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第二章
第二十六話 誰にでも最初はある
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数正との結婚を意識するにつれ、彼を支える立場になるためには絵ではない。絵では彼を支えることができない。経営学を学ばなければと、十七歳で玲は筆を置いた。
もしもっと若い頃に絵から離れていたら、数正からあんなこと言われなくて済んだだろうか、絵に未練があることが、もしかしたら伝わってしまったのだろうか。それで、失望したのだろうか。もっと、もっと、元財閥の御曹司として勤勉に努め、数正を支えられる伴侶にならなければならなかった。後悔は尽きない。
玲はか細い声で呟いた。
「……駄目じゃないです」
もうそんな後悔をしても仕方がない。玲はもうこれ以上頑張れる気がしなかった。完全に張り詰めていた糸が切れてしまったのだ。
「君には今、絵が必要だと思う」
弱々しく顔を上げると、ジョージは玲を見つめていた。その優しい眼差しに、玲は信じてみたくなってしまう。
「是非ここで働いてほしい」
「しかしわたしは世間知らずで働いたこともないのです」
「誰にだって最初はある」
「わたしは……その……オメガですし」
そう小声で訴えると、ジョージは優しい笑顔ながらその視線は鋭く玲を射抜く。
「オーナーは私だ。何かあれば改善するし、問題が起これば私が君を必ず守る。これは絶対にだ」
ジョージは語気を強める。アルファとしての責任を果たそうとする視線。それはどこか数正を彷彿とさせる。
「しかし、それではあなたの負担が──」
「私を侮らないでおくれ。私のせいで君を不幸には決してさせない」
なんというアルファの矜持だろうか。ジョージから放たれたアルファの圧は恐れではなく、間違いなく畏れだった。
それから週に三日ほど玲は働くこととなった。働く日は講義を終えるとバスに乗りジョージの画廊へと向かうのだった。バスの窓からは、クリスマスの装飾で華やいだ街が目に飛び込んでくる。もう十二月も終わろうとしていた。
玲は膝にバッグを乗せるとその上にノートを開いた。移動の時間も惜しんで課題に向かう。忙しくはなったが、孤独を紛らせるにはちょうど良かった。
「こんにちは! アイラさん」
「ハイ! アキラ。今日は早いわね」
雑貨屋を開くことが夢の女性店員は、アイラという名前の二十一歳の大学生。玲と年も近く、すぐに打ち解けあえた。やはりアジア人と話すことが初めてで気後れしてしまったようで、直ぐにそれは謝ってきた。今では食器の話や紅茶の歴史など教えてくれる先輩のような存在。
カウンターの向こうでティーカップを磨いていたアイラは、その手を止めて玲を迎えた。玲はコートを脱ぐとすぐにアイラの隣に向かった。
「今日は特に寒いわね」
「雪でも降りそう」
「滅多にはないけど、今夜は降りそうね」
「あまり降らないのですか?」
「たまにね。アイルランドのほうが凄いわ。私の祖母がアイルランド人でね、祖母の家へ行くと冬はずーーっと雪なのよ。入り口が雪で埋もれてしまって雪かきが一苦労よ」
玲には雪は羨ましいけれど、それはきっと降雪地で暮らさない人間がその苦労を知らないからだろう。
「アキラの国は雪は降る?」
「ソビエトに近い北の地域では何メートルと積もりますよ」
「わぁ、何メートルも? それは凄いわね」
アイラは目を丸くした。
「ところでアキラ、年末はどうするの?」
「うーん。いつもと変わらないですね。家で過ごします。帰国することもないので」
「そう、私は実家へ戻るの。一緒に過ごせたら良かったのだけど」
「その言葉だけで嬉しいですよ。ありがとう」
風が窓ガラスを叩いた。
「今夜はきっとお客さんは来ないわね」
「そのようですね」
「早く店じまいしていいと言われているから、早めに帰りましょ?」
「はい」
「ジョージはあとで来るようだけれど」
「じゃあわたしが店じまいしますから、アイラさんは先に上がってください」
「いいの?」
「課題、まだ終わってないと言っていましたよね」
「そうだけど、まさか、アキラは」
「わたしはもう終えました」
「えぇ!? それはひどいわ!」
「ふふ。なので先に上がってください」
帰り支度を始めたアイラが、玲のコートが床に落ちていることに気がついて、それを拾った。
「落ちていたわよ」
「あ、ありがとうございます」
「ねぇ、アキラ」
「ん?」
「あなたって、本当はすごくお金持ちなんじゃない?」
「え? 何?」
「ううん。私が出たらちゃんと鍵をかけてね」
「はい」
アイラはいつもの笑顔で店を出て、玲はそれを見送った。
玲は店の看板の電気を消して入り口の鍵を締めた。そうして玲はジョージの写真が飾られている奥へ向かった。世界中の景色を切り取ったジョージの写真は、玲を引きつけた。なにより景色だけでなく、そこに生きる人々の営みを切り取った写真が玲は好きだ。
一瞬だけ、時を止めたような、まるで魔法のようだと思った。
「気に入ったかい?」
急に声がして慌てて振り向くと、ジョージが店に入ってくるところだった。
もしもっと若い頃に絵から離れていたら、数正からあんなこと言われなくて済んだだろうか、絵に未練があることが、もしかしたら伝わってしまったのだろうか。それで、失望したのだろうか。もっと、もっと、元財閥の御曹司として勤勉に努め、数正を支えられる伴侶にならなければならなかった。後悔は尽きない。
玲はか細い声で呟いた。
「……駄目じゃないです」
もうそんな後悔をしても仕方がない。玲はもうこれ以上頑張れる気がしなかった。完全に張り詰めていた糸が切れてしまったのだ。
「君には今、絵が必要だと思う」
弱々しく顔を上げると、ジョージは玲を見つめていた。その優しい眼差しに、玲は信じてみたくなってしまう。
「是非ここで働いてほしい」
「しかしわたしは世間知らずで働いたこともないのです」
「誰にだって最初はある」
「わたしは……その……オメガですし」
そう小声で訴えると、ジョージは優しい笑顔ながらその視線は鋭く玲を射抜く。
「オーナーは私だ。何かあれば改善するし、問題が起これば私が君を必ず守る。これは絶対にだ」
ジョージは語気を強める。アルファとしての責任を果たそうとする視線。それはどこか数正を彷彿とさせる。
「しかし、それではあなたの負担が──」
「私を侮らないでおくれ。私のせいで君を不幸には決してさせない」
なんというアルファの矜持だろうか。ジョージから放たれたアルファの圧は恐れではなく、間違いなく畏れだった。
それから週に三日ほど玲は働くこととなった。働く日は講義を終えるとバスに乗りジョージの画廊へと向かうのだった。バスの窓からは、クリスマスの装飾で華やいだ街が目に飛び込んでくる。もう十二月も終わろうとしていた。
玲は膝にバッグを乗せるとその上にノートを開いた。移動の時間も惜しんで課題に向かう。忙しくはなったが、孤独を紛らせるにはちょうど良かった。
「こんにちは! アイラさん」
「ハイ! アキラ。今日は早いわね」
雑貨屋を開くことが夢の女性店員は、アイラという名前の二十一歳の大学生。玲と年も近く、すぐに打ち解けあえた。やはりアジア人と話すことが初めてで気後れしてしまったようで、直ぐにそれは謝ってきた。今では食器の話や紅茶の歴史など教えてくれる先輩のような存在。
カウンターの向こうでティーカップを磨いていたアイラは、その手を止めて玲を迎えた。玲はコートを脱ぐとすぐにアイラの隣に向かった。
「今日は特に寒いわね」
「雪でも降りそう」
「滅多にはないけど、今夜は降りそうね」
「あまり降らないのですか?」
「たまにね。アイルランドのほうが凄いわ。私の祖母がアイルランド人でね、祖母の家へ行くと冬はずーーっと雪なのよ。入り口が雪で埋もれてしまって雪かきが一苦労よ」
玲には雪は羨ましいけれど、それはきっと降雪地で暮らさない人間がその苦労を知らないからだろう。
「アキラの国は雪は降る?」
「ソビエトに近い北の地域では何メートルと積もりますよ」
「わぁ、何メートルも? それは凄いわね」
アイラは目を丸くした。
「ところでアキラ、年末はどうするの?」
「うーん。いつもと変わらないですね。家で過ごします。帰国することもないので」
「そう、私は実家へ戻るの。一緒に過ごせたら良かったのだけど」
「その言葉だけで嬉しいですよ。ありがとう」
風が窓ガラスを叩いた。
「今夜はきっとお客さんは来ないわね」
「そのようですね」
「早く店じまいしていいと言われているから、早めに帰りましょ?」
「はい」
「ジョージはあとで来るようだけれど」
「じゃあわたしが店じまいしますから、アイラさんは先に上がってください」
「いいの?」
「課題、まだ終わってないと言っていましたよね」
「そうだけど、まさか、アキラは」
「わたしはもう終えました」
「えぇ!? それはひどいわ!」
「ふふ。なので先に上がってください」
帰り支度を始めたアイラが、玲のコートが床に落ちていることに気がついて、それを拾った。
「落ちていたわよ」
「あ、ありがとうございます」
「ねぇ、アキラ」
「ん?」
「あなたって、本当はすごくお金持ちなんじゃない?」
「え? 何?」
「ううん。私が出たらちゃんと鍵をかけてね」
「はい」
アイラはいつもの笑顔で店を出て、玲はそれを見送った。
玲は店の看板の電気を消して入り口の鍵を締めた。そうして玲はジョージの写真が飾られている奥へ向かった。世界中の景色を切り取ったジョージの写真は、玲を引きつけた。なにより景色だけでなく、そこに生きる人々の営みを切り取った写真が玲は好きだ。
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急に声がして慌てて振り向くと、ジョージが店に入ってくるところだった。
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