。きっと誰からかの贈り物だろう。
「よくいらっしゃいました。初めてお目にかかります桂茜と言います。茜茜と呼んで下さいな」
たおやかな仕草と柔和な笑みには知性が感じられ、それでいて畏まり過ぎない所が隙を作って男たちの垂涎の的だろう事が窺える。男慣れしない生娘という訳ではなく、かと言って人擦れしているほどでもない絶妙さには、幼少からの教育が垣間見えた。
山芒で玲馨と梅に睡眠薬を仕込んだあの彼女とは雲泥の差である。当然こちらは仕事なのでそも比べる事自体が間違いだが。
「空はとうに真っ暗ですもの、お疲れでしょう? さぁ、まずは一献」
身なりからきちんと戊陽を上役と判断して彼には桂茜が自ら、両脇に控える玲馨と梅には年端もいかぬ少女が酒を注いでくれる。
「ふふ、無口でいらっしゃるのね。ねぇ、御名を教えて下さいませ」
「洋だ」
桂茜は「まぁ」と少し驚いたように目を丸くしてからまた柔らかく微笑む。姓を名乗らなかったから、やんごとない身分だと思ったのかも知れない。
一方玲馨の内心は不安でいっぱいだった。何て安直な偽名かと、事前にその辺りを相談しなかった事を後悔する。隣に座る梅は楽しそうに少女とお喋りをしているのでますます頭が痛い。
玲馨の相手をしなくてはならないだろう少女には申し訳ないが、玲馨は酒に口を付けるフリをしながら思案する。
妓女の名は桂茜。図らずも玲馨たちの探し人と同じ姓だ。だからと言って身内とは限らないが、偶然にしては出来すぎている。
戊陽もそれには気付いているので、相手の出方を窺うために無口を演じざるを得ないのだろう。
相手はさすがにその道の玄人だけあって、相槌ばかりの戊陽にも気を悪くした風は一切無い。それどころかどうにか話を引き出そうと上手に戊陽の関心ある事柄を聞き出している。適当に詩歌などと答えているが、果たして大丈夫だろうか。戊陽は詩作があまり得意ではない。
「あら詩がお好きなんですね。でしたら是非洋様のお詠みになった詩を聞かせて下さいな」
戊陽の背筋がぴっと伸びる。声には出さずに「ほらみなさい」と毒づいた。
「うむ……私は、詠むより聞く方が好きでな。詩作なら私よりこれの方が得意なのだ」
これ、と言って戊陽の持った扇子の先が玲馨を示す。突然水を向けられた玲馨は桂茜に期待を込めた眼差しを向けられてたじろいだ。
頭を回らし玲馨を振り返る戊陽の目には多少の申し訳なさが滲んでいる。燕太傅が草葉の陰で悲しんでいるなと思いつつも、結局こうして頼られると悪い気はしないので、戊陽のこういうところは玲馨にも責任があるのだ。
筆を持ってきてもらおうかと思ったが、あまり形に残すものでもないだろうと思い直す。短い間どんな詩を詠むか目を閉じ考える。やがて思いつくと体ごと桂茜へと正対した。
ぽう、と頬が赤く染まって見えるのは決して酒のせいだけではないだろう。一方玲馨は顔にこそ出さないが、桃のような頬を見ながらしくじったなと思う。
玲馨は自分の容姿の事をすっかり忘れていた。なまじ宦官などになってしまったせいで玲馨の中性的な顔形は、男特有の力強さが無い分どこか神秘的な美しさを持つ。とはいえやはり男なので、手は女より節が目立つし上背もある。全く男を感じないわけではないという絶妙な塩梅に加え、戊陽のおかげでたった今披露した詩作を始めとした文化にもある程度通じているとくれば、玲馨こそまさに垂涎の的なのである。
玲馨はそれをよくよく自覚していたので滅多な事では自分を目立たせるような事をしない。しかし初めて訪れた妓楼の雰囲気に中てられたのか、或いは久しぶりに詩に触れられるおかげで柄にもなくはりきってしまったのか、玲馨の声と言葉で誉めそやされた桂茜からまんざらでもない様子でぼんやりと見つめられる事になってしまった。
主人である戊陽を差し置く訳にはいかないので、玲馨はわざとらしく咳払いをして「お耳汚しを失礼しました」と堅苦しく礼をしてから体の向きを戻す。
桂茜が玲馨に夢中になってしまったせいで場の空気はすっかり白けてしまった。客である三人は気にしていなくとも、桂茜についてきた少女二人がやや気まずそうにちらちらと目配せを交わしている。
この空気をどうしたものか。
「──やぁやぁこんばんは! 今日も可愛くお利口にしていたかい茜茜ー!」
それは何の前触れもなく突然だった。
断りもなく扉が勝手に開け放たれたかと思うと一人の中年男性がずかずかと部屋に入ってくる。酔っぱらったよその客だろうかなんて事を考えたのはほんの一瞬の事で、男の顔を見た玲馨と戊陽は驚愕の表情のまま動きを止めた。
「も、もうっ! 勝手に入ってこないでよお父さん!」
──お父さん?
「おい梅」
「はい……え? 嘘ぉ、これがそうなんですか?」
勝手に部屋に入り込んできたばかりか千鳥足で桂茜に絡みにいく男の正体を知って梅が鼻白む。しかし本来の仕事を果たすべく立ち上がった梅は、男がこちらを気にするより早くに動いて手際よく男を拘束する。
「んえ?」
体格の良い梅に羽交い絞めにされ、赤ら顔で間抜けな声を上げる男こそ桂昭その人だった。
あっけらかんと話す卓浩の雰囲気は、彼の養父であるあの薬師にそっくりだった。妻と甥の不義によって誰より気の毒な立場だった薬師卓珍だが、息子が彼に似て育った事は卓珍にとっても周子佑にとっても或いは幸いな事だったのかも知れない。
そうしてほんわかとした性格に育った卓浩だが、彼は自身の置かれている状況がよく分かっていないのか、それとも腹を括っているのか、周子佑に比べて驚くほど軽快に質問に答えた。
曰く、北玄海と山芒の橋渡しをしたのは「桂」という名の男だったという。
姓しか思い出せない辺りが、何とも実父との血縁を希薄にさせる。周子佑は決して口八丁だけの男というわけではなく、北玄海の内政についてもおおよそ把握していた。だからこそ、自身の関与しない北玄海と紫沈の高官同士の繋がりや、玲馨が文官の供をしたあの視察を親子の危機と認識して息子を逃がすために命からがら北から故郷へ逃げたのである。
それにしても、「外使官」などというものが置かれている事に気付けなかったのは失態だった。恐らく北玄海の対外的な事に対応するための役職で、そこを突けば塩の密売の情報も落ちてきた事だろう。だがそうならないために周子佑が玲馨たちの対応をさせられたのだ。北玄海の水王は侮れない人物のようだ。
「玲馨! お前もたまには剣を握れ!」
額から汗を流して爽やかに笑う戊陽が剣を持った手を持ち上げ、思考に耽っていた玲馨を呼ぶ。
先日の李将軍との手合わせでは良い勝負をしながらも結局最後まで勝ち星が付かなかった事が悔しかったようで、今日は朝議から戻るなり着替えて黄麟宮の庭で木剣を振り出した。
文事はさておき武事にはあまり興味を持てない玲馨は何とかして彼の無邪気な誘いから逃げたいところだが、今は四郎の他に宮女たちの目もある。
渋々予備の木剣を手に戊陽の正面まで歩いていき構えると、戊陽が強気に微笑んだ。
「着替えてくるくらい待ってやるが?」
「いいえ陛下。陛下となら一、二本打ち合っただけで私は腰砕けになりますので」
弱気な事を言ったせいか戊陽から笑顔が消えて途端につまらなそうな表情になる。しかしやめるつもりはないようで、気合いの籠った掛け声と同時に木剣を打ち込んでくる。
カンッと乾いた音を立てて木剣の腹同士がぶつかると、玲馨の腕の骨にビリビリと痺れるような振動が伝わってきた。手心は加えられているようだが、体格が一回りほど違っているおかげで上から打ち下ろされる勢いは相当なものだ。
一合、二合と斬り結んで一度距離を取り、再び木剣が重なった時、戊陽は不意に声を潜めて玲馨にある事を伝えた。
「桂は名誉貴族だ」
思わず気を取られて腕の力が緩んでしまい、戊陽に押される形で背中から地面に倒れ込みそうになる。咄嗟に左手を後ろに伸ばしたがその手が地面に触れるより早く戊陽に腰を支えられ、どうにか背中を打ち付けずに済んだ。
「訓練不足ではないか?」
至近距離での挑発するような笑みに対し、戊陽の影になって周囲から見えないのをいい事に睨み返す。と、眉根が寄って今度は困ったような笑顔に変わる。だがどことなく喜色が滲んで見えるのは、玲馨が気兼ねしない態度で接するのが好きだからだ。
「すまない。加減を間違えた」
玲馨を立たせると、腰から手が離れ、桃の香が遠ざかっていく。
「いえ。ですから申し上げたでしょう、腰砕けになりますと」
「ふ、はは、そうだったな。優れた武人ほど相手との力量差を正確に読めると言うし、お前も嫌わず稽古をこなせば武に優れた宦官になれるかも知れないな」
なりたいとは思わないので、とりあえず拱手して「光栄で御座います」と適当に返しておいた。
名誉貴族とはその昔、勲功貴族や一代貴族と呼ばれていたもので、その名の通り一代限りの身分でその子孫は貴族ではなかった。しかし時が下るにつれて一代限りではなくなり名誉貴族と名を変えて、歴史の長い氏族は百年ほど続いている。
しかし、元々が一代限りの身分であった事から、他の貴族と比べて皇帝への忠誠心は希薄だ。それは今現在でも変わっておらず、皇帝の縁戚や四王の縁戚と比べて位が一つ低くされている。
つまり、名誉貴族とは歴史の長い氏族ほど皇帝への忠誠心が薄れる傾向にあり、現在の沈では皇帝にとって最も信頼出来ない中央貴族という事だ。
「次で最後だな」
玉座から響く戊陽の声に、玲馨は思議から戻ってくる。上奏の最中につい考え事をしてしまった事を反省する。
桂が名誉貴族だと分かってから一日が過ぎたが特に進展はない。
「あわいについてご報告が御座います」
最後と言われて立ち上がったのは向家長男の向亗だ。向亗は玉座を中心に壁に沿って両脇に縦列した中で右列の前から二番目に座っていた。
初めて顔を見るとは言わないが、これまではもう少し目立たない位置に居たと記憶している。また玲馨の知らない間に配置換えでもあったのだろうか。
「解状より、やはりあわいが拡大しているとの事です」
向亗は確か工部という官署の次官だったはずだ。長官は長く体調を崩しているので代わりに向亗がここに居るのだろうが、それにしてはまるで萎縮した様子が無いのが気になった。
周囲は誰も彼も殆どが五十を越えた老人高官ばかりの中に、恐らく二十代から三十代ほどの若者が交じると大抵は緊張で肩が縮こまってしまうものだ。
どこか向亗の態度に違和感を覚えつつも再び考え込んでしまわないよう向亗の声に耳を傾ける。
「つきましては、東門の外に影壁を造設してはいかがかと存じます」
周囲から戸惑いのどよめきが起こる。あわいが紫沈に近付いているその対策に、影壁というつまりは壁を造る事の意味が分からない。
「影壁には中央を守護する黄龍を彫らせ、妖魔から城や町を守らせるのです」
──黄龍か、なるほど。媚びを売ろうとしているのか。
四方を守護する四神と共に中央を守護する神は黄龍という。沈では四神よりも一つ上の神格として扱われるが、建国神話などでは同格として描かれる。皇帝に都合の良いように人間が勝手に黄龍を格上げしたという事だ。それは嘗ての皇帝の権威がとても高かった事も示している。
禁軍が掲げる旗は朱華色に染めた生地に黄金の龍を刺繍した物が使われる。しかし近年ではそうした神に対する信仰のようなものは薄れて久しい。
紫沈の外壁に沿って黄龍を置くという事は、改めてこの紫沈が皇帝のものであると主張する意味合いがある。そして恐らく、妖魔避けとして効果が発揮されれば今度は四方にこれを造ろうとなるはずで、それにもまた黄龍を彫らせれば民はこれを崇め黄一族の民であるという意識を強めるのに一役買うという寸法だ。
向亗の考えが読めた者たちの顔付きは険しいものに変わっていく。当の戊陽にも笑顔は無い。
「それをするには、国庫の問題があるな」
戊陽が指摘すると官吏たちは視線を下げた。なるほど確かにこの宮廷には純然たる中央貴族は随分と少ないらしい。
戊陽が即位してからというもの漠然と宮廷内の全てが敵だと思っていたが、紫沈に根差した貴族にとって皇帝の威光が鈍くなるのは歓迎出来ない事態だったはず。にも関わらず、所謂皇帝派閥のような官吏がこれといって現れないという事は、およそ七十年かけて中央貴族は四方貴族に侵食されていったのだ。養子縁組を利用して。
七十年もあればニ世代、或いは三世代まで四方の息が掛かっている事になる。そうなればもはやそれは中央貴族の皮を被った四方貴族だ。
独裁者であった凱寧の目を盗んで勢力を増していった四王と、天子教育をされないまま即位した戊陽との力の差は歴然。以前までよりもはっきりとそれが分かるようになった。玲馨でさえそう感じるのだから戊陽の目には四方に高く聳え立つ障壁のように見えている事だろう。
恐らく影壁造設の話がまとまる事はない。沈は現在、財政難だ。中央の金は恐らく外に流れている。
玲馨は最前に黙して座る老人を見遣る。戊陽が何を言っても一切の動揺を見せない石のような老爺。彼が尚書令の林隆宸だ。
戊陽とそして玲馨は、彼を黄昌毒殺の首謀者だと考えている。
林隆宸はいついかなる時も冷酷、冷淡だ。声を荒げる事もなければ嘲笑する官吏に混ざって口角を釣り上げる事もない。それは誰かを思い出す。東妃だ。彼女の冷たい気配と林隆宸のあまりにも端然とした様は、例えば親子だと言われたら疑いもしないだろう。
東江に暮らす民はひょっとすると血が通っていないのではないかと疑うほどに、冷ややかな雰囲気を持つ者が多い。その中でも第五皇弟の小杰だけは母に似なかったようだ。無論、賢妃や戊陽も東江の一族とは似つかぬ暖かな空気を持つ人たちだ。
「国庫を潤沢にするのであれば、税を引き上げる他ありますまい」
思いの外影壁について粘る向亗を見かねたか、林隆宸が口を挟むと水を掛けたように静まった。しかしすかさずそれを戊陽が否定する。
「それはならぬ。取り上げるとしたら各王たちの税収だ。しかし──」
沈は時刻を告げる音が日に三度鳴らされる。早朝と夕方、そして正午だ。朝議とはその名の通り朝に行うものと決められており、正午が刻限となる。
玲馨の想像通り影壁の件は何一つ話は進展せず官吏たちは解散していく。向亗もこうなる事を想定していたのかさほど気にした様子はない。あくまで向家は皇帝を後押しするという主張のつもりだったのかも知れない。
皆が礼をし解散した後で戊陽は玉座からのっそりと立ち上がる。思えば正午まで朝議が続いたのは久しぶりだ。凝り固まった体を人目も憚らずに伸ばす戊陽をぼんやりと見つめ、はて、と玲馨は思う。
──今日は後宮の話が持ち上がらなかったな。
まさか本当に戊陽の刺した釘が効いているとでもいうのか。あの古狸たちを相手に。
どうにも朝議に漂っていた据わりの悪い気配を気にしつつも、戊陽の後に続いて外廷を去る。
「見えたか?」
「はい」
頭が痛むと方便を使って四郎に侍医を呼びに行かせ二人きりになると戊陽は徐に訊ねる。それに頷きながら「左列後方ですね」と返す。
「しきりに欠伸をしている男がいたろう。そいつが桂だ。桂昭といって発言しているところは見た事がないし誰かに付き従っているという風でもないな」
確かに終始退屈そうに見えたが玉座から遠い席に、他の官吏の影に重なるようにして座っていた。恐らく普段からそうして目立たないようにしているのだろう、玲馨は桂昭の顔に見覚えが無かった。
「よく覚えていましたね陛下」
「朝議に顔を出す者なら概ね顔と名前が一致する。二年間ぼうっと椅子に座っていた訳ではないぞ?」
勿論玲馨とてそれはよく分かっている。彼があの張りぼての椅子にどんな思いで座っているのか、玲馨とて二年の間見てきたつもりだ。
「卓浩の言う桂があの男の事かは分からん」
いかんせん卓浩は桂という姓しか覚えていなかった。
玲馨は卓浩との会話を思い出す。
『中央のお役人さんといっても何だか野暮ったいお人でした。無精髭を生やして衣もくたくた、紫沈からの使いだというので向のお屋敷に上げたのを最初は後悔するほどでした。でもお話がお上手な方で……そうそう、確か柳がお好きだと仰っていたのを覚えていますよ。向青倫様は何故かそれを聞いて渋い顔をなさったのですが』
つらつらと当時の記憶を語ってくれたうち外見の特徴は役に立つかと思ったが、それがそういう変装だった可能性も否めない。玲馨も紫沈を発つ時は宦官の衣から着替えていく。
他に手掛かりになりそうなものというと──。
「『柳』は、妓楼の隠語です」
玲馨の脳裏には、大きな目と丸い頬で愛らしく笑う少年の姿が浮かんでいた。猿猿の母は妓女で、妓楼の事を柳と呼ぶのは彼から教わった事だ。生涯縁の無いはずの知識を思わぬ所で思い出したが、これが本当に役に立つかはまだ分からない。
「木王が嫌な顔をしたというのは、妓楼通いを想像したからではないでしょうか」
気心知れた仲ならいざ知らず、身なりを整えようともしない男から女を買っているという話題が飛び出してきて印象が良くなる者がどれだけ居るか。
「妓楼か……。市井の事となると途端に弱るな。視察が足りていない証拠だ」
「視察をするにしても妓楼があるような場所に向かう事は無いでしょう」
戊陽はうーんと低く唸って腕を組む。
「……ここは、詳しそうな人間に訊くしかあるまいな」
「で、俺が呼ばれたって訳ですか」
「そうだ。役人が通っていそうな妓楼の事を知らないか?」
「っても、妓楼なんて縁が無いですからねぇ」
困ったようにして頭を掻く梅を、玲馨と戊陽が揃ってじっと見つめる。
「ちょっと、何ですかその目。あんな所は金持ちの行く所ですよ」
「自警団の人間なら妓楼に通うくらいの給金は出ていただろう」
「まぁ……そういう奴も居たけど、それでも役人が行くような所なんざとても」
妓楼にも格というものがある。高級なところほど妓女は技芸に秀で、時事にも詳しく、見て良し喋って良し、夜の具合もまぁ当然のように仕込まれているとくれば、日の高いうちから金持ち客で賑わうのだとか。
一方、そうした妓楼は紫沈にも一つか二つで、その他はつまり庶民を相手に商売をするのだが、これが一気に格が落ちて出てくる飯も酒も質は悪く、灯火具用の油は高価なので夜には灯りをつけずにこっそり営業しているような店もあるのだとか。ちなみに全て猿猿の受け売りである。
「妓楼……妓楼と言やぁ、お国が運営してる妓楼があるけど、大抵のお役人ってのは疚しい事でも無けりゃそういう所に行くもんじゃないですか?」
今度は戊陽へと視線が集中し、戊陽は苦笑する。
「しまったな。商業の方にはほとんど手を付けてなかった。これは私の落ち度だな」
要は国営の妓楼の事など知らないという事らしい。
「だったら実際に行ってみたらいいんじゃないですか? お忍びで」
「妓楼に? 陛下が?」
まさかとんでもない。妃の事も何も決まっていないのに妓楼通いなど知れたらどんな噂が立つか。
しかし反対するのはどうやら玲馨だけのようだ。
「そうだな。それなら、報告の手間も省けるな、玲馨」
長い長い溜息が玲馨の口から漏れていく。梅はそんな玲馨を見てけたけたと笑い、戊陽は神妙な面持ちで「頼んだぞ」という顔をする。
梅の事はさておき、戊陽に言われたら皇帝と宦官という関係を抜きにしても断れないのが玲馨という人間なのだ。
お忍び、というからには忍ぶのである。とは言えあまりにもみすぼらしい格好をしてしまうとどうやら門前払いをされてしまうほどには、高級妓楼とは敷居が高いもののようだ。
貧民出身の宦官、後宮育ちの現皇帝、庶民生まれ庶民育ちの元自警団の三名ではこの辺りの塩梅に非常に頭を悩ませた。
とにかく皇帝の身分を隠すためにあまりにも上等な装いをする事だけは避け、紅桃宮で即位前に着ていた衣からどうにか一般的な官吏らしい装いを見繕うと、玲馨と梅はその従者として質素な格好に化けた。
「ふむ。まぁまぁ様になっているのではないか?」
「そりゃあもう新進気鋭の若手官僚! ってな感じで、良家のお嬢様が放っときませんよ」
それは当然だろう。何せ皇帝になる前に着ていた衣なのだから戊陽に似合うように誂えてある。しかし皇族には見えないと言われて美しく磨かれた青銅鏡を見て満足げに笑う皇族など後にも先にも戊陽くらいのものだろう。変わっているというより好奇心が強すぎるのだ。今彼の頭は初めて訪れる妓楼の事でいっぱいになっているはず。
「陛下、目的をお忘れにならないで下さい。あくまで私たちは『桂』を見つけるために妓楼へ行くのです」
「何だ、嫉妬か?」
戊陽がいつもの調子で冗談を飛ばす。ひひっと梅の下品な笑い声に玲馨の柳眉が釣り上がった。
「この者を連れて行く必要は無かったのでは?」
暗に梅の事を示すと本人は肩を竦めておどけてみせる。怒るでもなく軽い調子でいなされると、どうにも相手に上手を取られたような気がして癇に障った。
宮女や宦官に見つからないよう三人は慎重に部屋を出る。
「万一のためだ。梅の強さはお前も見たろう」
確かに、山芒までの道では命を救われた。辛新に脅された時も強気に出られたのは梅が見張りをしていたからだ。だが、しかし、反りが合わない事ばかりはどうにもならないのだ。感謝こそすれど、今後ともよろしくはしたくない。
ぐうと唸る訳にもいかないので胸に納める。そんな玲馨の心を知ってか知らずか戊陽が「それに」と言葉を継ぐ。
「市井には私もお前も詳しくない。迷って目的地に着けなければ何のためのお忍びか」
「仰る通りで御座います、陛下!」
他人の金で妓楼に行ける事が嬉しいのか、それとも何やら面白い事が起きそうだとでも考えているのか梅はご機嫌だ。至極真っ当な理由を言われてしまってはもはや反論する気も削がれるというもの。玲馨のは単なるわがままに過ぎない。
妙な事にならなければ良いと祈りながら、紅桃宮を出て市井へと続く午門の方へと向かった。
魚鱗甲の甲冑は禁軍所属の兵士の証だ。丈夫な鎧と長柄を手に仁王立ちした姿は厳しく、特に皇族の住まう殿舎付近の見張りの兵士たちは勤勉な者から選ばれる。
さすがに彼らの目を誤魔化す事は出来そうにない。しかしここまで来て二の足を踏みたくないというのは三人とも共通していただろう。
どうするつもりか、戊陽が一行を代表するように門衛の方へ進み出る。戊陽に気付いた兵士がさっと礼の姿勢を取るとその握った拳を掴んで何かを握らせた。それからこう囁く「朝には戻る」
兵士が拳を開くとそこには銀が一枚。彼らの俸給の、さて、どれくらいだろうか。三月かそれとも半年か。今後とも是非見逃してくれという意味が込められている。
一体どこでそんなやり方を知ったのかと思ったが、よくよく考えてみたら戊陽は幼い頃後宮をしょっちゅう脱走しては見張りの兵士や宦官に宮女たちを困らせていた不良皇子だった。きっとその頃に鼻薬を嗅がせる方法を学んだに違いない。そうしていくらかの兵士は処罰されたのだろう。
城を出ても誰一人追いかけてくる者が居ない事にほっとしつつ、城下を進み始める。
日が暮れた後の城下はどの家からもすっかり灯りが消されており、道を照らすのは月明かりばかりだ。宮城では宦官でさえも夜には自室で灯りを灯したりするので、民の質素な暮らしぶりが通りを歩くだけでも感じられた。
どれくらい歩いただろうか。感覚では半時辰ほど経った頃だ。真っ暗な通りに突然煌々と灯りが漏れる楼閣が現れた。
「あれがそうか? 金の柱とはまた豪奢な」
「あれは全部鍍金ですよ。鍍金だって知られてからは、俺たちみたいな庶民からやれ品が無いだの成金だのやっかまれてましたね」
いつ頃建てられた物かは分からないが、風雨に晒されて柱の塗装が一部剥げている。夜闇の中でも分かるのはちょうど人の目線の高さに禿げがあるからだ。ぽつぽつと斑に剥げて内側の木が露わになってしまっている。触れると硬くてギザギザした鍍金の端が皮膚に引っ掛かった。
「職人が居ないのかも知れないな。──さて、では参るぞ」
頼もう! と大声で叫び出しそうな気迫で、戊陽は妓楼の前の低い階を上がっていく。その足元を玲馨が持ってきた手燭で照らす。
最後尾は梅だ。傍目には分かり辛いが、梅の手は剣の柄にかかっていた。
「あれ、お客様ですか?」
「ああ、そうだ」
どこか肩透かしを食らったような声で答えたのは戊陽だ。後ろに控えている玲馨も同じ気持ちで内心頷く。
扉の向こうは女の花園──という事はなく、まず奥の部屋を隠すようにして置かれた衝立が三人を出迎えた。衝立の真上には更に紗が左右に分かれて掛けられている徹底ぶりは、扉が開いた時にうっかり外から中が見えてしまわないよう配慮してあるのだろう。
と、いう事はまさかこの衝立の向こうでは、などと考えたが案内の女に誘われ紗を潜ってみるとそこには吹き抜けの広い空間が広がっていた。壁に沿っていくつか円卓と椅子が用意されており、一階では食事と酒を嗜めるようになっているらしい。
二階から三階にかけては全ての部屋に扉があるのでつまりその先では妓女におもてなししてもらえるようだ。
妓楼の内装は、外の鍍金の柱から受ける印象通りどこもかしこも派手だ。
赤と緑に塗られた壁や階段、手摺りに欄干と、それらをぼんやりと照らす真っ赤な提灯。円卓のある空間は、入り口を隠していた紗と同じものが垂らされて何とも妖艶な雰囲気を醸している。他には龍が彫られた縁の中に「夜華楼」とこの妓楼の名が書いて二階の欄干に掛けてあったりと、とにかく飾れる所は全部飾っておこうという感じだ。
入り口から見て正面、吹き抜けの中央にある椅子に掛けて待つ事しばし。
「ご案内致しますね」
最初の案内の女が戻ってきてにこやかに言うと、玲馨たちを二階へと誘導していく。
一見では断られる可能性を踏まえて女には事前に戊陽が玉佩を見せていた。雲朱の鉱山で出る美しい玉をあしらった佩飾で、蓮を模した青磁に紐は東江産の絹を使ったりと、目利きが出来ない者でも高価であると一目に分かるような代物だ。
それがちゃんと効いたのか、通された部屋の造りは悪くない。剥げた鍍金を思い出すとどうしても経営難が頭を過ぎったが、戊陽が呟いていたように職人が足りていないだけなのかも知れない。
「ここは、芸ばかりを売るのでしょうか?」
妓女を待つ間ふと疑問に思った事を口にする。
屋内の雰囲気や二階三階のぴたりと閉じた扉を見て閨事まで想像してしまったが、国営の妓楼ならばもっと高尚で格式高いものではないだろうか。妓女たちには教養があって、才女たちが好むのは専ら詩歌や書だという。
何よりこの部屋へ通されてから、隣室から音らしい音は聞こえてこない。扉の外、一階で響く楽しげな喧騒はうっすらと聞こえてくるというのにだ。
「さて……。昔は高級妓楼を青楼と呼んだらしいが、あわいの発生以後は娯楽も衰退した。芸だけ売って店の経営が保てたのならそのままだろうが……」
そうはいかないのが今の沈だろう、という事だ。ではやはり、と思っているうちに扉の縁を叩く音がして、着飾った妓女が数人入ってきた。後に続いて見習いのような少女たちが酒を運んでくる。
胸元まで引き上げた薄青の裙に柔らかな白の披帛、飛仙髻に結い上げた髪に刺した金の簪とどれを取っても一見すると艶やかだ。後宮の妃に負けずとも劣らないほど美しいのだが、見る者が見れば妓女を飾り立てる物の質がさほど良いものではないとすぐに分かる。
しかし、ここにいる妓女たちの中で恐らく一番格上と思しき女がつける簪は銀で出来ているようで、揺れものには翡翠があしらわれている。銀の簪はくすんだりせず、翡翠も琅玕という最高級品のようだ。きっと誰からかの贈り物だろう。
「よくいらっしゃいました。初めてお目にかかります桂茜と言います。茜茜と呼んで下さいな」
たおやかな仕草と柔和な笑みには知性が感じられ、それでいて畏まり過ぎない所が隙を作って男たちの垂涎の的だろう事が窺える。男慣れしない生娘という訳ではなく、かと言って人擦れしているほどでもない絶妙さには、幼少からの教育が垣間見えた。
山芒で玲馨と梅に睡眠薬を仕込んだあの彼女とは雲泥の差である。当然こちらは仕事なのでそも比べる事自体が間違いだが。
「空はとうに真っ暗ですもの、お疲れでしょう? さぁ、まずは一献」
身なりからきちんと戊陽を上役と判断して彼には桂茜が自ら、両脇に控える玲馨と梅には年端もいかぬ少女が酒を注いでくれる。
「ふふ、無口でいらっしゃるのね。ねぇ、御名を教えて下さいませ」
「洋だ」
桂茜は「まぁ」と少し驚いたように目を丸くしてからまた柔らかく微笑む。姓を名乗らなかったから、やんごとない身分だと思ったのかも知れない。
一方玲馨の内心は不安でいっぱいだった。何て安直な偽名かと、事前にその辺りを相談しなかった事を後悔する。隣に座る梅は楽しそうに少女とお喋りをしているのでますます頭が痛い。
玲馨の相手をしなくてはならないだろう少女には申し訳ないが、玲馨は酒に口を付けるフリをしながら思案する。
妓女の名は桂茜。図らずも玲馨たちの探し人と同じ姓だ。だからと言って身内とは限らないが、偶然にしては出来すぎている。
戊陽もそれには気付いているので、相手の出方を窺うために無口を演じざるを得ないのだろう。
相手はさすがにその道の玄人だけあって、相槌ばかりの戊陽にも気を悪くした風は一切無い。それどころかどうにか話を引き出そうと上手に戊陽の関心ある事柄を聞き出している。適当に詩歌などと答えているが、果たして大丈夫だろうか。戊陽は詩作があまり得意ではない。
「あら詩がお好きなんですね。でしたら是非洋様のお詠みになった詩を聞かせて下さいな」
戊陽の背筋がぴっと伸びる。声には出さずに「ほらみなさい」と毒づいた。
「うむ……私は、詠むより聞く方が好きでな。詩作なら私よりこれの方が得意なのだ」
これ、と言って戊陽の持った扇子の先が玲馨を示す。突然水を向けられた玲馨は桂茜に期待を込めた眼差しを向けられてたじろいだ。
頭を回らし玲馨を振り返る戊陽の目には多少の申し訳なさが滲んでいる。燕太傅が草葉の陰で悲しんでいるなと思いつつも、結局こうして頼られると悪い気はしないので、戊陽のこういうところは玲馨にも責任があるのだ。
筆を持ってきてもらおうかと思ったが、あまり形に残すものでもないだろうと思い直す。短い間どんな詩を詠むか目を閉じ考える。やがて思いつくと体ごと桂茜へと正対した。
ぽう、と頬が赤く染まって見えるのは決して酒のせいだけではないだろう。一方玲馨は顔にこそ出さないが、桃のような頬を見ながらしくじったなと思う。
玲馨は自分の容姿の事をすっかり忘れていた。なまじ宦官などになってしまったせいで玲馨の中性的な顔形は、男特有の力強さが無い分どこか神秘的な美しさを持つ。とはいえやはり男なので、手は女より節が目立つし上背もある。全く男を感じないわけではないという絶妙な塩梅に加え、戊陽のおかげでたった今披露した詩作を始めとした文化にもある程度通じているとくれば、玲馨こそまさに垂涎の的なのである。
玲馨はそれをよくよく自覚していたので滅多な事では自分を目立たせるような事をしない。しかし初めて訪れた妓楼の雰囲気に中てられたのか、或いは久しぶりに詩に触れられるおかげで柄にもなくはりきってしまったのか、玲馨の声と言葉で誉めそやされた桂茜からまんざらでもない様子でぼんやりと見つめられる事になってしまった。
主人である戊陽を差し置く訳にはいかないので、玲馨はわざとらしく咳払いをして「お耳汚しを失礼しました」と堅苦しく礼をしてから体の向きを戻す。
桂茜が玲馨に夢中になってしまったせいで場の空気はすっかり白けてしまった。客である三人は気にしていなくとも、桂茜についてきた少女二人がやや気まずそうにちらちらと目配せを交わしている。
この空気をどうしたものか。
「──やぁやぁこんばんは! 今日も可愛くお利口にしていたかい茜茜ー!」
それは何の前触れもなく突然だった。
断りもなく扉が勝手に開け放たれたかと思うと一人の中年男性がずかずかと部屋に入ってくる。酔っぱらったよその客だろうかなんて事を考えたのはほんの一瞬の事で、男の顔を見た玲馨と戊陽は驚愕の表情のまま動きを止めた。
「も、もうっ! 勝手に入ってこないでよお父さん!」
──お父さん?
「おい梅」
「はい……え? 嘘ぉ、これがそうなんですか?」
勝手に部屋に入り込んできたばかりか千鳥足で桂茜に絡みにいく男の正体を知って梅が鼻白む。しかし本来の仕事を果たすべく立ち上がった梅は、男がこちらを気にするより早くに動いて手際よく男を拘束する。
「んえ?」
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美咲アリス
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虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
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