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第一章
第十三話 横顔
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玲は食事を終えると、東を連れてアトリエに向かった。
何年ぶりか中に一歩踏み入れると空気がしんと静まり返っていて、家具や道具には埃よけのための白い布が掛けられていた。いつの間に、誰かが保護してくれていたらしい。
「随分と使っていないようだが」
東は興味ありげにアトリエの奥へと進んでいくが、玲は気が重かった。
玲は、画家になりたかった。
この広大な敷地内の奥にアトリエがあるのは、以前蔵があったという空き地に祖父・正蔵が大工に頼んでアトリエを建ててくれたからだ。十坪ほどの平屋の建物だが小さな玲にとっては大きな城だった。
「お祖父さまがね、僕の絵をとっても好きだったんだ」
「ファン第一号、いやパトロンか」
東はハハッと笑った。
「ファン第一号のほうがいいなぁ」
「それにしてもすごいキャンバスの量だ。お祖父さんが楽しみにしていたのが分かるよ」
「そう。会うたび脇に抱えていた。どれだけ描いても無くならないんだ」
「これだけあればな」
部屋の片隅に立て掛けてある未使用のキャンバスが二十枚ほどある。日の目を見ることなく、そこでただ出番を未だ待ち続けている。
「絵は習っていたのか?」
東が振り返る。
「小さい頃はお祖父さまが教えてくれていたんだけれど、近所に美大を出たお兄さんが教室を開いたんだ。それからはそこでお世話になっていたよ」
「へぇ」
小さな玲に祖父はまず木炭を与えた。これでデッサンをするようにと。最初はリンゴ、次は庭の花を挿した牛乳瓶、たまに庭にやってくる野良猫、祖父が喜んで褒めてくれる度に玲は夢中になって絵に打ち込んだ。
小学生に上がる頃、同じ町内に住む顔なじみの青年から絵を教わろうと祖父に連れられた。青年は足が悪いようで少し引きずるようにして歩いていた。玲があまりに心配そうに見つめるもので、青年は怪我をしたんだと教えてくれた。「治るの?」と聞いたら戦争で怪我をしたんだよと首を横に振ったのを玲は覚えている。戦後、玲の周りでもそのような人は少なくなかった。
「その頃、油絵の具セットを貰ったんだけど、舞い上がるほど嬉しかった。画家になりたいと憧れ始めたのもその頃だと思う」
小学校入学の祝いにと祖父が贈ってくれた。やがて美大に行く夢も持った。
けれど玲は美大へは行っていない。
「もう描いていないのか、勿体無いな」
「え……っ……あぁ。大学受験で忙しくなってね」
美大を選択肢にもしなかったことには、東は触れてこなかった。壁に掛けられている絵の具で汚れたエプロンを、東はなんとなく見つめている。
「いつもきれいな身なりの君からは想像できないな」
玲が一枚白い布を指先で摘んでから引っ張ると、一枚のデッサン画が現れた。恋い焦がれた数正の横顔だ。今より少しだけ若い彼がキャンバスの中にいた。
小さい頃からずっと見てきた彼の横顔。脳裏に焼き付いて、会えない日だってまるでそこに居るかのように思い出せるほど心から愛する人。
「描きかけだな」
「そうだね」
そうポツリと呟く玲に東は微笑んだあと、じっとその絵を眺めた。
「まずは気分転換だな」
表へ出ると人力車が屋敷の前に止まっている。東が手配したらしい。
「車でなくてよろしいので?」
玄関先で玲の運転手が原にこっそり尋ねた。するとまるでそれに答えるように東が溌溂とした声を出した。
「たまには違うことをするのもいいだろう? いつもの景色も違って見えるさ」
そう笑う東に、原は理解を示すように一礼した。
「東様にお任せ致します。さぁ我々は仕事に戻るよ」
原はいつまでも戸惑っている運転手を中庭の方へと連れて行った。玲も戸惑っている。しかし東の言うがまま車夫から差し出された手に自身の手を置くと、車に乗り上げた。次いで東もひょいと乗り上げると、大きな体を玲の隣に押し込んだ。
「今日は服を買いにいこう」
「服を? なぜ?」
「もう、お人形じゃなくていいんだよ。『僕』で生きていきたいんだろう?」
東は車夫に行き先を伝えると、得意げな顔をしてハンチングをぐっと深くかぶり直した。
到着したのは東の行き付けだという洋品店だった。仕立て屋とは違って既製品がずらりと棚に並んでいるような店だ。
「こんにちは、お邪魔致します」
「いらっしゃいませ」
玲が挨拶すると、初老の店主が奥から物腰柔らかにやってきた。
「これはこれは。東さん。ご友人ですか?」
東は代々医者の家系で、一ノ瀬のような商人の家と比べて社会的地位は高い。にも拘わらず既製品の置いている店に行くというのは珍しいことだ。
東と店主との会話には節々に親密さがあり、東が贔屓にしていることを伺わせる。玲にとって、普段から気負うことのない物腰柔らかな東だからか、店主と世間話を続ける姿は意外でもなく、彼らしい一面を見たと思った。
「えぇ、今日は彼にシャツを買ってやりたくて」
「左様で」
「え? 僕に?」
何年ぶりか中に一歩踏み入れると空気がしんと静まり返っていて、家具や道具には埃よけのための白い布が掛けられていた。いつの間に、誰かが保護してくれていたらしい。
「随分と使っていないようだが」
東は興味ありげにアトリエの奥へと進んでいくが、玲は気が重かった。
玲は、画家になりたかった。
この広大な敷地内の奥にアトリエがあるのは、以前蔵があったという空き地に祖父・正蔵が大工に頼んでアトリエを建ててくれたからだ。十坪ほどの平屋の建物だが小さな玲にとっては大きな城だった。
「お祖父さまがね、僕の絵をとっても好きだったんだ」
「ファン第一号、いやパトロンか」
東はハハッと笑った。
「ファン第一号のほうがいいなぁ」
「それにしてもすごいキャンバスの量だ。お祖父さんが楽しみにしていたのが分かるよ」
「そう。会うたび脇に抱えていた。どれだけ描いても無くならないんだ」
「これだけあればな」
部屋の片隅に立て掛けてある未使用のキャンバスが二十枚ほどある。日の目を見ることなく、そこでただ出番を未だ待ち続けている。
「絵は習っていたのか?」
東が振り返る。
「小さい頃はお祖父さまが教えてくれていたんだけれど、近所に美大を出たお兄さんが教室を開いたんだ。それからはそこでお世話になっていたよ」
「へぇ」
小さな玲に祖父はまず木炭を与えた。これでデッサンをするようにと。最初はリンゴ、次は庭の花を挿した牛乳瓶、たまに庭にやってくる野良猫、祖父が喜んで褒めてくれる度に玲は夢中になって絵に打ち込んだ。
小学生に上がる頃、同じ町内に住む顔なじみの青年から絵を教わろうと祖父に連れられた。青年は足が悪いようで少し引きずるようにして歩いていた。玲があまりに心配そうに見つめるもので、青年は怪我をしたんだと教えてくれた。「治るの?」と聞いたら戦争で怪我をしたんだよと首を横に振ったのを玲は覚えている。戦後、玲の周りでもそのような人は少なくなかった。
「その頃、油絵の具セットを貰ったんだけど、舞い上がるほど嬉しかった。画家になりたいと憧れ始めたのもその頃だと思う」
小学校入学の祝いにと祖父が贈ってくれた。やがて美大に行く夢も持った。
けれど玲は美大へは行っていない。
「もう描いていないのか、勿体無いな」
「え……っ……あぁ。大学受験で忙しくなってね」
美大を選択肢にもしなかったことには、東は触れてこなかった。壁に掛けられている絵の具で汚れたエプロンを、東はなんとなく見つめている。
「いつもきれいな身なりの君からは想像できないな」
玲が一枚白い布を指先で摘んでから引っ張ると、一枚のデッサン画が現れた。恋い焦がれた数正の横顔だ。今より少しだけ若い彼がキャンバスの中にいた。
小さい頃からずっと見てきた彼の横顔。脳裏に焼き付いて、会えない日だってまるでそこに居るかのように思い出せるほど心から愛する人。
「描きかけだな」
「そうだね」
そうポツリと呟く玲に東は微笑んだあと、じっとその絵を眺めた。
「まずは気分転換だな」
表へ出ると人力車が屋敷の前に止まっている。東が手配したらしい。
「車でなくてよろしいので?」
玄関先で玲の運転手が原にこっそり尋ねた。するとまるでそれに答えるように東が溌溂とした声を出した。
「たまには違うことをするのもいいだろう? いつもの景色も違って見えるさ」
そう笑う東に、原は理解を示すように一礼した。
「東様にお任せ致します。さぁ我々は仕事に戻るよ」
原はいつまでも戸惑っている運転手を中庭の方へと連れて行った。玲も戸惑っている。しかし東の言うがまま車夫から差し出された手に自身の手を置くと、車に乗り上げた。次いで東もひょいと乗り上げると、大きな体を玲の隣に押し込んだ。
「今日は服を買いにいこう」
「服を? なぜ?」
「もう、お人形じゃなくていいんだよ。『僕』で生きていきたいんだろう?」
東は車夫に行き先を伝えると、得意げな顔をしてハンチングをぐっと深くかぶり直した。
到着したのは東の行き付けだという洋品店だった。仕立て屋とは違って既製品がずらりと棚に並んでいるような店だ。
「こんにちは、お邪魔致します」
「いらっしゃいませ」
玲が挨拶すると、初老の店主が奥から物腰柔らかにやってきた。
「これはこれは。東さん。ご友人ですか?」
東は代々医者の家系で、一ノ瀬のような商人の家と比べて社会的地位は高い。にも拘わらず既製品の置いている店に行くというのは珍しいことだ。
東と店主との会話には節々に親密さがあり、東が贔屓にしていることを伺わせる。玲にとって、普段から気負うことのない物腰柔らかな東だからか、店主と世間話を続ける姿は意外でもなく、彼らしい一面を見たと思った。
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「左様で」
「え? 僕に?」
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