枳殻のささやき

稲葉真乎人

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05.予感

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隅田博司は、箕田早苗と本田弘恵を、顔見知りのクラブに連れて行った。
店に入ると、中年男性が二人と、白髪の会社重役のような男性の三人が、客としてコーナーのボックス席に居た。
クラブのママは、立ち上がると直ぐに、隅田と女性二人を、観葉植物で仕切られた奥のボックス席に案内した。
早苗も弘恵も、少し緊張していた。
ママが言った。
「いらっしゃいませ、どうぞ、気楽にして過ごして下さいね」
「ママ、少し食べてきましたから、おつまみは軽いので、お願いします」
「はい、承知しました」
そう言っている後ろから、ブラック.スーツに蝶ネクタイの青年が来て、コースターをテーブル並べた。
男性の持つトレーから、ママが、お絞りをひとりひとりに、広げて渡しながら言った。
「外は肌寒くありませんでした?」
弘恵が答えた。
「いえ、少し、お酒を飲んで温まっていましたから、でも、遅くなるとコートがないと寒いかもしれません」
「それじゃ、此処でも、少しお飲みになって、お帰りになるとよろしいわ」
「はい。温かいカクテルがありますか?」
ブラック.スーツの青年が、僅かな笑みを浮かべて頷いた。
早苗も同じものをと言った。
隅田は、スコッチをロックでと言った。
木の実や種の入った、ソーサー型のシャンパングラスをテーブルに置きながら、ママが言った。
「隅田さん、いつものチョコレートが入っていますよ」
「そうですか、今夜はラッキーだな、お願いします」
ゴディバのオランジェが、氷キューブの上に敷かれたキラキラ光る透明シートの上に載せられて出てきた。
隅田は、一度、父親に連れてこられたときに食べて気に入った。
オレンジピュールを被うビターチョコレートが、スコッチのロックに合うと思い込んでいた。
ホット.シャルトリューズとスコッチが来て、三人は軽く乾杯と言って、グラスに口を付けた。
隅田が勧めるゴディバのオランジェを、早苗も弘恵も珍しそうに口にして、美味しいと言った。隅田は笑顔で頷いて喜んでいた。
早苗が言った。
「初めて食べるチョコレートです、隅田さんは、いつもこんなのを食べているんですか?」
「まさか、そんな贅沢をしてないから、笹原さんが言ったのはオーバーだよ。箕田さんと同じだよ、親父が金を持っていても、僕は僕だから、只の会社員ですよ」
今度は早苗が訊いた。
「隅田さんは、よく、こういう店に来られるんですか?」
「そんなことはないって……。就職が決まった時と、僕の誕生日に一緒に飯を食べて、その後に、せがんで連れて来て貰ったくらいだよ。僕らには似合わないよ」
早苗が言った。
「今夜は、どうして此処に来ようと思ったんですか?」
「参ったなぁ、気分が良かったからかな、二人と一緒だから……」
「そうなんですか……。このカクテル美味しい、何がベースなのかしら?」
隅田が答えた。
「名前のままのリキュールだよ、シャルトリューズ.ヴェールにレモンジュースだったかなぁ……」
「よく知っているんですね」
「興味が湧くと掘り下げる癖があってね。でも、一貫性がないんだな、ちょこちょこと興味があるだけでね」
早苗が言った。
「女性も同じですか?」
「意外だな。二人とも、結構、突っ込むんだ。それはないよ、多分、一途なタイプだと思う、君原部長を見習ってね」
「君原部長は、そんなに、好い上司なんですか、噂でしか知らないんですけど?」
「うん、部下の成長を常に考えてくれている、そんな感じがするね」
「隅田さんは、秘書課の泉田さんとお付き合いがあるんですか?」
弘恵が訊くと、早苗も興味深そうに隅田の顔を見て、返事を待った。
「ほんとにそんな噂がもっともらしく流れているのか?……。全然ないよ。一緒に行動したことも話したこともないんだから。本人が、何か言っているの?」
早苗が言った。
「ええ、総務部の女性が集まると、隅田さんは、わたしのタイプなのって、話しておられますよ。隅田さんは、どう思っておられるんですか?」
「さっきの店で言った通りだよ。真面目に仕事をしない女性は嫌いだよ、古めかしいけど、行儀の悪いひとは嫌いなんだ。学生時代にミスコンに入賞したからって、それが何だよ。しかも、腰掛って最初から分かっていて入社させる会社も、おかしいと思うよ」
「でも、美人で、お金持ちなんですよ」
「それだけだろ?、全然、魅力を感じないよ、ねぇ箕田さん……」
「えっ、わたしは、入社したばかりですから、よく泉田さんを知らないんです、社内の噂だけで……」
「噂か、できれば、いい噂で話題に乗りたいな。それより、箕田さんは吉岡さんと席が近いの?」
「いえ、わたしは営業課で一階ですけど、吉岡さんは営業本部の業務ですから、二階におられます」
「吉岡さんは、いいひとだよね、もとは技術部だったんだけど。僕が名古屋の技術センターに派遣応援で行っている間に移籍されたんだ。君原部長からは、吉岡さんのいい噂しか聞いていないけど、営業部ではどうなの?」
「ええ、男性社員にも女性社員にも人気がありますよ。吉岡さんは君原部長が目標なんですよね、部の懇親会のときに聞いたことがあります」
「そうみたいだな。君原部長は男女に関係なく、優しく見守ってくれる感じがするけど、吉岡さんもそうなのかなぁ?」
弘恵が言った。
「隅田さんは、吉岡さんに興味があるんですか?」
「いや、そう云う訳じゃないけど、今回、準備委員会で仕事以外の一面を身近に見ていて、何処から、あんなに女性に優しい気遣いができるのかなと思ってね」
早苗が言った。
「女性社員の噂で聞いたんですけど、吉岡さんは、中学生の頃にお父さんを亡くされて、お母さんと二人らしいんです。お母さんが事業を興されて、吉岡さんを大学まで行かせたって、だから、お母さんに優しくされているんじゃないですか、それで、女性にも優しいんじゃないかと思うんですけど……」
「そう思う箕田さんも、優しいんだね、きっと」
「いいえ、いつも、じっと見ている方ですから……。なかなか自分から、ひとに親切を買って出る勇気がなくて……」
「同じお嬢さんでも、ほんとに泉田さんの噂とは違うんだね」
「隅田さん、お嬢さんじゃないって言ったでしょ?。家の父も母も、近所のひと達から、わたしがその呼ばれ方をされると、嫌うんです」
隅田が言う。
「でも、笹原さんが言ておられたように、お父さんはマンションを持っておられて、お金持ちには違いないんだから、お嬢さんと呼ばれても、別にいいんじゃないのかなぁ?」
「マンションのお仕事は、祖父から受け継いだだけなんですよ。父は、以前は高校の先生だったんです。教え子のひと達から、とても人気があったんです。わたしも母も、父が先生だった頃と同じように生活しているんです。本当は、母もわたしも、父には、ずっと先生をしていて欲しかったんです」
カクテルのせいか、早苗は饒舌になっていた。
隅田が言った。
「御両親は偉いなぁ、箕田さんが泉田さんと違っていて当然なんだ。でも、本当の意味で、お嬢さんだよ。いいなぁ……」
弘恵は、歳下の早苗を素敵だと思いながら、隅田の視線が、早苗に注がれるのを見ていた。
カクテル一杯だけで店を出た。
弘恵と早苗が店の表で待っていると、隅田が出てきた、後ろからママが付いて来ていた。
「お父様で宜しいんですよ、伺っておりますから」
「いえ、今夜は僕のお客さんですから、取っておいて下さい、ご馳走様でした。お休みなさい……」
弘恵と早苗も「ご馳走様でした」と、お辞儀をした。
歩きながら、改めて弘恵と早苗は、隅田にお礼を言った。
早苗は、クラブの支払いを自分でした隅田の態度を、じっと見ていた。
笹原に、お金持ちの坊ちゃんと言われた隅田に対して、その時に持った先入観を打ち消した。
晩秋の風が、葉の落ちた街路樹を撫でて行った。
三人の温まった心に、風が気持ちよかった。

秀作が、金曜日の部長会の懇親会を終えて、帰宅したのは九時過ぎだった。
帰宅すると、妻の美紀が着替えを手伝いながら言った。
「八時過ぎに桜井さんから電話がありましたよ、お帰りになったら、遅くてもいいから電話を下さいって」
「なにかな?、ゴルフの練習でも付き合えっていうのかな……」
「何か、申し訳ないから、直接お話しをしますってね仰ってましたよ……」
着替えを済ましてから、秀作は大学時代からの親友で、家具販売会社の専務をしている桜井雄一に電話をした。
電話を終えて居間に来ると、美紀に言った。
「壮太と奈美は戻っているのかい?」
「ええ、二人とも週末なのに、珍しく早かったんですよ。部屋に居ますけど、桜井さんのお電話と、何か関係があるんですか?」
「うん、ちょっと呼んでくれるかな?」
壮太と奈美が、揃って「お帰り」と言いながら居間に来た。
壮太が美紀に言った。
「お母さん、コーヒー、まだ残っているかなぁ」
「三人分くらいなら、残っているわよ」
「じゃぁ、お父さんも飲む?」
「出し置きのやつは嫌だなぁ……」
奈美が言った。
「わたしも同じ、新しく淹れるわ、お母さんは?」
「じゃぁ、頂くわ、この前、貴女が買って来たマドレーヌがあるわよ」
壮太が言った。
「じゃぁ、僕も新しい方を飲むよ。それより何なの、お父さん?」
「お母さん、君も聞いてくれるか、桜井くんが幸乃さんの誕生会をするって言うんだが、二人じゃ間が持たないし、みんなで来てくれないかって……。明日の昼を兼ねて、バーベキューをする予定らしい、もう、我が家の家族の分も準備しているって言うんだ。壮太も奈美も、予定はどうかな、返事をしてやらないと……」
「お父さん、わたしは行くわ、幸乃さんに会いたいから。でも、プレゼントとか、どうするかなぁ」
「それは、後で考えよう、壮太は?」
「いいよ、頼んでいる本を取りに行くけど、昼なら大丈夫だよ。太秦の自宅でやるんだろ?」
「そうか、じゃぁ、取り敢えずみんなで行くと、返事をしておくぞ」
秀作は桜井に電話を入れて、居間に戻った。
美紀が訊いた。
「ねえ、どうして誕生会を?、特別なことがあるのかしら……」
「いや、はっきりとは言わなかったが、幸乃さんが精神的に疲れているみたいだな、少しでも元気付けようと考えたんじゃないのかな?」
壮太が言った。
「そうか、就職して三年目くらいだよね、幸乃さん、大人しいからな……」
美紀が言った。
「それと、お母さんを亡くしてから、学生時代はともかく、就職して会社と家事を、ひとりでやっているんだもの、大変だと思うわ」
秀作が言った。
「そうだな、あいつは強がりを言っているけど、再婚も考えた方がいいよな。幸乃さんの将来のためにも」
奈美が言った。
「いっそ、幸乃さんが結婚して、家を出れば良いのかも知れないわね?」
壮太が言った。
「二十四だぞ、決まった好い彼が居れば別だけど、奈美だったらできるか?」
「二十四か……、できないわね、これからだもん」
「そうだろ。それなら、お父さんが言うように、桜井の小父さんが後妻を迎える方が、将来的にもいいんじゃないか?……、小父さんは役員になるかも知れないけど、老後は長いよ。それに幸乃さんが嫁に行ったら、独りでどうするんだよ?」
「そうだよね。お父さん、小父さんにお嫁さんを探して上げたらどうかなぁ……」
秀作は奈美のことばを聞いて、親友のために真剣に考えてやろうと思った。
奈美が言った。
「ねぇ、お祝いを持って行かないと?……、手ぶらじゃダメでしょ?」
美紀が言った。
「いい考えがあるわ、奈美には似合わないけど、幸乃さんに似合いそうなお着物があるわ、それを差し上げるのはどうかしら……」
壮太が言った。
「グッドアイデア、お母さん、それいいよ。幸乃さんは、もう自分のお母さんから、そういう物を貰う機会はないんだから、幸乃さんのお母さんの代わりに上げるのは、いいと思うよ。ねぇお父さん」
奈美が言った。
「わたしも、いいと思うわ。わたしはいかり肩だし、着物はあまり似合わないから、そうしようよ。君原家からという事で、いいんじゃない?」
秀作も言った。
「いいねぇ、それで行こう、じゃぁ、早速、準備をした方がいいな……」
美紀が言った。
「ちょうど、冬物を先週、整理した処なの、若い頃の着物を出して見ていたのよ、奈美のお正月の普段着用に、どれがいいかと思って……」
壮太が言った。
「ほんとに、いいタイミングだね。お母さん、帯は?」
「それも大丈夫、探せば、合うのがあると思うわ」
壮太が言った。
「奈美、お母さんを手伝って、帯を選んで上げたらいいよ。お姉さんみたいに思っているんだろ?、わたしが選んだって言えば、幸乃さんも喜んでくれるよ」
「そうね、これを飲んだら手伝うわよ、お母さん」
家族全員が、安堵した表情でマドレーヌに手を伸ばした。
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