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第一章
第十七話 出国
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出国の日の前日。
ベッドの端に腰掛けて、玲は服を畳んでいる。スコットランドへ旅立つための準備だ。一つ目のトランクの荷造りは完了していて、もう一つのトランクには今日ギリギリまで使用した玲の普段の愛用品を詰めていく。しかしぼんやりとして、手を止めてはため息をついての繰り返しで、一向に進む気配はない。
開け放たれた洋服箪笥の中には先日東と出向いて購入した開襟シャツと、いつもの真っ白なブラウスが掛かっている。服装は他所様に失礼がないようにと幼い頃から母が選んでくれていた。ブラウスのボタンを一番上までしっかり留めて、その上にはベストかカーディガンを羽織る。プレスの効いたスラックスにエナメルの靴。
おしゃれの欠片もなく、どこから見ても真面目な御曹司の雛形をしていた。一方で数正は、テーラーに注文した英国製の三つ揃えの背広に、それに合わせた中折れ帽。とても対照的で今思えば不釣り合いだった。
こんなことなら、好きな服でいればよかったんだ。大学も行きたかった美術大学に行けばよかったのかもしれない。誰よりも数正に選んで欲しくて、誇りに思って欲しくて経済学部と決めた。全ては数正の役に立ちたくて。そのために自分の人生の選択をしてきた。なのに全ての努力は、無駄に終わってしまったような気がする。
「坊ちゃん、トランクは階下にお持ちしましたよ」
ふぅ、っと息をついて原が戻ってきた。
「荷造り、手伝ってもらってごめん」
「なにを仰いますか、……それよりよろしいのですか?」
「なにが?」
「髙藤様に改めて最後のご挨拶をされたほうが」
「もう済んでいるよ。ほら、この前夜中に来たでしょう?」
無理に笑ってみせるが、原は眉を寄せてまるで信じていない様子で玲を見ていた。
「明日、港にはお見送りにいらっしゃいますか?」
「あぁ、うん。見送りには来てくれるよ」
「それなら宜しいんですが」
原は嘘を見抜いているんだろう、しかし数正と婚約を破棄する話をしていたとは、それほど拗れているとはどうしてもこの口からは言えそうにない。
「……そのように沈んだ顔をしていては、私も心苦しいのです。やはり一緒にスコットランドへ。否、せめて生活が安定するまでの数日だけでもご一緒できませんか?」
「原にも来てもらえたら心強いけれど、ひとりでやってみたい、そう決めたから」
「……いいえ、承知しております」
玲が無理を言い留学させてもらうため、余計な出費は認められなかった。玲とて、甘えるつもりもない。それに実際、一ノ瀬家は旧財閥としての矜持を保つこと以外には余裕はなくなっていた。父は外交官であり何不自由ない暮らしが出来てはいるものの、詳しいことは母は口にはしないが祖父が所有をしていた不動産を手放しているようだ。母親は決して贅沢をせず質素倹約を心掛けているが、戦後からの税金の引き上げに相当苦心しているようだった。留学中の原一人分の滞在費をお願いするのには気が引けた。独り暮らしもしたことのない玲の、人生最大の冒険である。
「坊ちゃん」
原に呼ばれてはっとして振り向くと、原は玲の履いているスラックスを見ていた。玲も原の視線の先に目をやると、玲のスラックスの裾が汚れていた。
「あ、あれ、いつの間に……気をつけていたのだけれど」
「宜しいのですよ、洗えば落ちます。しかし、もしや……」
「懐かしくなってしまってさ。ほらこの間東にアトリエを見せたでしょう? 何年ぶりかに入ったら懐かしくなってしまって」
「それでお描きになっていたのですね」
「うん。描きかけの絵があったからちょっと描きたくなってしまってさ。東と行った画材屋で実は絵の具も買ったんだ」
「それはそれは、先代がお喜びになられますな」
原は嬉しそうに皺をくしゃりと寄せる。そして玲の側に置いてある油絵の具セットを見つけた。
「スコットランドへもお持ちになるのですか?」
「うん。少しは自分の時間が持てそうだから描いてみるよ」
そう言って玲は小さな木製の鞄を手に取った。昔祖父が買ってくれた油絵道具だ。持ち運びが出来るように鞄になって持ち手が付いている。原はゆっくりと頷いて嬉しそうに目を細めた。
「日本とは違う景色で、きっと描きたくなるに違いありません」
「うん。そうかもしれない」
「私にも絵葉書で構いません、一枚送ってください」
「ふふ。一枚だけじゃなくて、沢山送るよ」
「無理はせず、勉強第一でございますからね」
「はいはい」
翌日、玲はひとりスコットランドへと向かった。
ベッドの端に腰掛けて、玲は服を畳んでいる。スコットランドへ旅立つための準備だ。一つ目のトランクの荷造りは完了していて、もう一つのトランクには今日ギリギリまで使用した玲の普段の愛用品を詰めていく。しかしぼんやりとして、手を止めてはため息をついての繰り返しで、一向に進む気配はない。
開け放たれた洋服箪笥の中には先日東と出向いて購入した開襟シャツと、いつもの真っ白なブラウスが掛かっている。服装は他所様に失礼がないようにと幼い頃から母が選んでくれていた。ブラウスのボタンを一番上までしっかり留めて、その上にはベストかカーディガンを羽織る。プレスの効いたスラックスにエナメルの靴。
おしゃれの欠片もなく、どこから見ても真面目な御曹司の雛形をしていた。一方で数正は、テーラーに注文した英国製の三つ揃えの背広に、それに合わせた中折れ帽。とても対照的で今思えば不釣り合いだった。
こんなことなら、好きな服でいればよかったんだ。大学も行きたかった美術大学に行けばよかったのかもしれない。誰よりも数正に選んで欲しくて、誇りに思って欲しくて経済学部と決めた。全ては数正の役に立ちたくて。そのために自分の人生の選択をしてきた。なのに全ての努力は、無駄に終わってしまったような気がする。
「坊ちゃん、トランクは階下にお持ちしましたよ」
ふぅ、っと息をついて原が戻ってきた。
「荷造り、手伝ってもらってごめん」
「なにを仰いますか、……それよりよろしいのですか?」
「なにが?」
「髙藤様に改めて最後のご挨拶をされたほうが」
「もう済んでいるよ。ほら、この前夜中に来たでしょう?」
無理に笑ってみせるが、原は眉を寄せてまるで信じていない様子で玲を見ていた。
「明日、港にはお見送りにいらっしゃいますか?」
「あぁ、うん。見送りには来てくれるよ」
「それなら宜しいんですが」
原は嘘を見抜いているんだろう、しかし数正と婚約を破棄する話をしていたとは、それほど拗れているとはどうしてもこの口からは言えそうにない。
「……そのように沈んだ顔をしていては、私も心苦しいのです。やはり一緒にスコットランドへ。否、せめて生活が安定するまでの数日だけでもご一緒できませんか?」
「原にも来てもらえたら心強いけれど、ひとりでやってみたい、そう決めたから」
「……いいえ、承知しております」
玲が無理を言い留学させてもらうため、余計な出費は認められなかった。玲とて、甘えるつもりもない。それに実際、一ノ瀬家は旧財閥としての矜持を保つこと以外には余裕はなくなっていた。父は外交官であり何不自由ない暮らしが出来てはいるものの、詳しいことは母は口にはしないが祖父が所有をしていた不動産を手放しているようだ。母親は決して贅沢をせず質素倹約を心掛けているが、戦後からの税金の引き上げに相当苦心しているようだった。留学中の原一人分の滞在費をお願いするのには気が引けた。独り暮らしもしたことのない玲の、人生最大の冒険である。
「坊ちゃん」
原に呼ばれてはっとして振り向くと、原は玲の履いているスラックスを見ていた。玲も原の視線の先に目をやると、玲のスラックスの裾が汚れていた。
「あ、あれ、いつの間に……気をつけていたのだけれど」
「宜しいのですよ、洗えば落ちます。しかし、もしや……」
「懐かしくなってしまってさ。ほらこの間東にアトリエを見せたでしょう? 何年ぶりかに入ったら懐かしくなってしまって」
「それでお描きになっていたのですね」
「うん。描きかけの絵があったからちょっと描きたくなってしまってさ。東と行った画材屋で実は絵の具も買ったんだ」
「それはそれは、先代がお喜びになられますな」
原は嬉しそうに皺をくしゃりと寄せる。そして玲の側に置いてある油絵の具セットを見つけた。
「スコットランドへもお持ちになるのですか?」
「うん。少しは自分の時間が持てそうだから描いてみるよ」
そう言って玲は小さな木製の鞄を手に取った。昔祖父が買ってくれた油絵道具だ。持ち運びが出来るように鞄になって持ち手が付いている。原はゆっくりと頷いて嬉しそうに目を細めた。
「日本とは違う景色で、きっと描きたくなるに違いありません」
「うん。そうかもしれない」
「私にも絵葉書で構いません、一枚送ってください」
「ふふ。一枚だけじゃなくて、沢山送るよ」
「無理はせず、勉強第一でございますからね」
「はいはい」
翌日、玲はひとりスコットランドへと向かった。
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