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第一章
第十五話 深夜の訪問者
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高等科に上がる十六歳。
玲は社交デビューを果たした。一ノ瀬の当主である母・倫子をエスコートしながら出た夫人の集うパーティーで、夫人たちに囲まれてしまったのだった。
『髙藤様とご婚約されるというのは本当ですの?』
『うちの娘をご紹介させていただけないかしら』
足を止めてしまったのがいけなかった。あっという間に夫人たちの数が増えてしまい、それは倫子と二人少したじろぐ程だった。跡取りとなる嫡男には社交会において年齢制限はないが、令嬢はデビューの年齢が定められている。まだその年齢に満たない娘を持つ夫人たちは、挙って娘を売り込むことに必死なのだった。
『それは有り難いお話ですわ。ですが仰るとおり、息子は結婚を約束した方がおりますの』
倫子は涼し気な笑みでそう言うと、夫人らを落ち着かせた。倫子の言う約束した方……髙藤 数正だ。
『まぁ、玲さんたら、お顔が真っ赤ですわ、可愛らしい』
『照れてらっしゃるのね』
数正の名前を聞くだけで、舞い上がるほどときめいてしまう自分の心。幼い頃から憧れを抱き、いつからか数正との結婚を夢見るようになっていた。祖父から許婚であることを知らされた時には、天国へと昇るような気分だった。それ故それを言葉にされるとどうしても恥ずかしいような、照れくさい思いがする。
『髙藤様は、うちの人も将来有望だと申しておりましたわ、そのような方のところへ嫁がれるのは幸せなことですわね』
『これからは、夫人の元で花嫁修業。忙しくなりますわね』
──数正兄さまが将来有望……。
玲はまるで自分のことのように嬉しくなった。玲の祖父や数正の父から仕事を習い、真面目にそれに応えてきた数正。仕事に真っ直ぐな姿勢は、子供の玲でも感じる事のできる数正の尊敬する姿だ。
『ふふ。如何せんこのように世間知らずでございます。結婚までに間に合うかどうか』
倫子は口元を手で隠して淑やかに微笑む。
『まぁ、じゅうぶん今の玲さんでも髙藤様はかわいがってくださるわ。このように愛くるしいのですもの』
『このような美男子は他におりませんものね』
『髙藤様も夢中だとの噂』
──かわいがる? 夢中?
高々と笑い声を上げる夫人たちの真ん中で、玲は急に怖くなった。まるで孤独のようだった。夫人たちは『オメガ』という言葉は忌みとして口には出すことはない。白いシルクの手袋をした手で口元を隠しながら、含み笑いを浮かべる。
夫人たちの言葉には、それが十分に含まれていたが当時の若い玲にはその意味がよく分からなかったのだ。
『いいえ、たとえ髙藤家に嫁いでも恥ずかしくないように教育しなければ』
──恥ずかしくないように……。
結婚したら数正を支えるんだ。母が父をお支えしているように。でなければそれは恥ずかしいことで母に迷惑をかけてしまう。なにより数正を失望させてしまうんだ。
結婚を意識するにつれ、いわゆる「花嫁修業」を習う日が増えた。社交会、夫人会の勉強に料理だ。特に料理は玲を多いに悩ませた。夫人会では家に客を招くことが多い。そのため特にケーキや菓子を特技にしておくことが大切だと母は根気よく教えたが、なかなか上達しない。しまいには毎週末ケーキを作る練習をするようになった。
いつの間にかアトリエにも近づかなくなっていた。
それで玲は気が付いたのだ。彼を支える立場になるためには、絵を捨てなければならないということに。絵では彼を支えることはできない。それに玲は男だ。高等科に上がるだけでは数正を支えられないのではないか。家を守るだけではないのかもしれない。それなら経営学を学ばなければ。それきり玲は筆を置いた。
夜中、車の音がして目が覚めた。女中たちはすっかり寝静まっている時間。玲はそろりと階段を降りると原と鉢合わせた。
「髙藤様のお車のようですが、如何しますか」
「僕が出ます、原は寝ておいて」
原は一礼して下がるも分かったとは言わなかった。少しして玄関ドアのステンドガラス越しに人影が映る。それを数正と見てドアの鍵をカチャリと開けた。
「どうなさったのです?」
数正を見上げると月あかりのせいで逆光となり表情がよく見えないが、顔色はあまり良くないようだ。それに数正のアルファの匂いに混じり酒の匂いがする。
「呑んでいらっしゃるのですね」
「あぁ、呑んだ」
「お夕食は? 女中を寄越しましょうか」
そう尋ねる玲に、数正はふらりと一歩中へと入ると玲を見下ろした。寝間着の浴衣姿の玲は思わず胸元の合わせに手を置いた。はだけてはいないか、身なりを整えず数正に会ってしまいみっともない姿を晒しているのではと、玲は数正に背を向けた。
「……。いや、必要ない」
そんな玲を気にする素振りもなく、数正は玲の横を通り過ぎると奥にある台所へと進んでいった。コンロの上には鉄鍋があって、それを数正が見つけると木蓋を開けて中をのぞき込んだ。そして手際よくマッチを擦り、火を付ける。ガスに引火するとぼうっと音を立ててコンロに火が灯った。
「残り物ですよ、おそらく明日の朝ために残しているのでしょう」
電気も付けないでとスイッチに手を伸ばしたが、台所の窓から入り込む月光で数正の黒髪が艷やかに輝くのを見て、玲はスイッチを入れるのを躊躇った。
数正は黙ったまま表面がフツフツと沸いてくるのを、お玉でくるくると回しながら待っている。玲がまだ躊躇っていると、数正は茶箪笥から大きな茶碗を取り出した。汁が温まったらしい。無造作に茶椀によそうと、数正は台によりかかって食べ始めた。
「俺は気にしない」
残り物を食べることにか、立って食べることにか、はたまた月明かりで食べていることにか、玲にはもう分からなかったが数正はそれだけ発してずるずると汁を啜っている。
玲の母は決してこのようなことを許さなかった。どんなに忙しくともテーブルにすべてを並べ家族でそれを囲んで食べる。数正はこれまでも玲と会うたび高級な会食を選んでいた。全てが整えられたフルコースで、完璧なテーブルマナーでそれらを平らげていた。
数正がこうやって台所に寄りかかって立ち食いしている光景は驚くばかりだった。
玲は社交デビューを果たした。一ノ瀬の当主である母・倫子をエスコートしながら出た夫人の集うパーティーで、夫人たちに囲まれてしまったのだった。
『髙藤様とご婚約されるというのは本当ですの?』
『うちの娘をご紹介させていただけないかしら』
足を止めてしまったのがいけなかった。あっという間に夫人たちの数が増えてしまい、それは倫子と二人少したじろぐ程だった。跡取りとなる嫡男には社交会において年齢制限はないが、令嬢はデビューの年齢が定められている。まだその年齢に満たない娘を持つ夫人たちは、挙って娘を売り込むことに必死なのだった。
『それは有り難いお話ですわ。ですが仰るとおり、息子は結婚を約束した方がおりますの』
倫子は涼し気な笑みでそう言うと、夫人らを落ち着かせた。倫子の言う約束した方……髙藤 数正だ。
『まぁ、玲さんたら、お顔が真っ赤ですわ、可愛らしい』
『照れてらっしゃるのね』
数正の名前を聞くだけで、舞い上がるほどときめいてしまう自分の心。幼い頃から憧れを抱き、いつからか数正との結婚を夢見るようになっていた。祖父から許婚であることを知らされた時には、天国へと昇るような気分だった。それ故それを言葉にされるとどうしても恥ずかしいような、照れくさい思いがする。
『髙藤様は、うちの人も将来有望だと申しておりましたわ、そのような方のところへ嫁がれるのは幸せなことですわね』
『これからは、夫人の元で花嫁修業。忙しくなりますわね』
──数正兄さまが将来有望……。
玲はまるで自分のことのように嬉しくなった。玲の祖父や数正の父から仕事を習い、真面目にそれに応えてきた数正。仕事に真っ直ぐな姿勢は、子供の玲でも感じる事のできる数正の尊敬する姿だ。
『ふふ。如何せんこのように世間知らずでございます。結婚までに間に合うかどうか』
倫子は口元を手で隠して淑やかに微笑む。
『まぁ、じゅうぶん今の玲さんでも髙藤様はかわいがってくださるわ。このように愛くるしいのですもの』
『このような美男子は他におりませんものね』
『髙藤様も夢中だとの噂』
──かわいがる? 夢中?
高々と笑い声を上げる夫人たちの真ん中で、玲は急に怖くなった。まるで孤独のようだった。夫人たちは『オメガ』という言葉は忌みとして口には出すことはない。白いシルクの手袋をした手で口元を隠しながら、含み笑いを浮かべる。
夫人たちの言葉には、それが十分に含まれていたが当時の若い玲にはその意味がよく分からなかったのだ。
『いいえ、たとえ髙藤家に嫁いでも恥ずかしくないように教育しなければ』
──恥ずかしくないように……。
結婚したら数正を支えるんだ。母が父をお支えしているように。でなければそれは恥ずかしいことで母に迷惑をかけてしまう。なにより数正を失望させてしまうんだ。
結婚を意識するにつれ、いわゆる「花嫁修業」を習う日が増えた。社交会、夫人会の勉強に料理だ。特に料理は玲を多いに悩ませた。夫人会では家に客を招くことが多い。そのため特にケーキや菓子を特技にしておくことが大切だと母は根気よく教えたが、なかなか上達しない。しまいには毎週末ケーキを作る練習をするようになった。
いつの間にかアトリエにも近づかなくなっていた。
それで玲は気が付いたのだ。彼を支える立場になるためには、絵を捨てなければならないということに。絵では彼を支えることはできない。それに玲は男だ。高等科に上がるだけでは数正を支えられないのではないか。家を守るだけではないのかもしれない。それなら経営学を学ばなければ。それきり玲は筆を置いた。
夜中、車の音がして目が覚めた。女中たちはすっかり寝静まっている時間。玲はそろりと階段を降りると原と鉢合わせた。
「髙藤様のお車のようですが、如何しますか」
「僕が出ます、原は寝ておいて」
原は一礼して下がるも分かったとは言わなかった。少しして玄関ドアのステンドガラス越しに人影が映る。それを数正と見てドアの鍵をカチャリと開けた。
「どうなさったのです?」
数正を見上げると月あかりのせいで逆光となり表情がよく見えないが、顔色はあまり良くないようだ。それに数正のアルファの匂いに混じり酒の匂いがする。
「呑んでいらっしゃるのですね」
「あぁ、呑んだ」
「お夕食は? 女中を寄越しましょうか」
そう尋ねる玲に、数正はふらりと一歩中へと入ると玲を見下ろした。寝間着の浴衣姿の玲は思わず胸元の合わせに手を置いた。はだけてはいないか、身なりを整えず数正に会ってしまいみっともない姿を晒しているのではと、玲は数正に背を向けた。
「……。いや、必要ない」
そんな玲を気にする素振りもなく、数正は玲の横を通り過ぎると奥にある台所へと進んでいった。コンロの上には鉄鍋があって、それを数正が見つけると木蓋を開けて中をのぞき込んだ。そして手際よくマッチを擦り、火を付ける。ガスに引火するとぼうっと音を立ててコンロに火が灯った。
「残り物ですよ、おそらく明日の朝ために残しているのでしょう」
電気も付けないでとスイッチに手を伸ばしたが、台所の窓から入り込む月光で数正の黒髪が艷やかに輝くのを見て、玲はスイッチを入れるのを躊躇った。
数正は黙ったまま表面がフツフツと沸いてくるのを、お玉でくるくると回しながら待っている。玲がまだ躊躇っていると、数正は茶箪笥から大きな茶碗を取り出した。汁が温まったらしい。無造作に茶椀によそうと、数正は台によりかかって食べ始めた。
「俺は気にしない」
残り物を食べることにか、立って食べることにか、はたまた月明かりで食べていることにか、玲にはもう分からなかったが数正はそれだけ発してずるずると汁を啜っている。
玲の母は決してこのようなことを許さなかった。どんなに忙しくともテーブルにすべてを並べ家族でそれを囲んで食べる。数正はこれまでも玲と会うたび高級な会食を選んでいた。全てが整えられたフルコースで、完璧なテーブルマナーでそれらを平らげていた。
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