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4話ー③
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麗がアメリカに行ってしまうまでに出来るだけたくさんの動画を撮ろうという話になった。三つ目の連弾動画を投稿したところで夜空が「粉雪のピアニスト」だと気付く人が現れた。そこから俄かに再生数、コメント数が増えて、顔も名前も知らない視聴者たちが「小舟夜空」について考察を始めていた。
【本人?】
【本人なら名前出すでしょ】
【俺生で見た事あるけどこれ小舟夜空だよ】
【じゃあ何で連弾してんの?】
【怪我したって話だったし片方駄目になったんじゃね?】
当たらずとも遠からずのそんな無責任な会話が繰り広げられるのを何気なく読んでいると、コーヒーを入れたカップを持って麗がやってくる。「Jazzy」特製のブレンドコーヒーは強い酸味とほんのり甘い後味で一番注文の多いメニューだ。
「何か書いてあった?」
「いいや。何も」
「そー。でもやっぱ夜空って有名人だったんだね。こんなに早く見つかっちゃうとは思わなかった」
それでさ、と会話を続けながら、麗はピアノの方まで歩いていって譜面台に半透明のファイルを載せた。踵で半回転して夜空を振り返る麗はご機嫌な様子だ。
「こーれ! 俺から夜空へのプレゼント」
に、と真っ白い歯が光る。眩しい。今日は十二月の末。クリスマスの事が頭を過るもそういうイベントごとをきっかけにしたものではないらしい。
このところ麗は何か根を詰めている様子だった。恐らくこれがその成果物だったのだろう。まさかそれが自分への贈り物だったとは露知らず。わくわくしながらファイルを手に取り中の紙を取り出した。
「楽譜?」
手書きではないものの、書き慣れた人の物ではないと一目に分かる。テンポも強弱も発想記号も無い、五線と音符だけが載った簡素な楽譜。癖で頭の中にあるピアノを鳴らすと、何やらとてもムードのある曲になりそうな雰囲気を感じ取る。
「麗作曲?」
「そ! 弾いてみて、夜空」
真っ白なセーターから覗く小麦肌の太い腕が自然な動作で鍵盤蓋を押さえる。最近、麗はよく白い服を着ている。対して今日の夜空はビッグシルエットのスウェットシャツに細めのデニムを合わせていた。足元はなんとスニーカーだ。
麗と出会ってから、お互いの好きや常識や価値観が混ざり合っていった。それは自由を侵犯するものではなく、胸の真ん中の大切な物を仕舞っておく引き出しには「自己理解」という自由がきちんと収納されている。と、夜空が勝手に思っている。
ピアノを両手で鳴らす事はまだ難しい。両手で弾こうとすると誰かが蓋を押さえていなければならないし、きっとその役目は麗にしか任せられない。その麗は、来週日本を発つ。いつか彼の手が無くとも一人でピアノを弾けるようになりたい。今はそれが目標だ。
麗の書いた楽譜を初見でパラパラと試し弾きしていく。ほんのり甘くて爽やかな香りの彼お気に入りの香水のような前奏から始まって、中盤に差し掛かると一気に情調が高まる。夜にだけ見せる鳶の目をした麗を思い浮かべ、ドキドキしながら曲は後半へ。そこでまたガラッと雰囲気が変わり、装飾音がふんだんに使われ一音一音が何かを引っかけていくようなウキウキした曲調になったかと思えば、最後は穏やかに幕を閉じていく。
「ワオ、さすが夜空。ノーミスだ。ちなみに自分じゃ弾けない」
「でも、演奏記号が無いから合ってるか分からない」
「合ってるとか間違ってるとか、そういうの無いの、この曲は。夜空の心で弾いて」
ピアノに軽く寄りかかって麗が目を細める。その目は夜空だけを一心に見つめている。いつもの事だが、いつもとちょっと違う、静かな微笑み。
僕の心で、この曲を……。
頭で考えようとした。余白だらけの楽譜の中にバランスよく記号を散りばめていってそれらしく演奏しようとした。だけどすぐにやめた。
椅子に座り直し、ペダルに軽く足を乗せる。
夜空の空気が変わった事に気付き、麗はピアノから体を離し、蓋だけを押さえた。
夜空は試し弾きした時に感じた印象に思いを馳せながら、指の動くままに麗の楽譜を奏でた。強弱はバラバラで、速度も一定ではない。音楽のジャンルさえも定まらないような麗の音楽としか表現しようのない世界を、不完全な夜空の指が奏でていった。
演奏を終えると一人分の拍手が静寂を破った。かと思えば麗が蓋から手を離して夜空を抱きしめる。あ、という声が心の中で出ていたが、彼が手を離しても倒れてこない蓋を目視し、取り乱す事なくそっと鍵盤から手を浮かせて麗の背中に腕を回した。
「伝わった? 俺の好きって気持ち」
どう? どう? と子供みたいにはしゃぎながら麗が訊く。
「ああ伝わった。麗が音楽が好きだというのがよく分かる」
音楽に形は無い。それでいいという事を麗に教わった。感謝にも似た思いを口にしたつもりが、べりっと体を引き剥がされて面食らう。
「伝わってないなぁ、もう」
額を軽く小突かれて、痛くもないのに額を押さえる。麗はぷりぷりと怒っていた。
「夜空の事が好きって曲だよこれ。ラブソングだよラブソング!」
腰に手を当て麗は眉をいからせる。本気のそれでは無いものの、心外な様子で唇を尖らせた。
「好き?」
「そう。恋人に初めて贈るピアノ独奏、セレナーデ!」
「こい、びと……」
ポカンとして、拗ねたように怒る麗を見上げた。次第にこちらの戸惑いが彼にも伝わって、風船から空気が抜けるようにして怒りが萎んでいく。
「あ、あれ? 夜空、俺たち恋人だよね?」
残念ながら初耳だ。
夜空が頷かないので段々と不安になった麗は情けないくらい肩を落とし、そのままさめざめと泣き出しそうなほどにショックを受けている。
「あんなにたくさんセックスしたのに。あんなにたくさんキスしたのに……俺、弄ばれたの?」
「な、何でそうなる! 僕は、お前にとって、いっときの、その、何というか、慰め? みたいな、そういうあれかと」
「セフレだと思ってたの!?」
「ちっ――」
違わない。言葉を選ばず言えばセックスを楽しむ色恋抜きの関係だと思っていた。
愕然として男ぶりが台無しになっている麗を見ているとまるで夜空の方が悪い事をしてしまった気になるが、絶対に違うと言いたい。いやでも、夜空も自分の気持ちを告げなかったので、ある意味あいこのような気もする。
男、夜空。ここはひとつ、誤解を解くためにもきちんと告白するべきだろう。気持ちを切り替えてふうと息を吐き、萎れた花のようになってピアノに手を突く麗の手を取った。
「麗、僕が粉雪のピアニストと呼ばれる前のあだ名を知ってるか? 機械仕掛けのソリストだ」
「何それかっこいい」
「楽譜の記号を全て正しく守る機械みたいにピアノを弾くピアニスト。僕がコンクールで一番になれないと言われ続けてきた理由だ。情感或いは行間とも呼べるものが僕には分からなかった」
それらしく演奏する事はもちろん可能だ。技術だけでドルチェにもアジタートにも弾く事が出来る。ただ、そこに奏者である夜空の心は無い。夜空は作曲者が楽譜に記したものだけを、ピアノを使って鳴らす、代弁者のようなものだと思ってきた。それが箱庭という世界の神である母の絶対の信条だったのだ。
「きっと、お前に出会う前の僕なら、お前のくれた楽譜を弾きこなす事は出来なかった。まず強弱の指示が無いから最初の音をどれくらいの強さで鳴らせばいいか分からない。テンポの指示が無いと、僕は二音目を鳴らす事が出来ない。分からない事だらけで鍵盤の上で迷子になって終わりだ」
尤も、強弱の記号を書かない時代の楽譜というものは実際に存在する。それにはそれなりの弾き方というものがあるが、麗の楽譜はこれには当てはまらない。
「僕が僕の感じたままにこの曲を弾けたのは麗のおかげだ。お前の自由が僕を救った。麗、僕は麗が好きだ」
言った。言ってしまった。まくしたてるように勢いで最後まで言ってしまってから、照れが全身を炙り始める。
麗は今日まで恋人だと思って接してきたのだから今更袖にされるような事もないのだろうが、それでも微かな不安に心は縮こまった。
取っていた手をぎゅうっと握り返されて、いつの間にか俯いていた顔を上げる。麗はその鳶色の目に力を取り戻していた。
「俺も好き。夜空が好き。天の夜空に浮かぶ星みたいなキラキラした目が好き。うん、もう全部好き。照れ屋だし、最近はえっちの時に大胆になってきてるのも正直可愛くて可愛くて仕方ない。俺が慣れるのが先か鼻血が先かって思いながら夜空の事を抱いてた」
赤裸々な言葉たちにいっそう羞恥を煽られて顔が熱くてたまらないが、両手を繋いでいるので扇ぐ事も出来ない。
「俺の自由を愛してくれて、ありがとう」
「麗……」
どちらともなく体を近づけて、底冷えするような冬の寒さをキスで温めあった。
「三年経ったら迎えに行くから待ってるんだよ、夜空」
「三年だと?」
「あ、あれ? もしかしてこれも言ってなかったかな……」
嘆息すると「許してー」と言いながら麗が頬を挟んでもみくちゃにしてくる。許されるつもりの無いそれに一瞬でどうでもよくなって声を出して笑った。大きく口を開けてあははと愉快げに、幸福そうに笑うような事も、麗に教わった気がする。
その日の夜は空が白み始めるまでベッドで愛し合った。今度こそ恋人になった麗と体を繋げると、これまで心の穴に被せていただけの蓋がぴっちりと嵌って隙間がなくなっていた。心行くまで混ざり合い、少しずつ明るくなる室内で麗の端正な顔を見つめていた。
そうだ、と麗が何かを思い出したような声を出した時、夜空はうとうとして瞼の重さに耐えきれなくなり始めていた。隣で麗が動いて布団に隙間が出来るので、寒くなって麗の方にくっつくと、ふふ、と愛しそうに笑いながらスマホを手に取った。
「ちょっと気になるコメントがついてるの見つけてさ。内容はちょっとあれだけど……これ、この人の名前読んでみて」
どんな誹謗中傷も夜空には大して効かない事を麗はもう知っているので「あれ」と言いつつ簡単に批判的なコメントを見せてくる。
【音が濁りましたね。洗練されておらず聞き辛い。私は嫌いです】
エドワード・エルガー作曲「愛の挨拶」を連弾した動画についたコメントだった。「あの」小舟夜空が愛をテーマにした楽曲を弾いているという事で、他の動画よりも一桁再生数が多い。そのためクラシックピアノに精通していると自称するコメントもちらほら見受けられた。その中に紛れた氷柱のように鋭利な演奏への感想。短く痛烈に演奏を批判した上でこう締めくくられていた。
【しかし、情動を感じました】
コメントの投稿者の名前はBARCA.K。BARCAはイタリア語でボートを意味し、日本語に訳すなら「小舟」となる。そしてKは――。
「和美(かずみ)……か?」
小舟和美。母の名だった。言葉遣いや文体からそこはかとなく漂う怜悧な人柄含め、誰かの悪戯だと断じてしまうには、言葉の向こうに強く彼女の気配が漂っていた。
もしもこれが本当に母のものだったとしたら、母は夜空を褒めてくれた事になるのだろうか。嫌いと主張しながらも嘗ての母なら決して認めない部分を評価するようなコメントは、母の状況の改善が窺えるものだった。
「俺、一応作曲家でしょ? お前の曲嫌いだわって言われる事ザラにあるけど、つまんないわって言われる方がよっぽどしんどい。それに、嫌われたとしても心を揺さぶる事が出来たんなら俺の勝ちって思う事にしてる。思わず嫌いって感情ぶつけなきゃ気が済まなくなったんだろ? 退屈な曲なんて普通、相手にしないもんな」
嫌いだと言われた事に関し慰めてくれているのかと思ったが、顔付きを見る限りそういうものとは違っているようだ。麗の中にあるポリシーを教えてくれている。それだけだ。そして、夜空は麗のそういうところを気に入っている。彼は彼という軸が一本真っすぐに通っていて、様々なものに興味を持って影響されてもその軸が侵される事はない。十二年分の動画を全部見た、一視聴者としての、そして恋人としての麗の印象だ。
麗にくっつき体温を感じていると、心地よい微睡に包まれる。
「おやすみ夜空」
その日、久しぶりに母の夢を見た。夜空はまだ五、六歳くらいの子供で、曲を一つ弾けるようになる度、母手製のチェックシートにシールを貼ってくれた。まだ夜空の他にも生徒が数名居た頃だ。他の子たちも同じチェックシートを持っていて、シールの数を競っていた。
あの人はあの人なりに、ピアノや他人と向き合おうとしていたのだ。それを思い出せて良かったと、コメントの事を教えてくれた麗に夢の中で大人の夜空が感謝していた。
【本人?】
【本人なら名前出すでしょ】
【俺生で見た事あるけどこれ小舟夜空だよ】
【じゃあ何で連弾してんの?】
【怪我したって話だったし片方駄目になったんじゃね?】
当たらずとも遠からずのそんな無責任な会話が繰り広げられるのを何気なく読んでいると、コーヒーを入れたカップを持って麗がやってくる。「Jazzy」特製のブレンドコーヒーは強い酸味とほんのり甘い後味で一番注文の多いメニューだ。
「何か書いてあった?」
「いいや。何も」
「そー。でもやっぱ夜空って有名人だったんだね。こんなに早く見つかっちゃうとは思わなかった」
それでさ、と会話を続けながら、麗はピアノの方まで歩いていって譜面台に半透明のファイルを載せた。踵で半回転して夜空を振り返る麗はご機嫌な様子だ。
「こーれ! 俺から夜空へのプレゼント」
に、と真っ白い歯が光る。眩しい。今日は十二月の末。クリスマスの事が頭を過るもそういうイベントごとをきっかけにしたものではないらしい。
このところ麗は何か根を詰めている様子だった。恐らくこれがその成果物だったのだろう。まさかそれが自分への贈り物だったとは露知らず。わくわくしながらファイルを手に取り中の紙を取り出した。
「楽譜?」
手書きではないものの、書き慣れた人の物ではないと一目に分かる。テンポも強弱も発想記号も無い、五線と音符だけが載った簡素な楽譜。癖で頭の中にあるピアノを鳴らすと、何やらとてもムードのある曲になりそうな雰囲気を感じ取る。
「麗作曲?」
「そ! 弾いてみて、夜空」
真っ白なセーターから覗く小麦肌の太い腕が自然な動作で鍵盤蓋を押さえる。最近、麗はよく白い服を着ている。対して今日の夜空はビッグシルエットのスウェットシャツに細めのデニムを合わせていた。足元はなんとスニーカーだ。
麗と出会ってから、お互いの好きや常識や価値観が混ざり合っていった。それは自由を侵犯するものではなく、胸の真ん中の大切な物を仕舞っておく引き出しには「自己理解」という自由がきちんと収納されている。と、夜空が勝手に思っている。
ピアノを両手で鳴らす事はまだ難しい。両手で弾こうとすると誰かが蓋を押さえていなければならないし、きっとその役目は麗にしか任せられない。その麗は、来週日本を発つ。いつか彼の手が無くとも一人でピアノを弾けるようになりたい。今はそれが目標だ。
麗の書いた楽譜を初見でパラパラと試し弾きしていく。ほんのり甘くて爽やかな香りの彼お気に入りの香水のような前奏から始まって、中盤に差し掛かると一気に情調が高まる。夜にだけ見せる鳶の目をした麗を思い浮かべ、ドキドキしながら曲は後半へ。そこでまたガラッと雰囲気が変わり、装飾音がふんだんに使われ一音一音が何かを引っかけていくようなウキウキした曲調になったかと思えば、最後は穏やかに幕を閉じていく。
「ワオ、さすが夜空。ノーミスだ。ちなみに自分じゃ弾けない」
「でも、演奏記号が無いから合ってるか分からない」
「合ってるとか間違ってるとか、そういうの無いの、この曲は。夜空の心で弾いて」
ピアノに軽く寄りかかって麗が目を細める。その目は夜空だけを一心に見つめている。いつもの事だが、いつもとちょっと違う、静かな微笑み。
僕の心で、この曲を……。
頭で考えようとした。余白だらけの楽譜の中にバランスよく記号を散りばめていってそれらしく演奏しようとした。だけどすぐにやめた。
椅子に座り直し、ペダルに軽く足を乗せる。
夜空の空気が変わった事に気付き、麗はピアノから体を離し、蓋だけを押さえた。
夜空は試し弾きした時に感じた印象に思いを馳せながら、指の動くままに麗の楽譜を奏でた。強弱はバラバラで、速度も一定ではない。音楽のジャンルさえも定まらないような麗の音楽としか表現しようのない世界を、不完全な夜空の指が奏でていった。
演奏を終えると一人分の拍手が静寂を破った。かと思えば麗が蓋から手を離して夜空を抱きしめる。あ、という声が心の中で出ていたが、彼が手を離しても倒れてこない蓋を目視し、取り乱す事なくそっと鍵盤から手を浮かせて麗の背中に腕を回した。
「伝わった? 俺の好きって気持ち」
どう? どう? と子供みたいにはしゃぎながら麗が訊く。
「ああ伝わった。麗が音楽が好きだというのがよく分かる」
音楽に形は無い。それでいいという事を麗に教わった。感謝にも似た思いを口にしたつもりが、べりっと体を引き剥がされて面食らう。
「伝わってないなぁ、もう」
額を軽く小突かれて、痛くもないのに額を押さえる。麗はぷりぷりと怒っていた。
「夜空の事が好きって曲だよこれ。ラブソングだよラブソング!」
腰に手を当て麗は眉をいからせる。本気のそれでは無いものの、心外な様子で唇を尖らせた。
「好き?」
「そう。恋人に初めて贈るピアノ独奏、セレナーデ!」
「こい、びと……」
ポカンとして、拗ねたように怒る麗を見上げた。次第にこちらの戸惑いが彼にも伝わって、風船から空気が抜けるようにして怒りが萎んでいく。
「あ、あれ? 夜空、俺たち恋人だよね?」
残念ながら初耳だ。
夜空が頷かないので段々と不安になった麗は情けないくらい肩を落とし、そのままさめざめと泣き出しそうなほどにショックを受けている。
「あんなにたくさんセックスしたのに。あんなにたくさんキスしたのに……俺、弄ばれたの?」
「な、何でそうなる! 僕は、お前にとって、いっときの、その、何というか、慰め? みたいな、そういうあれかと」
「セフレだと思ってたの!?」
「ちっ――」
違わない。言葉を選ばず言えばセックスを楽しむ色恋抜きの関係だと思っていた。
愕然として男ぶりが台無しになっている麗を見ているとまるで夜空の方が悪い事をしてしまった気になるが、絶対に違うと言いたい。いやでも、夜空も自分の気持ちを告げなかったので、ある意味あいこのような気もする。
男、夜空。ここはひとつ、誤解を解くためにもきちんと告白するべきだろう。気持ちを切り替えてふうと息を吐き、萎れた花のようになってピアノに手を突く麗の手を取った。
「麗、僕が粉雪のピアニストと呼ばれる前のあだ名を知ってるか? 機械仕掛けのソリストだ」
「何それかっこいい」
「楽譜の記号を全て正しく守る機械みたいにピアノを弾くピアニスト。僕がコンクールで一番になれないと言われ続けてきた理由だ。情感或いは行間とも呼べるものが僕には分からなかった」
それらしく演奏する事はもちろん可能だ。技術だけでドルチェにもアジタートにも弾く事が出来る。ただ、そこに奏者である夜空の心は無い。夜空は作曲者が楽譜に記したものだけを、ピアノを使って鳴らす、代弁者のようなものだと思ってきた。それが箱庭という世界の神である母の絶対の信条だったのだ。
「きっと、お前に出会う前の僕なら、お前のくれた楽譜を弾きこなす事は出来なかった。まず強弱の指示が無いから最初の音をどれくらいの強さで鳴らせばいいか分からない。テンポの指示が無いと、僕は二音目を鳴らす事が出来ない。分からない事だらけで鍵盤の上で迷子になって終わりだ」
尤も、強弱の記号を書かない時代の楽譜というものは実際に存在する。それにはそれなりの弾き方というものがあるが、麗の楽譜はこれには当てはまらない。
「僕が僕の感じたままにこの曲を弾けたのは麗のおかげだ。お前の自由が僕を救った。麗、僕は麗が好きだ」
言った。言ってしまった。まくしたてるように勢いで最後まで言ってしまってから、照れが全身を炙り始める。
麗は今日まで恋人だと思って接してきたのだから今更袖にされるような事もないのだろうが、それでも微かな不安に心は縮こまった。
取っていた手をぎゅうっと握り返されて、いつの間にか俯いていた顔を上げる。麗はその鳶色の目に力を取り戻していた。
「俺も好き。夜空が好き。天の夜空に浮かぶ星みたいなキラキラした目が好き。うん、もう全部好き。照れ屋だし、最近はえっちの時に大胆になってきてるのも正直可愛くて可愛くて仕方ない。俺が慣れるのが先か鼻血が先かって思いながら夜空の事を抱いてた」
赤裸々な言葉たちにいっそう羞恥を煽られて顔が熱くてたまらないが、両手を繋いでいるので扇ぐ事も出来ない。
「俺の自由を愛してくれて、ありがとう」
「麗……」
どちらともなく体を近づけて、底冷えするような冬の寒さをキスで温めあった。
「三年経ったら迎えに行くから待ってるんだよ、夜空」
「三年だと?」
「あ、あれ? もしかしてこれも言ってなかったかな……」
嘆息すると「許してー」と言いながら麗が頬を挟んでもみくちゃにしてくる。許されるつもりの無いそれに一瞬でどうでもよくなって声を出して笑った。大きく口を開けてあははと愉快げに、幸福そうに笑うような事も、麗に教わった気がする。
その日の夜は空が白み始めるまでベッドで愛し合った。今度こそ恋人になった麗と体を繋げると、これまで心の穴に被せていただけの蓋がぴっちりと嵌って隙間がなくなっていた。心行くまで混ざり合い、少しずつ明るくなる室内で麗の端正な顔を見つめていた。
そうだ、と麗が何かを思い出したような声を出した時、夜空はうとうとして瞼の重さに耐えきれなくなり始めていた。隣で麗が動いて布団に隙間が出来るので、寒くなって麗の方にくっつくと、ふふ、と愛しそうに笑いながらスマホを手に取った。
「ちょっと気になるコメントがついてるの見つけてさ。内容はちょっとあれだけど……これ、この人の名前読んでみて」
どんな誹謗中傷も夜空には大して効かない事を麗はもう知っているので「あれ」と言いつつ簡単に批判的なコメントを見せてくる。
【音が濁りましたね。洗練されておらず聞き辛い。私は嫌いです】
エドワード・エルガー作曲「愛の挨拶」を連弾した動画についたコメントだった。「あの」小舟夜空が愛をテーマにした楽曲を弾いているという事で、他の動画よりも一桁再生数が多い。そのためクラシックピアノに精通していると自称するコメントもちらほら見受けられた。その中に紛れた氷柱のように鋭利な演奏への感想。短く痛烈に演奏を批判した上でこう締めくくられていた。
【しかし、情動を感じました】
コメントの投稿者の名前はBARCA.K。BARCAはイタリア語でボートを意味し、日本語に訳すなら「小舟」となる。そしてKは――。
「和美(かずみ)……か?」
小舟和美。母の名だった。言葉遣いや文体からそこはかとなく漂う怜悧な人柄含め、誰かの悪戯だと断じてしまうには、言葉の向こうに強く彼女の気配が漂っていた。
もしもこれが本当に母のものだったとしたら、母は夜空を褒めてくれた事になるのだろうか。嫌いと主張しながらも嘗ての母なら決して認めない部分を評価するようなコメントは、母の状況の改善が窺えるものだった。
「俺、一応作曲家でしょ? お前の曲嫌いだわって言われる事ザラにあるけど、つまんないわって言われる方がよっぽどしんどい。それに、嫌われたとしても心を揺さぶる事が出来たんなら俺の勝ちって思う事にしてる。思わず嫌いって感情ぶつけなきゃ気が済まなくなったんだろ? 退屈な曲なんて普通、相手にしないもんな」
嫌いだと言われた事に関し慰めてくれているのかと思ったが、顔付きを見る限りそういうものとは違っているようだ。麗の中にあるポリシーを教えてくれている。それだけだ。そして、夜空は麗のそういうところを気に入っている。彼は彼という軸が一本真っすぐに通っていて、様々なものに興味を持って影響されてもその軸が侵される事はない。十二年分の動画を全部見た、一視聴者としての、そして恋人としての麗の印象だ。
麗にくっつき体温を感じていると、心地よい微睡に包まれる。
「おやすみ夜空」
その日、久しぶりに母の夢を見た。夜空はまだ五、六歳くらいの子供で、曲を一つ弾けるようになる度、母手製のチェックシートにシールを貼ってくれた。まだ夜空の他にも生徒が数名居た頃だ。他の子たちも同じチェックシートを持っていて、シールの数を競っていた。
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