枳殻のささやき

稲葉真乎人

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02.派遣社員

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技術部には開発課と技術課と品質管理課があり、広いフロアに同居していた。
秀作は退社時に開発課主任の西城達夫に声を掛けた。
JRで高槻に帰る西城のために、秀作はJR向日駅の近くにある茶房に誘った。
西城は酒をほとんど飲まず、無類の甘党だった。
学究肌の男で、仕事となると形振りを構わないほど没入する。
そんな彼が、唯一身体を動かして意欲を燃やすのが、学生時代に選手として活躍していたボーリングだった。
本人は三十までには結婚をしたいと言っていたが、三十一歳になった今も独身だった。
秀作が連れて行ったのは、古くからやっている和菓子屋で、店内の一部が和菓子とお茶を楽しむ茶房になっていた。流石に夕方に和菓子を楽しむ客はいなかった。
「悪いね、退社後に呼び出して、折り入ってお願いがあってね」
「何でしょう、わたしで、お役にたてることですか?」
「品管の沢村課長に頼んでも良かったんだけどね、派遣社員の女性二人に、感謝の気持ちを伝えたいと思ってね、彼女達は良くやってくれているだろ?」
「ええ、ほんとに、派遣じゃなくて社員ならいいのにと、みんなそう話しています」
「そうだね、年末の社員大会には参加してもらえないし、派遣社員は、他に営業部にも商品センターにも数人いるらしいんだが、あまり良い評判が聞こえてこない、進藤さんと立川さんは特別だね……。そこでなんだが、経費はわたしが持つから、二人に楽しんで貰おうと思っているんだよ。西城くんに頼みたいのは、ボーリング場の手配と、ゲームを仕切って貰いたいんだが、どうかな?」
「部長、喜んでやらせてもらいますよ、それで何人くらい?」
「うん、うちの隅田くんと門脇さん、本社の受付の谷川さんと、ひょっとしたらもう一人、それから総務の笹原くん、彼は大学の後輩でね。それから、技術部から営業に移籍して行った吉岡くん、それに、君とわたしだ」
「九人か十人ですね、大丈夫です、やらせて頂きます」
「彼女達は京都市内だから、その点は考慮してあげてくれるかな、それと、ボーリングの後の会食は、わたしが準備するから。二次会は若い人達で自由にやってくれればいい、金曜の夜が良いだろうね?」
「そうですね、彼女達の都合は?」
「それは、門脇さんに訊いてもらうようにしておくから、連絡させよう」
「きっと、二人は喜びますよ」
「うん、うちの実績の一部は、彼女達の貢献を抜きには考えられないからね、彼女達なら、派遣ではなくて社員登用も考えて上げたいね」
「でも部長、派遣でなければならない理由のあるひとも居ますからね」
「それはそうだね、機会があれば訊いてみるかな?」
秀作は、西城が仕事とボーリング以外に、気を入れて話す姿を初めて見た。
西城は、柚子を使った、店一番の、お勧めの饅頭を二十個も買い込んで帰って行った。

昼休みの喫茶室で隅田博司が、前日行われた社員大会打ち合わせ会の報告を秀作にした。
報告を終えて、コーヒーカップを手にしながら雑談をしていた。
「部長、受付の谷川さんから、今度宜しくと言われたんですが?」
「ああ、門脇さんが話したんだな、派遣の二人に感謝する会を考えているんだよ、勿論、この前言ったように、君にも出てもらうよ……。詳しいことは西城主任か門脇さんに聞いてくれるといい、わたしのプライベートな誘いだから、全員じゃないんだ、その辺は事務所内で配慮してくれるかな」
「分かりました、後で訊きます。進藤さんも立川さんも、良くやってくれていますからね、わたし達も、何かして上げたいと話していたんです」
「そう……。西城主任に、ボーリング場を抑えてもらうように頼んであるんだ。彼が独身で最年長者だ、なるべく年寄りがいない方が良いと思ってね、わたしもなるべく邪魔しないようにするよ」
「いえ、部長には居て頂いた方が、みんな和むと思います。ああ、それと部長、秘書課の泉田さんが、一度、部長にお会いしたいと話していましたけど……」
「泉田さん?」
「何か、部長にお訊きしたいことがあるとか……」
「そう……。この前、門脇さんの社内便を届けただけなんだが……。わたしに何だろう?」
「部長は若手の社員に人気がありますから、特に女子社員には……」
「馬鹿なことを言わないでほしいな、管理部長も、そんなことを話していたけど、管理職の仕事をしているだけなんだから、業務以外に、個人的に話し掛けられることはないと思うが……?」
「わたしにはよく分かりません、谷川さんを誘ったことと関係があるんですかね?」
「いや、それはないと思うよ。門脇さんが説明をしている筈だ、彼女はその辺の配慮はきちっとできるタイプだからね」
「まあ、そうですね、今度本社へ行かれて、彼女が受付に座っていれば、何か話しがあると思います、部長からは、なにもされなくていいんじゃないですか」
「そうだね、本社にはよく行くけど、あまり、受付の女性と余分な話しはしないからね」
「そうですね、女子社員と見ると、何やかやと話しかける管理職のひともおられますから、その辺も、部長が女子社員に人気がある処だと思いますよ」
「おい、声を掛けたからヨイショかい?」
「いえ、そうじゃないです、社内の評判ですから……」
昼休み終了五分前のチャイムが響き、事務所に引き上げた。

終業後、東向日駅のホームで、秀作は女性から声を掛けられた。
振り向くと、派遣社員の進藤里絵と立川美南が並んで立っていた。
「部長、色々と気を遣って頂いて、ありがとうございます」
「ああ、二人とも聞いてくれたんだね、みんなが二人に感謝しているからね、わたしが代表で声を掛けたから、気楽に参加して下さい。全員じゃないけど、独身の若い人達だけだから、気を遣わないで楽しんでもらいたいと思ってね」
「はい、嬉しいです、喜んで行かせて頂きます」
進藤里絵は二十五歳の独身で、体格がよく古風な印象がある。今時、珍しい良妻賢母と云った、歳より上に見える落ち着いた感じがする。
立川美南は二十三歳で、いつも優しい笑顔で明るいが、根は大人しい。
二人ともコンピューターのオペレーターとしては、抜群の能力を備えていた。行儀もよく訓練されており、むしろ、社員よりも優秀な部分が目立った。
派遣社員ということもあり、秀作は、彼女達の個人情報を、人事からの簡単な書類以外に、知ることはなかった。
三人は入線して来た電車に乗り込んだ。

金曜日の夕方、秀作が声を掛けた若者達は、それぞれが別々に市内のボーリング場に向った。
西城、隅田、吉岡の男性社員三人、門脇、谷川、進藤、立川の四人の女性達と秀作は、西城がリーダーシップを執って、2ゲームのボーリングを楽しんだ。
秀作は、知り合いのレストランのコーナーを借り切って、全員を招待した。
秀作が、会社の部長の立場を離れた目線で見ても、全員が素晴らしい若者達に映った。
意外だったのは、西城が進んで周りに気を遣っていることだった。ボーリングの手配は頼んだが、それ以上に、気を入れて後輩に目を配ってくれているのが、秀作には嬉しかった。
派遣社員の二人は、打ち解けて、ごく普通の若い女性になっていた。
普段は部署の違う谷川早希子と吉岡賢一も、会食の意図を理解して、進藤里絵と立川美南に話し掛けたり、ワインやカクテルを勧めたりしていた。
会食も終わりに近くなった頃を見計らって、秀作が里絵と美南の席に寄った。
「進藤さんも立川さんも、本当によくやってくれていますね、部内のみんなが感謝していますよ。派遣社員は他の部署にもいるので、大っぴらに感謝の意を表することができないから、わたしが、個人の立場で感謝の食事会をさせてもらいました。これはワイフに頼んで用意したものだけど、部内のみんなの感謝の気持ちを代表して、ささやかな物だけど受け取ってくれますか?」
里絵と美南は席で立ち上がった。美南は涙ぐんで言った。
「君原部長、派遣社員なのに、こんなにして頂くなんて、ありがとうございます」
里絵も続けて言った。
「わたしは、今までにも他の会社で派遣で働いたことがありますけど、こんなに親切にして頂いた会社はありませんでした。部内の皆さんは親切ですし、派遣だからと云って差別もされません、感謝したいのはわたし達の方です。ありがとうございます、皆さんも本当にありがとうございます」
最後は涙声だった。
吉岡賢一が言った。
「いいなぁ、僕が技術部から出たのは、間違いだったかも知れないなぁ、うちにも派遣社員がいるけど、二人はダントツで素晴らしいですよ」
隅田博司が言った。
「吉岡さん、戻ってこないでください、あとは僕が引き継いでいますから、それより、それ開けてみせてよ?」
「大した物じゃないから、いいだろ」
秀作が言うと、直ぐに門脇朋美が言った。
「部長、いいんですよ。今は、そうするのが礼儀ですから……、ねぇ、わたしも見たいわ」
涙を拭いた里絵が、椅子に座って丁寧に包みを開いた、綺麗な包装紙の下から、化粧のあぶらとり紙で有名な《よーじや》の包装紙が見えた。
あぶらとり紙の他にも、小さな手鏡や、他にも綺麗な包みが入っていた。
早希子が言った。
「流石に部長はセンスがいいですね、というか、奥さんですか?」
里絵が言った。
「嬉しい、わたし、こんな良いあぶらとり紙は使ったことがありません、君原部長、ありがとうございます」
美南も言った。
「わたし、こんなこと夢にも思っていませんでした、派遣社員は部外者ですし、会社からは、出過ぎたことはしないようにと言われています。こんなにして頂いていいんでしょうか……」
西城が言った。
「進藤さんも立川さんも、いい部長の所に来たと言うことだよ。部長には、そんな遠慮はいらないよ、二次会は、僕と隅田くんと門脇さんで計画しているから、もう少し、付き合ってもらうよ?」
秀作が言った。
「そう云うことだそうだからね、後は、みんなで楽しくやってください、これから年末に向けて、忙しいかもしれないけど、二人も楽しく元気でやってください」
店を出てみんなと別れる前に、秀作はウォレットから三万円を抜きだすと、「門脇さん、少ないけど」と言って朋美の手に握らせた。
朋美が秀作から受け取った三万円を、西城に手渡したとき、西城は、黙って札を握り締めながら、秀作の後姿を見送っていた……。
この夜、若者達は遅くまで楽しんだ。
酒を飲まない西城が、みんなに、間違いや事故が起きないように、ずっと目配りをして、最後は女性達をタクシーに乗せて帰らせた。
この夜の若者達の交流は、後に、思わぬ嬉しい情報を秀作にもたらした。

週明けの午後、秀作は本社に行った。
この日の受付には泉田祥子が座っていた。
「こんにちは、ご苦労様」
「お疲れ様です」
「泉田さん、先日の封書は、受け取ってくれましたか?」
「はい、水原部長から受け取りました、ありがとうございました」
秀作は、それだけの会話を済ますと、エレーベータールームに歩いて行った。
祥子からは、特別に話したいような気配は感じられなかった。
会社幹部との打ち合わせを終えた秀作は、管理部に顔を出した。
管理部長の席に近づくと、秀作は言った。
「水原さん、ちょっと教えて欲しいことがあるんですが、時間いいですか?」
「ええ、何事ですか?」
「応接コーナーは、空いていますかね?」
「ええ多分、西丘さん、応接コーナーは、誰か使用している?」
「いいえ、全部のコーナーが空いておりますが……」
「そう、ありがとう、第一を使うからね・・・じゃぁ君原さん、あちらで」
水原は応接コーナーに続く廊下の、入り口の傍に設置されている給湯器から、お茶を二つカップに注いで両手に持つと、先に立って歩いた。
秀作が第一応接コーナーのドアを開いて、水原を入室させた。
「すいませんね君原さん、社内関係は自分で、と云うことになっていますのでね」
「悪いですね、自分のカップくらいは持ちましたのに」
「いえいえ、本社においでになった部長に、それはちょっと申し訳ないですから……」
水原は大げさに言った。
二人は向かい合ってテーブルについた。
水原が興味深かそうに、先に訊ねた。
「おおっぴらには、話せないことですか?」
「いやいや、そんな内容ではないんです、現在の人材補充で。基準というのは何かあるんですか?。最近は中途採用者が、部長会にかかる事が多いようですが?」
「ええ、各部門からの人材要求の内容によりますね、社内で対応できる資質というか、技量を持つ人材の要求であれば、そちらが優先です、但し、出す側の部門の事情もありますから、経費面で余裕があれば、随時、外部からの補充、つまり、採用ということになりますが……」
「そうですか、派遣社員を充当する部門とか位置付けについては、規定のようなものがありますか?」
「いえ、雇用条件とか個人情報保護の問題もありますから、業務内容とポジションによって、各部長から申請して頂いて、都度、管理部と幹部の承認を得る形になっていますが……。部長のところで、何か派遣社員で問題でも?」
「いや、逆なんですよ、今の派遣会社は《カズホ》とか言うんですね?」
「ええ、本当は一歩と書いてカズホですが、商標はアルファベットです、女性専門の派遣会社でしてね、女性社長なんですよ。実は、後で分かったことなんですが、以前、部長の下に居て営業部に転籍した、吉岡賢一と言うのが居ましたでしょ、彼の母親なんですよ」
「そう、それは知りませんでした。彼は何も言わなかったなぁ」
「そうでしょう、あの会社の派遣社員も、勿論、社長や営業担当者も礼儀が正しくて、よく教育訓練されているんですよ。危機管理や個人情報保護に関しても、社内で徹底的に教育されていましてね、わたしも学ぶ面が多いですよ」
「そうですか。いや、実は、技術部の三つの課で、将来軸になってくれるような女性社員が欲しいと思っていましてね。現在は門脇朋美が技術課で庶務専任、技術部のわたしの秘書で氏家沙智子、この二人が専任ですが、結婚したら退社すると聞いていましてね、実際は何時になるか分かりませんが……。部内の女性社員の中には、男性社員と同じように、結婚しても、ずっと仕事に打ち込みたいというひともいますから……」
「そうですね、技術部門ですからねぇ……、後任に、頼まれている方でもあるんですか?」
「いやいや、何もありません。部内に庶務と秘書専任に二名は必要ないと考えているんです、彼女達自身に問題がある訳ではないんですよ、そういうポジションは、もう必要ないと思っているんです」
「そういうことなら、経費節減委員会で提言されたらいいと思いますが?」
「確かに経費の問題にも絡みますが、派遣社員の中に優秀な方がいましてね、お願いしている業務の処理能力が高くて速いんです、余った時間がもったいないのと、彼女達からも暇で申し訳ないと、聞かされているものですから。派遣会社と話しが付けば、当社の社員として、登用の機会はあるのかと思いましてね、本人達が希望しているかどうかは、まだ確認をしていませんがね……」
「技術部は、以前、かなりの人員削減をして頂きましたから、現在は十分に損益で貢献しておられます。部長が申請されれば、通ると思いますが……、まして、専任業務を廃止して、部内の多方面の業務と兼務するとなれば、決して悪い提案ではないと考えますが……」
「水原さん、それだけ聞いておけば結構です」
「そうですか、君原さんの所は評価が難しい部門ですが、わたしから見ても、優秀でモラルの高い社員が多いと思いますよ、部長の管理指導がいいからでしょう、いや、人望かも知れませんね」
「それは、ないですよ」
「今日は、もう、技術部には戻られませんか?」
「ええ、ちょっと個人的な支払いに寄らなければならない所がありましてね」
「それじゃぁ、お誘いできませんね、また機会があれば一杯……」
「いいですね、今度、わたしから声を掛けますよ」

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