ピアニストは恋を奏でる

沖弉 えぬ

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2話ー①

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 十月十六日、麗に初めて出会った日から十日と少しが過ぎた。家事代行サービスの代わりに麗から教えてもらった宅配サービスを使って食事を賄っていたが、今日は昼食を注文してから二時間が過ぎていた。最終的に届け先不明というメッセージと共にキャンセル扱いになって呆然としてしまう。昨日までちゃんと届いていたのに何がどうしてこんな事になったのか、もしかして自分が何かミスをしてしまったのかとしばらくあたふたしていたが、空腹に耐えかねてマンションを出た。足は自然と記憶を頼りに動き出す。少しだけ通い慣れ始めた道。
 今のマンションで暮らし始めて一年経つが、近所に野良らしき黒猫が現れる事を初めて知った。夜空は塀の上で微睡む黒猫に手を伸ばす。人馴れしているようで素直に触らせてくれる。毛艶が良い。きちんと栄養を取っている証拠だ。食事がままならなくなった母の窶れてしまった姿を思い出す。この場に彼女が居たら顔色一つ変えずに夜空の手を掴み猫から引き剥がしただろう。ピアニストが指を怪我するなんてあるまじき事だと叱るはず。近頃の夜空は、頭の中の母に対して少しだけ反抗的だ。
 目的のカフェバー「Jazzy」という看板が見えて夜空は愕然とした。ランチタイムの営業時間を少し過ぎてしまっていたのだ。出直すべく踵を返したところで、店の中から夜空が見えたのか慌てた様子で麗が飛び出してきた。
「帰ると思ったよ! ちょっと営業過ぎてるくらい気にしないで、ほら入って」
 腕をがっちりと掴まれ店内に引きずられた。
 カフェバー「Jazzy」はその名が示す通り最初はジャズを聴ける喫茶店として麗の叔父、つとむが五年前に営業を始めた。しかし次第に食事の方で評判になり、店で演奏してくれるジャズバンドが解散になってしまうと、勉は看板に書かれた「ジャズ喫茶」の部分だけペンキで塗りつぶした。一年前から勉のところで働き始めた麗が看板の存在に気付いて、店名の上に「Cafe&Bar」という単語を足して今に至る。
 夜空が注文したカルボナーラを提供すると、麗はエプロンを外して雑談に興じる。
「俺はね、ピアノが弾けない作曲家兼、売れない作曲家。作曲一本じゃご飯食べていけなくて、去年の夏までヒモしてたんだー」
 紐? とハテナを浮かべ、遅れてヒモだと気付く。売れない画家が資産家の女性の援助を受けて大成するという映画を見た事がある。母は画家の状況を見て「ヒモね」と一言。道端の小石を小石と呼ぶような言い方だった。
「相手はね、男」
 カウンターの上で組んだ両手に顎を乗せ、麗が口角の片側だけを吊り上げる。妖艶な、という形容詞をここまで見事に表現出来るのは一種の才能だ。
「男のネコちゃん」
「猫?」
「そ。ネコちゃん」
 近所の黒猫の媚びるような鳴き声が聞こえた気がした。麗が何かを期待しているような目をする。こういう時の麗だけたちまち何を考えているのか分からなくなって、期待の中身も見当がつかなくなる。きっと夜空の経験値が足りていないのだ。が、気付いたところでその差は一朝一夕で埋まるものでもない。
 答えるべき言葉が浮かばず、ただただ麗の鳶色の瞳を見ていると、不意にウインクをされた。何でウインクなんかと思うのに、胸郭の内側にある夜空を生かすポンプは活発になる。BPMは八十から九十くらいか。今日で会うのは三回目だが、麗に期待されると夜空は毎回必ずこうなった。
「麗はカンタービレだ」
「それなら知ってる。表情豊かに、だよね?」
「合ってる」
 よく言われると言って麗は笑う。
「同じようなのが他に無かったっけ? エ、エ何とかっていう」
「エスプレッシーヴォ?」
「そうそれだ。意味同じじゃなかった?」
 麗に足りないのは圧倒的なソルフェージュ、基礎的な知識と訓練だという事を指摘してから彼なりに色々ピアノについて学び始めたらしく、ただ弾くばかりではなく座学の方も取り組むようになったと話した。クラシックとポップスでは随分勝手が違うと言っては馴染みの無い音楽用語に苦戦している。
「ほとんど一緒だな。ただ言葉の意味だけを言うなら、カンタービレは歌うようにと表現される。エスプレッシーヴォはもっと内面の気持ちを感じてそれを表出させるようにというニュアンスがある」
「一応違いはあるんだ。難しいなぁ……」
 蠱惑的だった表情は消えていた。音楽の話になると麗はとても真面目になる。
 麗の名字は花川はなかわといった。姓も名も風流な名前をしている割に、彼はスペインやイタリアといった地中海付近を連想する風貌をしている。要するに顔が濃い。夜空の知り合いにはスペイン人もイタリア人も居るが、陽気で朗らかな感じは特にイタリア人っぽい。両親も祖父母もそのまた先祖にも外国人の血は流れていないというので、そういう事もあるのかと「そうか」と一言だけ答えると何故か麗がびっくりしていた。麗は感情と表情筋が最短直通だ。「驚き」の感情は拾う事が出来たので訳を問うと「大体嘘だって疑われるから」と話してくれた。嘘を吐く理由がどこにあるのか分からなかったので再度「そうか」と同じ抑揚で答えると、麗は嬉しそうに相好を崩していた。
「夜空、お願いがあるんだけど聞いてくれる?」
 夜空が食べ終えたカルボナーラの食器を下げて麗は再びカウンターのテーブルに頬杖を突く。この店のメニューは割と国籍問わずだ。オムライスは日本、カルボナーラはイタリア、他にもフィッシュアンドチップスがメニューにあったがそれはイギリス。酒もコーヒーも産地に縛りがなく自由な気風があり花川たちの人柄がよく出ていた。
「これ見て」
 まだインクの匂いのする真新しい楽譜をカウンター下から取り出してみせ「この曲レッスンして」と、あるページを開いた。
「パルムグレンか」
 夜空が弾いたパルムグレンの粉雪を検索にでも掛けたのだろう。パルムグレンはあまりメジャーとは言えないので、適当に楽曲を探して辿り着く音楽家とは言い難い。
「『星はまたたく』は麗には少し難しいと思うが」
「それは先生の指導力によるかも?」
 茶目っ気たっぷりにウインクされて挑発されたのだと気付く。別に麗が曲を弾けようが弾けまいが夜空には何の関係も無いので、挑発されたところで今の麗には難曲であるという意見は変わらない。しかしここはレッスン教室でも大学でもなければましてやコンクールの課題曲でもない。別に完璧じゃなくてもいいのだと気付くと、大学時代の失敗を思い出して強張りかけていた気持ちが自然とほぐれた。
「分かった」
 夜空が了承すると麗は心底嬉しそうに笑う。そうされると「どうせ弾けないだろうけどな」と言いかけていた言葉が引っ込んでいった。彼がよく見せる、誘うようなものとも期待するようなものとも違った笑顔。屈託の無いと形容したくなるそれを曇らせたくないと思った時、頭の中に浮かんだ言葉は不適切な気がしたのだ。
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