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第一章
第十四話 餞別
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「え? 大丈夫だよ。僕だって自由に使えるお金くらいあるさ」
「餞別だよ、君に贈らせてくれよ」
そう屈託なく微笑まれると断るのも失礼な気がしてくる。
「好きなものはどれだ? どれが着たい?」
「好きな……?」
そんなこと、今まで聞かれたことが無かった。玲の箪笥には母が買い揃えた服しかないのだ。すぐには決められそうにない。どうしようかと東を見ると、東はゆっくり見てよと隣の棚へ移って行く。
玲は少しほっとして棚に綺麗に陳列されているシャツをひとつひとつ見ていった。実は玲には欲しいものがあった。欲しいと言ったら烏滸がましい、憧れだ。
そして、それがこの店にあった。店の目立った位置に飾られている。人気なのが伺えた。ずっと憧れていた流行りの開襟シャツだ。大学でも着ている男性をよく見ていて淡い憧れを持っていたのだった。
「どうぞ、お近くで」
すると店主が同じものを持ってきてくれた。玲を鏡の前に連れて行くと、鏡の位置を調整してからシャツを玲の身体に当てがった。
「一ノ瀬にはその色が似合うなぁ。試着してごらんよ」
ひょっこり後ろから東が顔を出した。東の言うとおり試着すると、玲は大きな姿見の前で自身を見た。
「淡い水色が一ノ瀬の白い肌によく似合う」
「えぇ、よくお似合いで」
「二人とも口が上手いんだから」
「事実を言ったまでさ」
東がカラッとした笑顔を鏡越しに寄越した。
玲は鏡に映る自身をじっと見た。開襟から白い項が覗く。いつも一番上までボタンを閉めている玲には、少し心許ない。
アルファの番になるにはこの項を噛まれなくてはならない。人間の行動とは到底思えない行為に恥じらいもありつつ、数正にいつか噛まれるということを想像して体を熱くさせたこともあった。アルファがオメガにネックレスを買い与えることにも大きな意味があると聞いたことがある。大学入学前、プロポーズされた時、数正が玲のこの細い首に付けてくれた。その嬉しさに涙がこみ上げたのを昨日のことのように思い出せるのに。
鎖骨の間に指を這わせて、どうしようもない寂しさに涙がこみ上げそうになり、下唇を噛む。
「それに決まりだな?」
「えっ?」
鏡越しに尋ねられ、思わず振り向いた。店主も隣で手を揉んでいる。
「欲しいのはそれだろう?」
「でも……っ」
「贈るんなら、自分じゃあ買わないが貰ったら嬉しいものを、ってね」
「東……」
「母の受け売りだ。これを包んでください」
「ただいま新しいのをお出しします」
店主の丸っこい背中を見つめる東に訪ねた。
「東……本当にいいのかい?」
「餞別だと言ったろ。まぁ、スコットランドは寒いらしいから出番があるか分からんが。あと、今日の朝食代だ、食べ過ぎた」
いたずらな表情をしながら、大して出てもいない自身の腹をさする。
「ふふ、ふふふ!」
玲が笑うとホッとしたように東もつられて声をあげて笑った。
次に連れられたのは画材屋だった。「いらっしゃい」と店主が興味もない感じで新聞紙に視線を落としたまま言葉だけ投げかける。
「こんにちは」
玲は気にせず声だけを掛けて店内に入ると、ふと店主が老眼鏡越しにこちらを見た。そして玲の顔を見るなり慌てて新聞を閉じた。
「これは坊っちゃん、お久しぶりで!」
「御無沙汰しています」
玲は店主に微笑んだ。
「御大が亡くなられて以来でしょうか……」
「そうだと思います」
「すっかり大人になられましたね」
「そ、そうかな」
初めてここに連れてきてくれたのは祖父だ。祖母や母には程々にと言われていたため、ここで祖父と二人きりで画材を購入するのが楽しみだった。「ばあさんには内緒だ」という祖父に、なんだか悪いことをしているみたいでドキドキしたのを覚えている。
「絵の具でしたらあちらに」
「はい、ありがとうございます」
配置換えはそうない小さな画材屋だ。玲は記憶を頼りに狭い通路を進んだ。東はその大きな身体を少しすぼめながらも気分良く付いてくる。
「もう、何年描いてない?」
「三年、だろうか」
少し考えて玲は答えた。
「その間は全く?」
「うん、全く。描きはじめてしまうと集中してしまうから、そうなると他が疎かになってしまって。受験に集中したかったし、手を付けないようにしていたんだ」
──それに……。
東は手持ち無沙汰に絵の具を手に持つと、なんとなしに眺めている。
「でももう我慢することはないな!」
「まるで私が無理をしていたみたいな口ぶりだな」
「そうじゃないのか? 自分を抑えて我慢していたんだろう?」
「私じゃ不釣り合いだと周りに思われたら数正兄さまが気の毒だろう? 許婚が絵ばかり描いてるボンクラだなんて。だからそのために頑張ってるんじゃないか」
「やはり、髙藤さんのために止めたのか」
「…………」
玲は気まずくなって俯いた。
「絵を描いても怒る人じゃないだろうに」
「駄目だ、僕のせいで足を引っ張るわけにはいかないよ」
「一ノ瀬」
分かってる。昔の数正のままであったのなら、東の言うとおり絵を描いても怒ったりはしないだろうと玲も決めつけることが出来た。しかし近頃の数正を思えば、到底そんなことは勘違いだ。嫌われたくないんだ。
「ねえ、君も近いうちドイツへ留学するんだろう?」
帰り道、人力車の中で玲は東に尋ねた。東は医師になるためにドイツで経験を積みたいと以前から決めていた。
「君のような友人にはもう二度と出会えない、そんな気がするよ」
「当たり前だろ。俺は唯一無二だ、そして君もな」
「うん」
「一ノ瀬がやりたいことをするのが一番」
「え?」
「互い、自分らしくあろう」
「あぁ……うん、そうだね」
別れ際、玲が手を差し出すと玲より大きな手にがっしりと握られた。数正のようなゴツゴツしていないさらりとした肌だった。けれどあの数正の友人のような嫌悪感はなかった。もう一度ぎゅっと握り合い、友情の握手を交わす。
「じゃあ、友よ、元気で」
「君もね、今日はありがとう」
「餞別だよ、君に贈らせてくれよ」
そう屈託なく微笑まれると断るのも失礼な気がしてくる。
「好きなものはどれだ? どれが着たい?」
「好きな……?」
そんなこと、今まで聞かれたことが無かった。玲の箪笥には母が買い揃えた服しかないのだ。すぐには決められそうにない。どうしようかと東を見ると、東はゆっくり見てよと隣の棚へ移って行く。
玲は少しほっとして棚に綺麗に陳列されているシャツをひとつひとつ見ていった。実は玲には欲しいものがあった。欲しいと言ったら烏滸がましい、憧れだ。
そして、それがこの店にあった。店の目立った位置に飾られている。人気なのが伺えた。ずっと憧れていた流行りの開襟シャツだ。大学でも着ている男性をよく見ていて淡い憧れを持っていたのだった。
「どうぞ、お近くで」
すると店主が同じものを持ってきてくれた。玲を鏡の前に連れて行くと、鏡の位置を調整してからシャツを玲の身体に当てがった。
「一ノ瀬にはその色が似合うなぁ。試着してごらんよ」
ひょっこり後ろから東が顔を出した。東の言うとおり試着すると、玲は大きな姿見の前で自身を見た。
「淡い水色が一ノ瀬の白い肌によく似合う」
「えぇ、よくお似合いで」
「二人とも口が上手いんだから」
「事実を言ったまでさ」
東がカラッとした笑顔を鏡越しに寄越した。
玲は鏡に映る自身をじっと見た。開襟から白い項が覗く。いつも一番上までボタンを閉めている玲には、少し心許ない。
アルファの番になるにはこの項を噛まれなくてはならない。人間の行動とは到底思えない行為に恥じらいもありつつ、数正にいつか噛まれるということを想像して体を熱くさせたこともあった。アルファがオメガにネックレスを買い与えることにも大きな意味があると聞いたことがある。大学入学前、プロポーズされた時、数正が玲のこの細い首に付けてくれた。その嬉しさに涙がこみ上げたのを昨日のことのように思い出せるのに。
鎖骨の間に指を這わせて、どうしようもない寂しさに涙がこみ上げそうになり、下唇を噛む。
「それに決まりだな?」
「えっ?」
鏡越しに尋ねられ、思わず振り向いた。店主も隣で手を揉んでいる。
「欲しいのはそれだろう?」
「でも……っ」
「贈るんなら、自分じゃあ買わないが貰ったら嬉しいものを、ってね」
「東……」
「母の受け売りだ。これを包んでください」
「ただいま新しいのをお出しします」
店主の丸っこい背中を見つめる東に訪ねた。
「東……本当にいいのかい?」
「餞別だと言ったろ。まぁ、スコットランドは寒いらしいから出番があるか分からんが。あと、今日の朝食代だ、食べ過ぎた」
いたずらな表情をしながら、大して出てもいない自身の腹をさする。
「ふふ、ふふふ!」
玲が笑うとホッとしたように東もつられて声をあげて笑った。
次に連れられたのは画材屋だった。「いらっしゃい」と店主が興味もない感じで新聞紙に視線を落としたまま言葉だけ投げかける。
「こんにちは」
玲は気にせず声だけを掛けて店内に入ると、ふと店主が老眼鏡越しにこちらを見た。そして玲の顔を見るなり慌てて新聞を閉じた。
「これは坊っちゃん、お久しぶりで!」
「御無沙汰しています」
玲は店主に微笑んだ。
「御大が亡くなられて以来でしょうか……」
「そうだと思います」
「すっかり大人になられましたね」
「そ、そうかな」
初めてここに連れてきてくれたのは祖父だ。祖母や母には程々にと言われていたため、ここで祖父と二人きりで画材を購入するのが楽しみだった。「ばあさんには内緒だ」という祖父に、なんだか悪いことをしているみたいでドキドキしたのを覚えている。
「絵の具でしたらあちらに」
「はい、ありがとうございます」
配置換えはそうない小さな画材屋だ。玲は記憶を頼りに狭い通路を進んだ。東はその大きな身体を少しすぼめながらも気分良く付いてくる。
「もう、何年描いてない?」
「三年、だろうか」
少し考えて玲は答えた。
「その間は全く?」
「うん、全く。描きはじめてしまうと集中してしまうから、そうなると他が疎かになってしまって。受験に集中したかったし、手を付けないようにしていたんだ」
──それに……。
東は手持ち無沙汰に絵の具を手に持つと、なんとなしに眺めている。
「でももう我慢することはないな!」
「まるで私が無理をしていたみたいな口ぶりだな」
「そうじゃないのか? 自分を抑えて我慢していたんだろう?」
「私じゃ不釣り合いだと周りに思われたら数正兄さまが気の毒だろう? 許婚が絵ばかり描いてるボンクラだなんて。だからそのために頑張ってるんじゃないか」
「やはり、髙藤さんのために止めたのか」
「…………」
玲は気まずくなって俯いた。
「絵を描いても怒る人じゃないだろうに」
「駄目だ、僕のせいで足を引っ張るわけにはいかないよ」
「一ノ瀬」
分かってる。昔の数正のままであったのなら、東の言うとおり絵を描いても怒ったりはしないだろうと玲も決めつけることが出来た。しかし近頃の数正を思えば、到底そんなことは勘違いだ。嫌われたくないんだ。
「ねえ、君も近いうちドイツへ留学するんだろう?」
帰り道、人力車の中で玲は東に尋ねた。東は医師になるためにドイツで経験を積みたいと以前から決めていた。
「君のような友人にはもう二度と出会えない、そんな気がするよ」
「当たり前だろ。俺は唯一無二だ、そして君もな」
「うん」
「一ノ瀬がやりたいことをするのが一番」
「え?」
「互い、自分らしくあろう」
「あぁ……うん、そうだね」
別れ際、玲が手を差し出すと玲より大きな手にがっしりと握られた。数正のようなゴツゴツしていないさらりとした肌だった。けれどあの数正の友人のような嫌悪感はなかった。もう一度ぎゅっと握り合い、友情の握手を交わす。
「じゃあ、友よ、元気で」
「君もね、今日はありがとう」
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