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2話ー②
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ピアノの傍に移動する。ヤマハの小型のグランドピアノだ。大学の練習室に同じ物があったが、比較的パキッとした明るい音色の鳴るピアノだ。勉が知人から譲り受けたものだそうだが、麗の元気なタッチを受け止めて遠足に向かう小学生の足取りのような朗らかな音色を鳴らすので、彼らの相性は抜群と言える。
夜空が大屋根の角度を調節する傍ら麗は椅子に座る。椅子は高さが変わっていなかった。ジャズバンドが解散してからというもの、このピアノに触るのは麗だけ。鍵盤に麗が無造作に指を乗せるのを見ていると、ほんの少しの羨望が湧いた。自分も、何の気兼ねもなくそうしてピアノに触れられたらいいのに。
「一昨日からちょっとずつ譜読みして弾いてみてるけど、右手が伴奏っていうのが慣れなくて苦戦してる」
パルムグレンの曲は情景が目に浮かぶような曲が多いと恩師が言っていた。夜空にはその感覚は今ひとつピンとこないものだが、右手の高音域のオスティナートが、タイトル通り星が煌めく様を表現する。その手法は「粉雪」と通ずるものがあるが、恩師曰く粉雪を聴くと一面が雪景色になるし、星のまたたきを聴くとパッと太陽が沈んで木々の間から注ぐあえかな光芒が見えるのだそうだ。
「右手が夜空の星を奏でるんだ」
恩師の言葉を思い出していたからか、ふと、口をついてそんな情感的な夜空らしくない表現が出た。すると麗がぱっと顔をこちらに向けて真っ白な歯を見せる。歯並びが良い上に歯の一枚一枚が大きくて瞼の裏に真っ白な残像が残っていく。
「俺もそう思う」
麗の笑顔は、海風のようだ。彼の笑った顔を見ていると、シュロの木陰からキラキラと陽光が揺蕩う水面を見つめているような心地になる。彼のアイコンには白と海が並ぶなとふと思った。やっぱり地中海だ。
「作曲の参考になる曲をピアノソロの中から探してるんだけど、夜空の弾いた『粉雪』が気になって動画を見た。そこでパルムグレンを知って、他にどんな曲があるか調べてみたら、これが夜空に似てるなって思ったんだよ」
「僕に?」
「夜空の星、だろ? あんたのちょっと灰色っぽい目ってさ、光を集めやすいのかな? 今日みたいな天気の日だと余計に反射でキラキラ光って見えるんだ。自分じゃこんな事、知らないでしょ?」
幅も高さも厚みもある上半身を軽く折り曲げ麗が顔を近づけてくる。途端に意識していなかった柑橘系の爽やかな香りがして十日前を思い出した。
夜空の唇を押し潰す、大きな体に見合う太い親指。あの日は自宅に戻ってから麗に触れられた短い時間を何度も想像していた。水仕事のせいか少しかさついた指の腹、自分の唇より高い体温、柑橘とグリーンが混ざった香り、こちらを見つめる熟した果実のような瞳。そしてその中に潜む、獰猛な野生の気配。
今日までに何度となく思い出しては、夜空は自分を慰めた。何かを想像して自慰をするなんて人生で初めての経験で最初は戸惑ったが、一度気持ち良さを知ってしまうとやめられなくなっていた。
つられて余計な事まで思い出すと全身が火に炙られたかのように火照りだす。
「夜空の指は細くて長いね」
「あ……」
左手を取られ、手の甲に口付けをされる。海外で演奏した時にも同じようにされたが、あちらは儀礼的なものだ。麗のするキスはまるで違う。何が違うのか、言葉には出来ないのだけれど。
「肌が白くて黒鍵によく映える」
麗の手に導かれるままピアノの鍵盤に左手を乗せた。トクトクと心地よく跳ねていたBPMに異音が混じって夜空は慌てて蓋を右手で掴んだ。
「夜空?」
麗が戸惑いつつも気遣う声を出す。横顔に視線が刺さる。
怖い。ピアノが怖い。手で押さえていないと鍵盤に触れない。
そう感じてしまう理由を夜空はきちんと理解しているが、現在もピアノを弾けないピアニストのままだ。そしてそのままピアニスト人生に幕を下ろそうとしている。
「……一年前、『事故』に遭った」
麗に話さなくてはと思った。麗から貰う期待には誠実でありたい。
業界の人間ならみんな「事故」の事を聞き及んでいて説明の必要がなかったけれど、麗は何があったのかを知らない。いや、知らないフリをしてくれているのだと、彼の人柄に触れて勝手にそう感じていた。パルムグレンと同じように検索すれば小舟夜空というピアニストの情報はある程度把握出来るはずだった。
しかしいざ話そうとすると、弦にべったりと弓の毛を当てて弾いたバイオリンの音のように、ギィギィと不快な音が自分の体から鳴り始める。今すぐピアノから手を離したいと体が弱音を吐いている。それを、理性で押しとどめた。
「夜空、ゆっくり息を吐いて、そう……偉いね」
麗は立ち上がり、背中を撫でてくれる。「偉い、偉い」と繰り返され、低く囁く声音が深いところに染みていく。チェロのようだ。柔らかく、豊かで、包み込むような音色が耳に心地よい。
「両手を鍵盤の蓋に挟んだ。左は二本、右手は一本に罅が入って、治療して、リハビリもした。問題なく動くけど、ピアノは弾けない」
鍵盤に置いたままの左手に麗が手を重ねた。小指と薬指を撫でられる。どの指かは言わなかったのに、何故分かったのだろう。もしかしたら普段からそこを庇うような動きをしていたのかも知れない。麗はよく夜空を熱心に見つめているので、些細な仕草から見抜かれてもさほど驚きはなかった。
「蓋を支えないと鍵盤に触れない」
「ねぇ、夜空」
「何だ?」
「手に少しだけ力を入れてもいい?」
麗の指が夜空の指の股を擽っていく。頷くと、夜空の小指の上に麗の小指をという具合に、順番に人差し指まで同じ指を重ねられた。親指は手の大きさが違うせいで重ねるというより囲われている。
麗は左手の人差し指で夜空の人差し指の爪の辺りを押した。高いソの音が鳴る。次の音は一音低いファの音が中指によって鳴らされた。続いてミ、レ、ドと小指まで押し切ったところで麗は夜空の頭を撫でた。
「弾けたね」
チェロの響きが鼓膜の奥に馴染んでゆく。じん、と染み入り、涙腺を刺激した。目の前が僅かに滲む。黒光りする恐ろしいはずの鍵盤蓋の輪郭もぼやけていた。
麗の広い胸板が、夜空の背中にくっついていた。温かい。それどころか少し汗ばむくらいだ。布越しに感じる麗の温度は秋の日の木漏れ日のようだ。夏の日差しのような灼熱ではなく、春の陽光のようにぼやけた温かさとも違う。夏の過ごしにくさから逃げてきた人をやんわりと受け止める温さ。或いは、これから木枯らしが吹き始める事を予感させる哀愁を帯びた温もりのようでもある。
背中の熱に思いを馳せるうち、今なら弾けそうだという気がしてきた。
夜空は譜面台に立てかけた楽譜を捲る。パルムグレンの「星はまたたく」はピアニッシシモのごくごく弱い高音から伴奏が始まって、三小節目に左手の和音がメロディとして入ってくる。その時の発想記号はドルチェ・エスプレッシーヴォ。甘く、柔らかく、そして感情豊かにメロディを奏でなくてはならない。
夜空が本来右手で弾くべき伴奏を左手で演奏し始めると、麗が気付きの呼吸を発した。背中と胸が離れ温度が遠のき、代わりに麗の鳴らす和音がポーンと伴奏に乗ってくる。さっき話題に出したばかりのエスプレッシーヴォをやたらに意識した感情的な音に思わず笑ってしまうと、麗の方からも笑ったような息遣いが聞こえて来た。
地平線に夕日が沈み、紺色の空にちらほらと星が瞬き始める。それは最初とても弱い光だが、やがてすっかり夜の帳が下りてしまえばいよいよ星たちがのびのびと輝きを放つ時間がやってくる。
そこへ、夜の怪しげな音が混じる。それは野犬の遠吠えかも知れないし、獲物に狙いを定めた梟の羽音かも知れない。夜に蠢く自然の営みを星々だけが見ている。
「星はまたたく」という曲は難しい技法もなく、また音の強弱も弱い音を保ちながら静かに終わっていくピアノ曲だ。最後のフェルマータで星々は澄み渡る空に登りきる。
「ふ……」
鍵盤から指を離すその瞬間まで夜空と麗の動きはぴったりと揃っていた。時を忘れ、音に没頭し、一年もの間どれだけ求めても敵わなかったピアノを鳴らす体験に、心の芯まで浸かっていた。
興奮が収まらない。連弾も数えきれないほどやってきたが、他人と息が合うという感覚をこんなにも鮮烈に感じたのはこれが初めてだった。
「あー……すごい。興奮して勃ちそう」
「なっ」
今の発言で全部が台無しになった。星が次々と空から墜落していく光景を想像して落胆する。
「ねぇ夜空、俺の話も聞いて?」
もう少し弾きたいと言い掛けてやめる。
常々情感や情緒が足りないどころか全く無いと言われてきた夜空が、曲に対するイメージを言葉に出来るほど演奏に反映させられた事もまた、初めてだった。その感覚を忘れないうちにもっとピアノに触れたかったが、鍵盤に乗った夜空の左手は小刻みに痙攣していた。夜空の演奏意欲に対し、心の別のところはとっくに限界だったようだ。
「……好きにしろ」
「うん。俺が去年までヒモだった話はしたでしょ? 別れたのは叔父の店を手伝うためにこっちに出てきたからなんだけど、飼い主は別れる時何て言ったと思う?」
「さぁ」
「『お前の金玉は軽いね』だって」
眉尻を下げ、唇を尖らせ、肩を竦める。麗の言葉は下品だ。仕草が可愛らしかろうと誤魔化せるものではない。
「他にも飼い主が居るって思われてたみたい。酷いよねぇ。ヒモにだって人権はあるよ?」
酷いと言いながらも麗の口調は軽い。
「心に傷を負った俺は、閑静な住宅街に建つ、夢を叶え損ねたオヤジの営むカフェなんだかバーなんだかレストランなんだか分からない店にやってくるんだ。今度はどれくらいもつかな? 半年? 三ヶ月? もっと短いかも知れない。でも料理を覚えたり、店のレコードを聴いたりしてたら気付けば一年が経ってた。そこで夜空に出会えた」
麗の目元が撓み、鳶色の瞳が夜空を見上げてじゅわりと溶ける。
「一年は、長いのか?」
麗から目を逸らせなくなっていた。
どぎまぎしながら半分動いていない頭で言葉を模索し投げかける。
「長い方かなぁ。思い立ったらもう駄目なの。バスケ部に入部してたのにサッカーやりたくてサッカー部掛け持ちして怒られて次の日にはバレー部に入って半年で辞めたし、大学休学して二年くらいアメリカでキャンピングカー生活してたし、日本に戻ってからはクラシックの知識つけたくて音大生のフリしてよその大学に紛れ込んでた」
「それは、やっていい事なのか?」
麗は目を細めた。その手を取ってはいけない魔性のそれを浮かべる。
「ダメって言われて、止まれる? 俺は無理。好きな物は見つけた瞬間近付きたくなるし手に入れたくなる。そうしないと眠れないくらい一日中その事を考え続けるんだ」
だから止まれない。
そう言って麗はピアノの蓋を押さえたまま硬直していた夜空に体を寄せて、夜空の左手をエスコートするように取った。厚く大きくて少し硬い皮膚に覆われた麗の手が、夜空の手を彼の口元へと運んでいく。熱感が手の甲にかかり、音を立てて柔らかいものが押し当てられた。
「この店に来て最初に覚えたお酒の作り方があるんだ。強くて、甘くて、飲んだらとろとろになっちゃう、お持ち帰り用のとっておき」
ドンドンと太鼓を叩く音がすると思ったら自分の心音だった。
「それともノンアルコールが良い? 選んで、夜空」
エスプレッシーヴォ。内側から滲み出してくる情動で、麗の鳶色の目が陽炎のように滲む。
「『とっておき』がいい」
麗の目に見惚れているうちに気付けばそう口にしていた。このやり取りが何を意味するか分からないほど世間知らずじゃない。海外の映画や舞台を多く見てきた経験は、終ぞ音楽には活かされなかったが、こんな時にだけ夜空を賢くし、そして同時に愚かにする。
「甘く、蕩かしてほしい」
夜空が大屋根の角度を調節する傍ら麗は椅子に座る。椅子は高さが変わっていなかった。ジャズバンドが解散してからというもの、このピアノに触るのは麗だけ。鍵盤に麗が無造作に指を乗せるのを見ていると、ほんの少しの羨望が湧いた。自分も、何の気兼ねもなくそうしてピアノに触れられたらいいのに。
「一昨日からちょっとずつ譜読みして弾いてみてるけど、右手が伴奏っていうのが慣れなくて苦戦してる」
パルムグレンの曲は情景が目に浮かぶような曲が多いと恩師が言っていた。夜空にはその感覚は今ひとつピンとこないものだが、右手の高音域のオスティナートが、タイトル通り星が煌めく様を表現する。その手法は「粉雪」と通ずるものがあるが、恩師曰く粉雪を聴くと一面が雪景色になるし、星のまたたきを聴くとパッと太陽が沈んで木々の間から注ぐあえかな光芒が見えるのだそうだ。
「右手が夜空の星を奏でるんだ」
恩師の言葉を思い出していたからか、ふと、口をついてそんな情感的な夜空らしくない表現が出た。すると麗がぱっと顔をこちらに向けて真っ白な歯を見せる。歯並びが良い上に歯の一枚一枚が大きくて瞼の裏に真っ白な残像が残っていく。
「俺もそう思う」
麗の笑顔は、海風のようだ。彼の笑った顔を見ていると、シュロの木陰からキラキラと陽光が揺蕩う水面を見つめているような心地になる。彼のアイコンには白と海が並ぶなとふと思った。やっぱり地中海だ。
「作曲の参考になる曲をピアノソロの中から探してるんだけど、夜空の弾いた『粉雪』が気になって動画を見た。そこでパルムグレンを知って、他にどんな曲があるか調べてみたら、これが夜空に似てるなって思ったんだよ」
「僕に?」
「夜空の星、だろ? あんたのちょっと灰色っぽい目ってさ、光を集めやすいのかな? 今日みたいな天気の日だと余計に反射でキラキラ光って見えるんだ。自分じゃこんな事、知らないでしょ?」
幅も高さも厚みもある上半身を軽く折り曲げ麗が顔を近づけてくる。途端に意識していなかった柑橘系の爽やかな香りがして十日前を思い出した。
夜空の唇を押し潰す、大きな体に見合う太い親指。あの日は自宅に戻ってから麗に触れられた短い時間を何度も想像していた。水仕事のせいか少しかさついた指の腹、自分の唇より高い体温、柑橘とグリーンが混ざった香り、こちらを見つめる熟した果実のような瞳。そしてその中に潜む、獰猛な野生の気配。
今日までに何度となく思い出しては、夜空は自分を慰めた。何かを想像して自慰をするなんて人生で初めての経験で最初は戸惑ったが、一度気持ち良さを知ってしまうとやめられなくなっていた。
つられて余計な事まで思い出すと全身が火に炙られたかのように火照りだす。
「夜空の指は細くて長いね」
「あ……」
左手を取られ、手の甲に口付けをされる。海外で演奏した時にも同じようにされたが、あちらは儀礼的なものだ。麗のするキスはまるで違う。何が違うのか、言葉には出来ないのだけれど。
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麗の手に導かれるままピアノの鍵盤に左手を乗せた。トクトクと心地よく跳ねていたBPMに異音が混じって夜空は慌てて蓋を右手で掴んだ。
「夜空?」
麗が戸惑いつつも気遣う声を出す。横顔に視線が刺さる。
怖い。ピアノが怖い。手で押さえていないと鍵盤に触れない。
そう感じてしまう理由を夜空はきちんと理解しているが、現在もピアノを弾けないピアニストのままだ。そしてそのままピアニスト人生に幕を下ろそうとしている。
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「夜空、ゆっくり息を吐いて、そう……偉いね」
麗は立ち上がり、背中を撫でてくれる。「偉い、偉い」と繰り返され、低く囁く声音が深いところに染みていく。チェロのようだ。柔らかく、豊かで、包み込むような音色が耳に心地よい。
「両手を鍵盤の蓋に挟んだ。左は二本、右手は一本に罅が入って、治療して、リハビリもした。問題なく動くけど、ピアノは弾けない」
鍵盤に置いたままの左手に麗が手を重ねた。小指と薬指を撫でられる。どの指かは言わなかったのに、何故分かったのだろう。もしかしたら普段からそこを庇うような動きをしていたのかも知れない。麗はよく夜空を熱心に見つめているので、些細な仕草から見抜かれてもさほど驚きはなかった。
「蓋を支えないと鍵盤に触れない」
「ねぇ、夜空」
「何だ?」
「手に少しだけ力を入れてもいい?」
麗の指が夜空の指の股を擽っていく。頷くと、夜空の小指の上に麗の小指をという具合に、順番に人差し指まで同じ指を重ねられた。親指は手の大きさが違うせいで重ねるというより囲われている。
麗は左手の人差し指で夜空の人差し指の爪の辺りを押した。高いソの音が鳴る。次の音は一音低いファの音が中指によって鳴らされた。続いてミ、レ、ドと小指まで押し切ったところで麗は夜空の頭を撫でた。
「弾けたね」
チェロの響きが鼓膜の奥に馴染んでゆく。じん、と染み入り、涙腺を刺激した。目の前が僅かに滲む。黒光りする恐ろしいはずの鍵盤蓋の輪郭もぼやけていた。
麗の広い胸板が、夜空の背中にくっついていた。温かい。それどころか少し汗ばむくらいだ。布越しに感じる麗の温度は秋の日の木漏れ日のようだ。夏の日差しのような灼熱ではなく、春の陽光のようにぼやけた温かさとも違う。夏の過ごしにくさから逃げてきた人をやんわりと受け止める温さ。或いは、これから木枯らしが吹き始める事を予感させる哀愁を帯びた温もりのようでもある。
背中の熱に思いを馳せるうち、今なら弾けそうだという気がしてきた。
夜空は譜面台に立てかけた楽譜を捲る。パルムグレンの「星はまたたく」はピアニッシシモのごくごく弱い高音から伴奏が始まって、三小節目に左手の和音がメロディとして入ってくる。その時の発想記号はドルチェ・エスプレッシーヴォ。甘く、柔らかく、そして感情豊かにメロディを奏でなくてはならない。
夜空が本来右手で弾くべき伴奏を左手で演奏し始めると、麗が気付きの呼吸を発した。背中と胸が離れ温度が遠のき、代わりに麗の鳴らす和音がポーンと伴奏に乗ってくる。さっき話題に出したばかりのエスプレッシーヴォをやたらに意識した感情的な音に思わず笑ってしまうと、麗の方からも笑ったような息遣いが聞こえて来た。
地平線に夕日が沈み、紺色の空にちらほらと星が瞬き始める。それは最初とても弱い光だが、やがてすっかり夜の帳が下りてしまえばいよいよ星たちがのびのびと輝きを放つ時間がやってくる。
そこへ、夜の怪しげな音が混じる。それは野犬の遠吠えかも知れないし、獲物に狙いを定めた梟の羽音かも知れない。夜に蠢く自然の営みを星々だけが見ている。
「星はまたたく」という曲は難しい技法もなく、また音の強弱も弱い音を保ちながら静かに終わっていくピアノ曲だ。最後のフェルマータで星々は澄み渡る空に登りきる。
「ふ……」
鍵盤から指を離すその瞬間まで夜空と麗の動きはぴったりと揃っていた。時を忘れ、音に没頭し、一年もの間どれだけ求めても敵わなかったピアノを鳴らす体験に、心の芯まで浸かっていた。
興奮が収まらない。連弾も数えきれないほどやってきたが、他人と息が合うという感覚をこんなにも鮮烈に感じたのはこれが初めてだった。
「あー……すごい。興奮して勃ちそう」
「なっ」
今の発言で全部が台無しになった。星が次々と空から墜落していく光景を想像して落胆する。
「ねぇ夜空、俺の話も聞いて?」
もう少し弾きたいと言い掛けてやめる。
常々情感や情緒が足りないどころか全く無いと言われてきた夜空が、曲に対するイメージを言葉に出来るほど演奏に反映させられた事もまた、初めてだった。その感覚を忘れないうちにもっとピアノに触れたかったが、鍵盤に乗った夜空の左手は小刻みに痙攣していた。夜空の演奏意欲に対し、心の別のところはとっくに限界だったようだ。
「……好きにしろ」
「うん。俺が去年までヒモだった話はしたでしょ? 別れたのは叔父の店を手伝うためにこっちに出てきたからなんだけど、飼い主は別れる時何て言ったと思う?」
「さぁ」
「『お前の金玉は軽いね』だって」
眉尻を下げ、唇を尖らせ、肩を竦める。麗の言葉は下品だ。仕草が可愛らしかろうと誤魔化せるものではない。
「他にも飼い主が居るって思われてたみたい。酷いよねぇ。ヒモにだって人権はあるよ?」
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「それは、やっていい事なのか?」
麗は目を細めた。その手を取ってはいけない魔性のそれを浮かべる。
「ダメって言われて、止まれる? 俺は無理。好きな物は見つけた瞬間近付きたくなるし手に入れたくなる。そうしないと眠れないくらい一日中その事を考え続けるんだ」
だから止まれない。
そう言って麗はピアノの蓋を押さえたまま硬直していた夜空に体を寄せて、夜空の左手をエスコートするように取った。厚く大きくて少し硬い皮膚に覆われた麗の手が、夜空の手を彼の口元へと運んでいく。熱感が手の甲にかかり、音を立てて柔らかいものが押し当てられた。
「この店に来て最初に覚えたお酒の作り方があるんだ。強くて、甘くて、飲んだらとろとろになっちゃう、お持ち帰り用のとっておき」
ドンドンと太鼓を叩く音がすると思ったら自分の心音だった。
「それともノンアルコールが良い? 選んで、夜空」
エスプレッシーヴォ。内側から滲み出してくる情動で、麗の鳶色の目が陽炎のように滲む。
「『とっておき』がいい」
麗の目に見惚れているうちに気付けばそう口にしていた。このやり取りが何を意味するか分からないほど世間知らずじゃない。海外の映画や舞台を多く見てきた経験は、終ぞ音楽には活かされなかったが、こんな時にだけ夜空を賢くし、そして同時に愚かにする。
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