枳殻のささやき

稲葉真乎人

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03.若者

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秀作が管理部を出て、エレベーターで一階に下りると、受付は谷川早希子に代わっていた。早希子は秀作を見つけると、席を立って受付に来るのを待った。
周囲に誰もいないのを知って、秀作の方から声を掛けた。
「先週はありがとう、無事に帰れたのかな?」
「ありがとうございました、とても楽しく過ごせました、技術部の皆さんに宜しく伝えて下さい」
「そう、それは良かった、もうお終わりじゃないの?」
「はい、部長がお見えになっていると、泉田さんに聞きましたから、お礼を言おうと思いまして、お待ちしていました」
「そんなに思ってもらうほどのことではないよ、それより、これから金曜日に行った店に行くんだけど、もし良ければなんだけど、少し付き合ってもらえないかな?」
「はい、いいです。じゃ、直ぐに着替えてきます」
「いや、急がないでいいよ、店の前に、三十分後ではどうかな?」
「わかりました、ありがとうございます」
秀作はひとりで、前日使ったレストランに向った。
本社から歩いて十分くらいの所にあるリストランテ.スペランツァには、まだ客が来ていなかった。
店内に入り、オーナーシェフの黒崎に先日の礼を言って七万円を支払った。
領収書もお釣りもいらないと言って、これから客が来るからと伝えた。
黒崎は「じゃぁ遠慮なく頂いとく、今夜のお客さんにサービスするよ」と言って受け取った。
秀作は早希子を迎えるために、店の外に出て待つ。
早希子は秀作を見つけると、嬉しそうな表情で足を速めた。
会社ではハイヒールだが、本人は長身を気にしてか、ローヒールの靴を履いている。
枯れ葉模様がデザインされた、大きなトートバッグの紐を肩に掛けて、大股で歩いてきた。
チャコールグレーのジャケットに、明るいベージュのパンツ姿は周りの目を惹いた。
「すいません、お待たせしてしまいましたか?」
「いいや、先にシェフに先日のお礼を言って外に出てきたから……。申し訳ないね」
「いいえ、お声を掛けて頂いて嬉しいです」
「少し訊ねたいことがあってね?」
「わたしにですか?」
「まあ、中に入ってからにしよう、さあ、どうぞ」
秀作は、好き嫌いが無いと言う早希子に、海鮮のサラダとタリアテッレ入り白インゲン豆のスープを頼み、腹ごしらえをした。
後はワインを選び、料理はシェフに任せた。
早希子は最初だけ緊張していたが、直ぐにリラックスして笑顔で秀作と話した。
「部長、わたしにお訊きになりたい事って?」
「谷川さん、退社すれば、君原でいいよ、うちの部ではそうだから」
「はい、そうさせて頂きます」
「二つ訊きたいことがあってね、一つは泉田さんのことだけど、受付で会ったんだけど、特に何も話しは無かったんだけど……?」
「おかしいですね、お話しされたのですか?」
「うん、挨拶だけね。こちらは別に困らないんだけど、彼女に何かあればと思って、ちょっと気になってね」
「深刻なことではないと思います」
「それならいいんだ。もう一つは先週のことなんだけど……。隅田くんから聞いたんだけど、西城くんが最後まで面倒を見てくれたとか?」
早希子の目は、問いかけるように秀作を見ていた。考えるようにしてから言った。
「あの、隅田さんは、それだけしかお話しになりませんでしたか?」
「うん、何かあったのかと思ってね。彼は少し話すのを躊躇しているようだったから、気になってね。折角、進藤さんと立川さんに楽しんでもらおうと思ってやったことだから、変なしこりとか、わだかまりが無ければ、それでいいんだよ……」
「それは心配ないと思います。逆に、西城さんと進藤さんは、凄く意気投合されていましたから。西城さんは、みんなを見送ってから、最後に進藤さんと一緒のタクシーで帰られたんです。それだけなんですけど……」
「そう、まあ若い独身のひと達ばかりだから、そんなことがあっても不思議ではないね、でも珍しいなぁ、研究ひと筋人間の西城くんが?」
「そうですか、とてもいい感じでしたよ。でも、呼んで頂いて、ほんとに楽しく過ごせました。会社に入ってから、初めて所属部外のひと達との飲み会でしたから」
「そう、みんなが楽しんでくれたのなら、それで良かった」
「ボーリング、西城さんは200点を超えましたよね、進藤さんも180点以上だったのには驚きました。わたしも結構自信があったんですけど……」
「西城くんは、大学のクラブで全国大会に出た選手だからね、見掛けでは分からないね、進藤さんもパワーがあったね、そうか、その辺で意気投合したのかな」
「多分、そうだと思います。わたしはいいカップルだと思いましたけど……」
「そう、話しは違うけど、泉田さんが、秘書課で受付というのは分かるんだけど、谷川さんは総務なのにどうして?、何かあるの?」
「ええ、きっかけは、泉田さんのお休みが多いからなんです、今日もモデルスクールへ行くからと言って、早退だったんです。わたしは最初はピンチヒッターだったんです」
「そういうこと……。じゃぁ谷川さんは、総務の仕事と兼務という事なんだね、大変だね」
「いいえ、いい気分転換にはなるんです。運動部でしたから、じっと長く座っているのも、少し苦痛を感じる方ですから」
「見掛けの話しをすると、谷川さんも、総務のタイプではないかも知れないね」
「そうですか、でも、母は喜んでいるんです。高校時代からバスケットばかりで、行儀も躾もなってないから、丁度いいって言うんです」
「それはないよ、なかなか素敵な受付だと、得意先からも聞いているよ」
「そうですか、君原さんはどう思われますか?」
「素敵な女性だと思うよ、本社の受付としても立派です……。後輩だから言うんじゃないよ……」
早希子は緊張が完全に解けて、スポーツウーマンらしく溌剌として会話をしていた。
「君原さん、吉岡さんは技術部におられたんですよね、どんなひとですか?」
「どんな?……、そうだね、愛社精神が旺盛でね、熱血漢、情熱的な青年かな」
「どうして、技術部から営業部に移籍を希望されたんですか?」
「愛社精神だろうね、研究開発を任せて、間もなくだったなぁ。こんなに素晴らしい機器をどうしてもっと売らないんだ、売れない筈が無いと言い出してね、それからは一途だった。技術部員なのに、販売戦略のレポートと一緒に、転属を進言してきたんだよ。部長会では全員一致で承認になった。前線に技術者がいるのは心強いからね。わたしも若い頃を思い出して、応援してあげたよ」
早希子は何度も肯きながら聴いていた。
「君原さんも営業部に居られたんですか?」
「わたしは会社の戦略で、派遣のような形で営業部に移ったから、希望ではなかった。前線に機器の詳細を知る者がいなくて困っていてね、機器を購入する相手はプロだから、質問されて答えられないようでは製品も売れない、それで移籍することに……。彼は自分から希望したんだよ、部門は変わったが、わたしはずっと見守ってあげようと思っているんだ、えこ贔屓ではなくてね」
「有望な社員ということですね?」
「君と同じだよ、明るくて元気だ……。そうだ、秘書課の泉田さんは、隅田くんと同期だったよね?、隅田くん達と飲みに行ったりはしていないんだろうか?」
「泉田さんは理想が高いですから、隅田さんはお金持ちの坊ちゃんですよね、泉田さんは隅田さんを気に入っているみたいですけど……。でも、隅田さんとは金曜日に初めてお話ししましたけど、そんな感じはなくて、とてもいいひとだと感じました、泉田さんには、合わないような気がしたんですけど……」
「そう、色々あるんだね?」
「そう云えば、吉岡さんはお父さんが亡くなられてから、母親一人に育てられたって話しておられましたけど、そんな風には見えませんよね?」
「そうだね、わたしも、今日、水原さんに聞いて知ったのだが、進藤さんや立川さんの会社は、吉岡くんのお母さんが社長らしいね、そう云うことを、彼の口から聞いたことは一度も無くてね、そう言う男なんだね」
「吉岡さんは、お母さんから聞いていないんじゃないですか、進藤さんたちが派遣で、うちの会社に来ていることを」
「そうかも知れないね、あの会社の社員は、躾もモラルもしっかり教育されていると、水原さんも話していたから、自分自身のけじめも、きちっとしておられるのだろう」
オリーブ風味の仔羊のローストを、骨をしゃぶる様にして、気持ちよく早希子は食べた。秀作の表情に笑みが浮かんでいた。
デザートにマチェドニアを頼んだ秀作に、早希子は、ティラミスでもいいかと言った。
秀作は笑顔で肯づいた。
平日に、急に早希子を誘ったので、秀作はタクシーを呼んでもらい、店の前で早希子を見送った。まだ八時を回ったばかりだった。

秀作が帰宅すると、ダイニングテーブルで、妻の美紀を前に長男の壮太が缶ビールを飲んでいた。
「お父さんお帰り、飲まない?」
「じゃぁ一缶だけ、少し飲んできたから、どうだ、営業は?」
「うん、まだまだ、製品の特性を完璧に理解できていないから、勉強中だよ」
「電子を出て医療機器販売だから、多少は理解し易いんじゃないか?」
「機器自体の性能は理解できるよ、でも医療現場での、機器の位置づけというか、要求されているポイントの重要性みたいなのが分かり難くて……」
「それが分かっていればいいんじゃないか?……。壮太は自分の会社の製品に誇りを持っているのかな?」
「勿論、会社を選ぶときから、調査して研究したからね、絶対いい会社だし、いい仕事をしているよ」
秀作は若い営業担当の壮太と吉岡賢一が、会社からも顧客からも、頼られる人間に育ってくれることを願いながら、ビールを飲んだ。
美紀が傍の椅子に腰掛けて、親子の会話を聞いていた。思い出したように立ち上がり、電話機の傍に行ってメモ紙を手にすると、席に戻って来てから言った。
「そう言えば貴方、今日の三時過ぎだったかしら、旧姓が田中美津子さんと云う方からお電話がありましたよ。中学時代のバスケット部の方らしいわ、わたしは覚えがない方よね?」
そう言うとメモ紙を秀作に手渡した。
「そう、この前、君と奈美が駅の百貨店に行った日なんだ、僕は大丸にカッターシャツを受取りに行っただろ、あの時に偶然、他の同級生と会ったんだ。その時に、同窓生が京都に何人か居るから、いちど会食でもと云う話しになったんだけどね。その話じゃなかったかい?」
「いいえ、また連絡をさせて頂きますと言われて」
「そうか、西さんというひとに、電話番号だけメモして渡したんだ、盆休みに同期会に帰っただろ、その人は御主人の家の法事もあって、一緒じゃなかったんだ」
「西さんて、中学時代に、凄く可愛いくて綺麗だった人ね、人気があったわね」
「そう、僕には高嶺の花だったね、一、二年は同じクラスだったけど、三年になって組が変わってから、急に大人っぽくなってね、それ以来だから、最初は見ても分からなくてね……」
少し顔を赤らめた壮太が言った。
「お父さんが、声を掛けたの?」
「いや、向うが喫茶コーナーの隅に座っていたお父さんの所に来たんだよ、近くで顔を見たら直ぐに分かった、顔に特長のある黒子があってね、それと遠目で見たときに、グリーンの万年筆で耳朶をつつく癖が抜けていなかった。癖って直らないものなんだな」
「お父さん、そのひと、今でも綺麗だった?」
「うん、素敵に年を重ねたって感じはしたなぁ、娘さんを自由奔放に育てたと云って、少し嘆いていたかな……。そう言えば奈美は?」
美紀が答えた。
「合コンだそうですよ、二十歳になってから、少し遊びが多くなりましたよ」
「周りは、もう就職が決まった友達ばかりじゃないのか?」
「ええ、奈美は専門学校に行きたいと言っているんですよ」
「何の専門学校なんだい?」
「貴方、怒らないでやって下さいね」
「怒らないよ、何をするにも短大だけで十分だとは思っていないよ。それで就職活動をしなかったのか?」
「そうなんですよ、桜井さんのお嬢さんに刺激されたみたいですよ」
「幸乃さんか、と云うこと、コンピューターか秘書の専門学校なのかい?」
「そうなんです、どうですか?」
壮太が言った。
「お父さん、奈美は特技がある訳じゃないから、僕はいいと思うけど」
「そうだな、躾や行儀は、君がよく教えた甲斐があって、わたしもいいと思うし、話し方も悪くはないから、いいんじゃないか。お父さんの職場に来ている派遣会社の女性も、コンピューター技能は抜群で、行儀のいいひと達なんだ。お父さんが社員にしたいと思うくらいにね」
美紀が言った。
「奈美が喜びますよ、お父さんはどう思うかしらって、とても気にしていましたからね」
「二十歳だよ、このごろの二十歳は、まだまだって気がするんだ。幸い我が社には大卒しか居ないけど、それでも、入社したての頃は、これからって感じの社員が多いからね、管理職は大変だよ」
「お父さんの会社の社員は、積極的なひとが多いの?。大人しいひととかは評価されないの?」
「いや、そんなことはないよ、技術部には、無口でこつこつやる人もいるよ、ただ、仕事に対する気持ちは、積極的でないと困るけどな……」
「幸乃さんは、大人しくて消極的な感じだけど、コンピューターと毛筆やペン字は抜群だよね、総務課らしいけど、淑やかで優しい感じだろ、営業マンとしては、ああいう女性に接客されると、何度でも訪問したくなるなぁ」
「壮太、お前、そんな程度の動機で訪問していたら商品は売れないぞ。心配だな、お前の上司の気持ちを考えると辛くなる……」
「お父さん、冗談だよ。でも、受付とかは会社の顔だろ、訪問して最初に会うひとが素敵な女性だと、イメージは上がるよね」
「それは言えるな、我が家でもそうだよ、娘の行儀がよければ、いい躾をしておられると言われるんだ、それは母親だったり父親だったり、家族全員の株が上がることになる、そうだろ?」
「その通りです部長」
「お前、帰ってから幾ら飲んだんだ?、週明けだぞ、大丈夫か?」
「父上、明日は代休なんですよ。土曜日に据付の立ち合いに出ただろ、それで」
「そうか、えらくのんびりしていると思った」
秀作は普通の家庭の父親より息子や娘の話しをよく聴くほうだと、妻の美紀は何時も、そう思いながら父親と子供達の話を聞いていた。
医療機器メーカーの営業をしている壮太は、個人病院の院長や家族の対応に不満を覚えて、我慢をして帰宅することも多かった。
秀作は父親としてより、上司としての観点から、それを聴いてやり、アドバイスをしてやった。
家庭での壮太との遣り取りは、自分の会社の部下の育成や管理の参考にしていた。
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