トパースのバレッタ

稲葉真乎人

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様々な人生

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秋も深まった頃、大谷幸範が、退社の意向を会社に伝える。
開発営業課では、R&D社との顔合わせの日時が決定し、担当者のシフト変更を細かく検討している処だった。
大谷は賞与を手にして、年内で退社し、トーマス製作所に転職することになった経緯を河野に話した。
大谷は、トーマス製作所の富枡社長から、娘の紀華の婿として来てほしいと言われ、自分も紀華に対して好意を思っていたので喜んで受けたと河野に話した。
河野は、大谷に本当のことを伝えなければ、今後、婿として頭の上がらない人生を送るのではないかと危惧し、大谷に富枡社長の真意を伝えることにした。
「大谷くん、辞意は、そのまま受け取る。わたしも多少の情報は得ていた。君には話していなかったが、富枡社長から申し入れがあったんだ。富枡さんは君の大学の大先輩だと言うことは知っていたのか?」
「いえ、そうなんですか?、知りませんでした」
「富枡さんは経営者と言うより研究者と言った感じがするだろ?、大学院でも優秀なひとだったらしい。同僚で親友だったひとが、教授で母校に残っておられる、今でも、よく技術的な相談をされたり飲んだりされているそうだ」
「そうなんですか、社長からは全く聞いたことはないです」
「わたしもお会いしたが、思慮深いひとのようだし、口数の多いひとではないようだ。その社長が申し入れに来られたのは、余程の決心だったと思うよ」
「富枡社長は、何と話されたのですか?」
「うん、トーマス製作所の規模では優秀な人材が集まらないだろ。親友の教授に相談をされていた処に、偶然、君の名前が出たそうだ。教授は、君が営業職に就いたことを憂いておられたらしい。富枡さんは、教授から大谷くんの大学時代の研究テーマを聞いて興味を持たれた。娘さんのことも承知はしておられたが、本心はきみのロボット研究者としての能力に期待をされて、君を招きたいと申し入れてこられたんだよ」
「それじゃあ、紀華さんの婿としてではなくて?」
「そうだ。富枡さんにしてみれば、娘さんも君を気に入っていると知って、好都合だったのかも知れないな……。つまり、君は、娘さんに惚れたことを弱みに思わないでも良いと言うことだ。それを伝えておこうと思って話したんだ。恐らく、時間を置いてから、富枡さんも君に、そう話されると思う……」
「ありがとうございます。会社にも、みんなにも迷惑をおかけすることになってしまって、申し訳ありません」
「いや、総務課長とも話した。君の人生を当社の都合で歪めたくはないし。君の能力を社会に活かすのも、当社の社是にある、ひとを育て、ひとの役に立つと云うことと合致する。ひとの役に立たない企業では存続する意味がないからな……」
「植田くんに引き継ぎをしていますけど、彼なら僕以上にやってくれると思います。彼にも最近、好きなひとができたみたいですけど、僕のように会社を辞めることはないと思いますので、宜しくお願いします」
「そうか、それは初耳だな。うちの課員は前途ある若者ばかりだ、当然の成り行きだな。恋のひとつもできないようでは、人の気持ちを理解するのも難しいだろ。いいんじゃないのかな……」

大谷幸範は、誰が見ても、第一印象で営業マンタイプだとは思わない。物静かでクールな印象を与える顔立ちと、長身で細身の身体にはスーツより白衣の方が似合う。
松森真一郎は明るくて社交的だが、大谷と同じ技術系の人間で、大学時代は電子工学科の優秀な学生だった。
技術系の部下の中で、河野は松森を貴重な存在として位置付けている。技術に長けていながら潜在的に、ひとの懐に飛び込める能力を身に付けているからだ。
会社は、営業部門向けの人材として、技術系で外国語が自在に使える学生をターゲットに求人をしている。
英語やドイツ語の読み書きができても、会話に困らない学生となると人材は限られていた。社員の中に海外居住経験や、留学経験のある者が多いのは、それに起因している。
開発営業課として、大谷を失うことは痛手である。
優秀な社員は、何時でも引き抜きの対象になっており、過去にも多くの人材が流出しているのだ。
河野は管理者として、部下が結婚をして会社に落ち着いてくれることを歓迎していた。大谷に続いて松森を失うことは考えたくもない。プライベートなことだとは云う、松森に恋人が出来たというニュースは全く問題ではない。
「大谷くん。君を失うのは残念だが、富枡社長の人格や信条を考えれば、君を送り出すことが君自身にとっても社会にとっても良いことだと思う。当社は懐の深い会社だと思うよ。海外の事業所に勤める社員が、現地の人たちからも評価を受けているのは、その辺りだと思うんだ。トーマス製作所とは、これからも縁が途切れる訳じゃない。君の大学の後輩で、良い人材がいれば是非、当社を推薦してくれ。これが君を手放す条件かな……」
「分かりました。ありがとうございます。こんな形で会社を去るとは思ってもいませんでした。富枡社長の娘さんとの結婚は夢見ていましたけど……、片思いだと思っていましたから……」
「縁だよ。富枡さんが君の大学の大先輩だったことも、君と娘さんが好き合うようになったことも、君の担当教授が富枡さんの親友だったことも、みんな君にとっては良い縁だと言うことだ。君の人徳なんだろう……」

R&D社のことを北丘と西野に任せた修也は、進めていた運送会社の貨物仕訳システムの受注に向けて山場を迎えていた。
本社製造部門の設計担当者を連れて現地調査を実施し、担当者を新大阪駅で見送ると、会社には戻らず、久しぶりにフラーゴラに足を向ける。
フラーゴラは若い女性客でテーブルが埋まり、静かな雰囲気の中にも、華やかな気配が漂っていた。
「あら、いらっしゃい。牧野さん久しぶりね、どうぞ、カウンターがいいかしら?」
ホール担当の新庄久子が迎えてくれる。厨房からも声が掛かる。
「いらっしゃいませ。今日はおひとりですか?」
見習コックの君野良則だった。
「こんばんわ、この処、忙しくてね。なかなか此処が遠かったんですよ。今日は先輩は?」
「ちょっとね、伊丹空港。もう少しすれば戻ってくるわ」
「何処かに行っておられたんですか?」
「違うわよ。見送りに行ってもらったの……」
「久子さんの知り合いの方でも?」
厨房から出来上がった料理を持って、君野が出てきた。
「久子さん、これ、お願いします」
「はい」
久子が女性客のテーブルに向かうと君野が言った。
「牧野さん、やっと区切りをつけられるそうですよ」
「うん?、何のこと?」
「シェフと久子さんですよ」
「えっ!、結婚するの?」
「そうですよ、まだまだ独身で一生を過ごす年齢じゃないでしょ」
「そりゃそうだけど……。ふーん、やっぱり、そう云う関係だったんだ」
「それ以外に、ないでしょう?」
「まあ、確かにね。ずっと友情なんて変だもんね……」
「牧野さんは、その後、どうなんですか?」
そのとき耳元で久子の声がした。
「君野くん、カッチュッコが二つと、仔牛の野菜添えとエスカロッピーニが、それぞれ一つ。それとガーリックトースト.トマト乗せを四人分お願いね?」
「はい。牧野さん、後で教えてくださいよ?」
君野は久子の注文を繰り返して厨房に戻る。
「牧野さん、注文は何にするの?」
「特製リガトーニを。それとルフィーノ.オルヴィエート.クラッシコをボトルでお願いします。お腹が空いているので、先ずは食べてから次の料理を考えます」
「分かりました」
「急ぎませんから、先にアルバローザを作ってもらえますか?、駅から歩いて来たから、喉が渇いて……」
「いいですよ、わたしが作ってあげるわね」
久子がカウンターの中に入って、アルバローザを作り、ステアしながら言った。
「ねえ。君野くんと、何を話していたの?」
「僕の女性関係を訊かれていたんですよ、その後、何か変化はないのかって?、それより、久子さんの方から話して下さいよ?」
「何を?……、ああ、シェフとのことね。そうなの、わたしの父を伊丹空港に送って行ってくれているのよ。本厄が明けたから、けじめをつけようと言ってくれてね。わたしの両親に話したら、父が仕事のついでで大阪に行くからと言って、時間を取ってくれたの」
「反対じゃないんでしょ?」
「どうかしら、わたしはまだ聞いていないのよ。はい、どうぞ……」
修也はアルバローザを一気に半分ほど飲んだ。
「君野くんじゃないけど、牧野くんは、その後どうなの?」
「特に変化はないですね」
「あの、この前、話していたひとは?」
「ああ、会いました。実は、会社の後輩の友人だったんです。それで後輩が段取りをつけてくれて……」
「そう。それで、どうなの?」
「それが、彼女の会社と、仕事の関係で新しく取引をすることになって、何となく近づき難い雰囲気になっているんですよ」
「あら、そんなことがあるのね?、でも、縁なんじゃないの?」
「そうとも言えますけど、逆に縁がないのかも知れないでしょ?、折角近づきになったのに簡単に会えないんですから……」
「お仕事とプライベートは別でしょ。牧野さんが担当しているの?」
「いえ、その後輩が担当をしているんですけど、外資系の会社で、どんな社風か分からないでしょ?、商談の妨げになってはいけないし……」
「考え過ぎじゃないかしら?」
「そうですかね。でも、そんなに親密な関係じゃないし……」
「嫌いなタイプじゃないんでしょ、以前から姿を見ていたくらいなんだから」
「そうですけど、ちょっと引っかかる処があるんで……」
「あら、それは問題ね。でも、そんなに何度も会った訳じゃないんでしょ?」
「二回です」
「たった二回のデートで、何か気になることが出てきたの?」
「ファッションです。僕が彼女の姿を見るようになってから、彼女がスカートを穿いているのを見たのは、ほんの数回なんですよ。ほとんどがパンツ.スーツかパンツにジャケットなんです。スカートのときは喪服だったんじゃないかな……」
「それは好き好きでしょ。自分に似合っていると思って、そうしているのかも知れないでしょ?」
「訊いたんです。簡単に答えてくれなかったんですよ。変だと思いませんか?」
「話せないって、おっしゃったの?」
「いえ、また何時か、別の日に話すと……」
「じゃぁ、気にしないでいいんじゃない?、話せない理由じゃないのよ、そんなこと、どうと言うことはないわよ」
「そうですね。それだけです」
「そっけないのね。ぐずぐすしていたら後輩に抜かれてしまいますよ……」
「えーっ、それは言わないでください?」
「知らないの?、松森くんと昌子ちゃん、この頃、好い感じなのよ……」
「ほんとですか?」
「松森くんは、人の懐に飛び込むのが上手だわよ。営業で培ったのか、生まれ持ったものなのか知らないけど……。昌子ちゃんも楽しそうなの」
「そう言えば、手伝いには来ていないんですか?」
「忙しいんじゃないのかしら。松森くん、お仕事も大変だって話していたし、デートの時間を作るのに手一杯だと思うわ」
「へぇーっ。やるなぁ……」
「だから。牧野さんも、その彼女としっかりやりなさいよ?」
「いや、まだまだですよ。いいなあ、シェフも松森くんも……。今夜は悪酔いしそうですよ。仕事は順調なのに……」
「あら、そうだったの。でも、お仕事は大切よ。しっかりね」
君野が厨房から顔を出し、貝や海老の頭が見えるカッチュッコ(魚介類の煮込み)を二皿、カウンターに載せた。
久子は修也の注文を君野に伝えて、皿をテーブルに運んで行った。
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