トパースのバレッタ

稲葉真乎人

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状況変化

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大谷幸範の退社が正式に決まり、年末年始の休みが明けると、新年早々から開拓営業課は多忙を極めることになった。
担当業務のシフト変更による引き継ぎもあれば、R&D社との契約は急速な進展を見せて、早くも具体的な商談の段階に入っていた。
北丘と西野は予想外の仕事の多さに戸惑い、山のような英文契約書のチェックと交渉に明け暮れ、西野は近々ヴェトナムへ出張する予定が組まれている。
修也も、運送会社の全国拠点に展開する大規模なシステムの受注を目前にして、退社時刻も遅くなる日々が続いていた。
修也が早朝に出勤すると北丘と西野は既にミーティング・コーナーに席を移して、書類を前にして話し合っていた。
河野のデスクのデスクトップは開かれており、出勤していることが窺える。
修也がパソコンを立ち上げている処に河野が姿を見せる。
「おはよう。北丘くんと牧野くん、ちょっと打ち合わせ室に……。時間は取らせない」
修也は北丘と顔を見合わせると、河野の後に従った。
第三営業所から第一営業所の前を通ると、課長と主任は全員、席でパソコンを見ている。
「掛けてくれ。先ずは、この処、忙しい毎日が続いているけど、身体には気を付けてくれよ、休めるときには思い切って休んでくれ。植田くんと松森くんには、気を遣ってやってくれ、自分でブレーキが掛けられない筈だからな。それと、西野くんには海外出張があるから、無理はさせるな。北丘くんに負荷が掛かるが、宜しく頼む。牧野くんは、必要であれば本社の営業部から応援を呼ぶから、その時は申し出てくれ。……さてと……。川西弓子と水谷昌子のふたりだが、基本的には若い人材を本採用にと云うことで、水谷さんが本採用になりそうだ。派遣社員については、一部を除いて契約を打ち切ることになった。西城さんの後継を川西さんと考えていたのだが、残念ながら、そう云うことになった。それから、二月から中部支店の開拓営業課から一名転勤してくることになった。奈良出身で神奈川の大学の機械工学科を出た、光田実男くん、大谷くんより二歳年上だが、大学卒業は同じ年で、大谷くんと同期入社年だ。小学校の四年から高校二年までブラジルに在住していた人物だ。英語とポルトガル語に長けているそうだが、中国語も普通に話しが出来るらしい。自動車製造会社の関連会社担当で、中国の現地工場にもしょっちゅう出張をしていたらしい。本人の関西勤務希望もあって決定した。以上だ、何か質問はあるか?」
北丘が訊く。
「川西さん達には、何時、伝えるんですか?」
「三月末で契約が終了する件に関しては、今期に入る前に派遣会社には連絡が行っている。本採用切り替えの件に関しても、各個人の意思確認は済んでいるから、明日には本採用切り替えの候補者名簿が届けられて、近日中には個人別に話しがある筈だ。会社間の契約だから、我々の側から本人に伝えることもない。川西さんも水谷さんも派遣会社から連絡を受けて、彼女たちが受けるか否かの回答をしてからの話しだからな」
修也が言う。
「水谷さんは本採用を受けると思いますが、川西さんのことを考えると複雑でしょうね?」
「仕方がないな。経理で一名、総務で一名、営業部で一名だ。本採用は派遣社員六名の半数と決まっていたから、営業部で二名は無理な話しだ、やむを得ないな」
「川西さんが、そのつもりで引き継いでいましたから、これから水谷さんの方が大変かも知れませんね?」
「そうだな、川西さんは物分かりのいい女性だし、礼儀もわきまえていて頭も良い。
他所に派遣になっても重宝されるだろう。その点では水谷さんは新人と同じだからな、やっと我が社の雰囲気に慣れてきた処だ……」
北丘が言う。
「送別会は大谷くんと西城さんと川西さん、三人一緒でいいですよね?、水谷さんが居辛いかな……」
修也が言う。
「いいんじゃないですか、西城さんはふたりに優しかったし、川西さんは水谷さんを可愛がっていたから、ふたりの関係は大丈夫だと思いますよ」
河野も言った。
「そうだな。三人とも今時、良くできた娘さんだと、わたしも思っていた。牧野くんの言うような形でいいだろ。北丘くん、足りずはわたしが持つから、君が音頭を取ってくれるか?、早い方がいいぞ、西野くんが海外出張となれば、もっと忙しくなるからな」
「分かりました、それで進めます」
「じゃ、以上だ。くれぐれも、みんなの健康には気を配ってくれよ……」
「分かりました、失礼します」
河野は上階の総務に行くと言って、踊り場で別れた。
北丘が修也に言った。
「牧野くん、一度、川西さんが居なくなる前に、食事でも誘ってやってくれないか?」
「はっ?」
「君は、どう思っているか知らないが、彼女は君のファンなんだ。ワイフと六甲山に行ったときに、西城さんと川西さんを誘ったことがあってなあ。ワイフと話していたときに、ポロッと話したそうなんだ。派遣が打ち切りになれば、もう会えなくなるだろ……」
「分かりました。誘ってみます。ありがとうございます」
「礼を言われることでもないよ。実は、随分前からワイフに言われていたんだよ。君に話すタイミングが難しくて……」

修也は、本社製造部や技術部との電話交渉を終え、自販機コーナーでプラスチック製の椅子に座り、コーヒーを飲みながらリラックスして窓の外を眺めていた。
何となく気持ちが軽やかなのは、川西弓子の気持ちを北丘から聞いたからだと気づいていた。
二年前、派遣社員選出の面接には総務課長と河野と共に、北丘と一緒に修也も同席したことを思い出していた。
手渡された資料で印象に残っていたことがあった。
川西弓子、23歳。普通高校卒業後、ビジネス専門学校とコンピューター専門学校を卒業。各種資格に加えて記されていた、調理師免許が修也の目にとまった。
人材派遣要求の項目とは関係ないが、母の百合が料理教室を開いていることもあって興味を覚えたのだった。
大人しくて物静かな話し方をする弓子に、課のみんなが好感を持っていた。
カラーリングをしてない艶やかな黒髪に、いつも綺麗な髪飾りかリボンを付けている。それがトレードマークになっていた。
高校時代はバドミントンの選手だと聞いていたが、とてもスポーツをするようなタイプには見えない。それらしく思えるのは、女らしい淑やかな動きや歩く姿の中に、バランスのとれた、切れの良さが感じられることだった。
修也は、弓子が派遣会社から来ている人という意識が強く、社員でもない女性と、仕事以外の理由で接触を持つことは良くないことだと捉えていた。
北丘からの意外な言葉が、修也が初対面の時に抱いた、弓子に対する感情を呼び起こした。

数日後、修也は課長の河野から意外なことを聞かされる。
修也が出かけようとしているときだった。エレベーターホールで河野に呼び止められた。
「NYロジスティックスへ行くのか?、いよいよ大詰めだな?」
「はい、今期中には成約に持ち込む予定です」
「そうだ、西川さんだけどな、本人は本採用を断っていたらしいんだよ。だから水谷さんで正解だった訳だ。送別会に気を遣う必要はないってことだから、北丘くんにも伝えておいてくれ」
「そうなんですか。意外でしたね?」
「ああ、こっちが勝手に本採用を望んでいると思いこんでいたと言うことだな。軽率な判断だった。下手をしたら、ひとりも残せなかったかも知れないからな……」
「そうですね。じゃぁ行ってきます」
「気を付けて行けよ……」

週末。修也は会社に戻る前に開拓営業課に電話を入れた。電話には西城美紀が出たが、川西弓子に代わってもらった。
「川西さん、終業後、予定がなかったら、ちょっと付き合ってくれないかな?」
「予定はありませんけど……」
「じゃあ、川西さんは京阪電車だったよね、淀屋橋のミズノの前で六時半なら行けるかな?」
「大丈夫です」
「じゃあ、そうしよう。松森くんが帰っていたら、代わってくれる?」
「はい」
修也は弓子の声が嬉しそうなのに気づいた。
「お疲れさまです。松森です、何か?」
「ああ、ごくろうさん。八時過ぎにフラーゴラに行かないか?」
「あーっと……、いいですよ。八時過ぎですね?」
「うん、そのときに、悪いけど西野くんを誘ってくれないか?、彼と二人でヴェトナム出張の壮行会をする約束をしているんだ。フラーゴラはみんなに知られたくないから、そのつもりで彼を連れていってくれるか」
「分かりました。戻っておられますから、上手く伝えて案内します」
「それじゃ、頼んだよ。もう終業時刻だから、僕は直帰にするから、北丘さんに伝えてくれ、宜しく」
「了解です。お疲れさまです」

川西弓子は、地下鉄御堂筋線の淀屋橋から京阪本線に乗り換えて枚方市から通って来ている。
新大阪から淀屋橋駅までは9分、淀屋橋駅から枚方市駅までは21分、乗り換え時間を見ても35分の通勤時間である。
週末の突然の誘いで、彼女の帰宅時刻を遅らせるのは忍びなかった。
弓子は6時半前には約束の場所に来ていた。
修也が少し遅れて行くと、姿を見た弓子は笑顔で迎えた。
修也は直ぐ近くのビルの地下にある喫茶店に弓子を誘った。
「ごめんね、急に誘ったりして・・・」
「いいえ、驚きましたけど、嬉しかったです」
「課長から聞いたけど、本採用を断っていたとは知らなかった」
「色々と都合がありますから」
「そう、ずっと居るものだと思っていたから、急いで誘うこともないと思っていたんだけど、居なくなると聞いたら、声をかけなくてはと思ってね」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「急に誘ったから、僕も西野くんと約束をしているので、あまり時間がなくて・・・」
修也はバッグから駅前の百貨店で買った小さな手提げの紙袋を取り出す。
「川西さん、11月が誕生日だったよね、これ、僕からの餞別、受けっとってくれるかな・・・」
「いいんですか?」
「いいから、開けて見て・・・」
弓子は紙袋を畳んでから四角い包装紙の包を丁寧に広げていく。
トパーズを嵌め込んだ髪飾りだった。修也は弓子に電話をした後、百貨店に飛び込んで、店員に11月の誕生石の付いた髪飾りを頼んで選んだ。
「いいんですか、あぁ、素敵ですね。あの、これ、わたしの誕生石ですけど、知っておられたんですか?」
「うん、それから、もし良かったら、このカードを受け取ってもらえるかな?」
修也が差し出したカードにはプライベートの携帯電話番号とメールアドレスが記されていた。
弓子はカードを受け取ると、両手で持って修也を見詰めた。
髪飾りのケースの上に置くと、バッグから手帳を取り出して、メモを書くと修也に手渡した。
弓子の携帯番号とアドレスが記されていた。
「ありがとう。今日はゆっくりできないけど、ひとつだけ伝えておきたいことがあるから・・・。川西さんの面接のとき、凄く興味を持ったことがあって、ずっと気にしていたんだ」
「何かありました?」
「僕の母親は料理教室を長くやっているんだ、それで、派遣会社の紹介票に書かれていた会社とは関係のない調理師免許のことが印象に残っていて、何時か話してみたいと思って・・・。でも、今日はいいよ、また、改めて聞く機会を作ってもらえるかな?」
「いいです。何時でも・・・連絡を待っています」
「良かった、今日、会いたかったのは、それだけ。川西さんはいつも規則正しく家に帰っているから、僕も約束をしてしまっているし、今日はこれでいいかな?」
「気を遣ってもらって、ありがとうございます。とても嬉しくて、何か夢を見ているみたいな気持です・・・」
「もう少し、同じ職場で仕事をするし、もし良かったら川西さんから連絡をしてもらっても構わないから・・・」
「でも、巻きのさんは忙しいときでしょ?」
「もう山場は過ぎたから、大丈夫・・・」
「そうですか、それじゃあ、そうするかも知れませんよ。それと、これ、本当にありがとうございます。男のひとからプレゼントなんて、小学生の頃にあったくらいで、ずっとなかったから・・・。とっても嬉しいです・・・」
「気に入ってもらえると僕も嬉しいよ、似合うといいけど・・・」
「会社に付けて行ってもいいですか?」
「誰も知らないからいいけど、そんなことをするの?」
「駄目ですか?」
「いや、僕にとっては、ちょっとびっくり発言だな・・・」
二人は喫茶店に30分も居なかったが、お互いに満足そうな表情で別れの挨拶をして別れた。
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