トパースのバレッタ

稲葉真乎人

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予感

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川西弓子と別れ、修也は新大阪に向かう電車の、混み合う乗客の中に居た。
ほんの一時間ほど前、帰宅ラッシュが始まる梅田界隈の雑踏の中で、少年時代から今まで一度もやったことのない行動をとっている自分が居た・・・。
一人の女性のためにプレゼントを思いつき、買い求めている自分の姿が、今になって鮮明に映像として頭の中に思い浮かぶ……。しかも、躊躇することなく百貨店の女性にプレゼントの相談をしていた。
普段の自分なら、弓子から何か邪推されるのではないか、柄でもないと思われるのではないか等と、思いを巡らせ躊躇していた筈なのだが、そんな姿の自分は思い浮かばない……。
ラッシュの車中で、見知らぬ乗客に圧し付けられながら、普段なら何も考えずに耐えている自分が、今は弓子の嬉しそうな笑顔を思い浮かべて、笑顔になりそうな自分に堪えている……。

大阪駅からひと駅の新大阪駅まで、たった5分の時間が長くも短くも感じられた。
新大阪駅で下車する客から、押し出されるようにホームに出た修也は、我に帰りフラーゴラに向かう。
フラーゴラのドアを開けると、カウンター席に西野が座っていた。
西野は椅子を下りて修也を迎える。
「お疲れさまです」
「悪いね、急に松森くんに頼んだりして。彼は?」
久子が口を挟む。
「お帰りなさい。松森くんはデートみたいですよ。牧野さんに宜しく伝えておいて下さいって……」
「そうですか。悪いことをしたな、急に西野くんの案内を頼んだりして・……」
「牧野さん、急に何かあったんですか?」
「うん、ちょっとね。後で話すよ。久子さん、西野くんは、来週ヴェトナムに出張なんですよ、それで今夜は壮行会です。ひとりじゃ格好付かないから松森くんを誘ったつもりだったのに、デートじゃ野暮なことをしたってことか、週末だからな……」
「そうよ、牧野さんとは違うわね?、お相手が男性だから……」
「紹介します。同じ課の後輩の西野くんです。間もなく結婚を控えているんですよ」
「松森くんから紹介して頂いたわ。さあ、テーブルの方に移って下さい」
「はい、じゃあ、今日はスペシャルコースでお願いします。ワインはお任せしますので……」
「はい、承知しました」
厨房からシェフの川添が顔を出す。
「いらっしゃい。何時もより、ちょっと遅いじゃないの?」
「ちょっと野暮用で」
「そう。嬉しい野暮用なのかな?」
「どっちとも言えませんね。後でお話しします」
「おっ!、何か進展があったみたいだな?、いいよ、じゃぁ、ごゆっくり」

修也と西野は、シェフに任せた料理でワインを飲み、話すことに集中する。
「牧野さんの方も、間もなく契約なんでしょ?」
「うん、君の方も順調なスタートじゃないか?、でも、最初の引き合いがヴェトナムとはな……」
「そうなんですよ。でも、中国よりは良かったと思っているんですよ。中国語は全く駄目ですから」
「そうだよな。うちの課で中国語ができるのは居ないけど、間もなく何とかなりそうだよ……」
「決まったんですか?」
「うん、まだ内示になっていないから名前は言えないけど、確か、中国語もできると課長から聞いたよ」
「大谷くんが、富枡社長から乞われて退社するなんて思ってもいませんでした……」
「そうだよな。最初は社長の娘さんに、片思いをしているだけだと思っていたからな」
「ところで、宮守さんと話したんですよ」
「向こうの会社で?」
「違いますよ、喫茶店で話したんです。やっぱり、親が決めた彼が居るらしくて……。でも、全然会っていないそうなんです」
「そうか、それで?」
「牧野さんが疑問に思っておられた、ファッションのことですけど、それとも関係があるみたいです」
「その彼とのことで?」
「その相手は、玄人筋のお客さんを多く抱えている呉服屋の跡取り息子なんですよ。つまり、那美ちゃん、宮守さんは、その彼との話しに乗り気じゃなくて。本当は着物が好きな癖に、着物は大嫌いで呉服屋なんかに嫁には行かないという、アピールのつもりなんですよ」
「そう云うことか。着物が似合うタイプだもんなあ。あの顔立ちでマスキュリン.ルックはないと思うよ……」
「僕も、そう思います。留学先のパーティーで着物を着ている写真を見せてもらったことがあります。着物は良く似合いますよ」
「西野くん、その後、彼女とはあまり会ってないんだけど、何か話していたか?」
「いえ、それが……。ふたりで、どんな話しをされたか分からないので、あまり深くは訊かなかったんですが……。待ってください。彼女のフレックス出勤が終わってからは、毎朝一緒の電車じゃないんですか?」
「ああ、今回の商談が始まってからは、何時もの新快速より少し早い《びわこ.エクスプレス》に乗って、早く会社に出るようにしているんだよ」
「そうだったんですか、それで彼女は牧野さんのことを何も話さなかったのか……。それで、これからどうされるんですか?」
「うん……。これ以上にはならないような気もするんだよな。今日、何となく、そう思ったんだ」
「えー!、今日ですか?」
「うん、まあ、そのことは後で話すよ。ヴェトナム、気を付けて行けよ、何かあったら困るからな」
「そんな、たった三日間ですよ。死んだら困るみたいなことを言わないで下さい。壮行会じゃなくて送別会みたいじゃないですか」
「悪い、悪い。大谷くんに、西城さんに、川西さんだろ、一度に三人も抜けたら大変だぞ……」
「川西さんて?、どう云うことですか、何か決まったんですか?」
「うん……。社内人事じゃないから、話してもいいか。派遣社員の本採用の件だけど、三人が決まったんだ。総務と経理と営業で各一名、営業部では水谷さんが本採用になるんだ。今朝、課長から聞かされた」
「えーっ。西城さんの後任は、川西さんじゃなかったんですか?」
「川西さんは、派遣会社から本採用の確認があったときに断っていたんだよ」
「うっそー。そんなひとも居るんだ!」
「僕も知らなかった。課長も寝耳に水って感じだったな。ただ、会社が川西さんを派遣会社に指名していたら、うちには誰も残らなかった可能性もあったと言うことだよ。総務が水谷さんを指名してくれて、結果オーライと言うことになった訳だ……」
「そうか。もし、川西さんを指名していたら、断られてお終いと言うことだったのか……」
「そう言うこと」
「そうなると、ほんとに大変だな。三人同時に居なくなって。それで、転勤者が一名来る……。確かに、僕に何かあったら……、。止めましょうよ?」
「だよな、飲めよ。此処の店の久子さんが、昌子ちゃんの従姉なんだ。最初に昌子ちゃんに誘われて来て、僕だけの隠れ家にしていたんだけど、松森くんも連れて来てやったんだ。みんなには内緒にしているから頼むよ?」
「松森くんから聞きましたよ。それがきっかけで、昌子ちゃんと付き合っているらしいじゃないですか?」
「あいつ、僕には話さないで、君には話したのか?」
「今日、デートの約束だったらしくて、帰りたがるから問い詰めたんですよ、そうしたら簡単に白状したんです。よく隠していたなって、言ってやりましたよ」
「参ったな、先を越されたな……」
「あのー、ほんとに那美ちゃんと進展はないんですか?」
「よし、そろそろカウンターに移るか……、シェフと久子さんにも話しておきたいから……。那美さんのことでは心配してもらったからな……」
「牧野さん、ひょっとして僕は、スクープを目の当たりにするってことですか?」
「そうかもな。でも、それは大袈裟だな……」

ふたりは、カウンターに席を移した。
「久子さん、チーズの盛り合わせと、グラッパを選んで下さい。二人とも同じで……」
久子が厨房に入った。戻ってくると、棚の奥からボトルを取り出す。
「シェフがね、このブランデーを飲ませて上げなさいって……」
「そんな奥に置いてあるのは、高級品なんじゃないですか?」
「牧野くんと同世代に仕込まれた酒だからって。そんなに高くはないけど、珍しいんじゃない?、アックエヴィエテ1984。シェフに遠慮はしないことよ……」
「よく分からないけど、頂きます。あの、シェフは手が空いていますか?」
「いいわよ、君野くんが居るから大丈夫。呼ぶわね?」
「すみません、ちょっと聞いてもらいたいことがあるので……」
シェフの川添が、厨房からチーズを盛り合わせたプレートを持って姿を見せる。
「チャコ、わたしにもグラスをくれるかな。若者たちと同世代の酒を一緒に飲むのもいいだろ。若返るかもしれないから……じゃぁ、サルーテ!(乾杯!)」
「サルーテ!」
「シェフに訊きたいんですが、久子さんと出会われて、普段、自分がやりそうもないことをやったと云うようなことはありますか?」
「おや、質問から話しが始まるのかい?、何かあったのかな?」
「すみません、どうでしたか?」
久子が答えた。
「牧野さん、あったわよ。でも、シェフが恥ずかしがるから止めとくわ」
「やっぱりそうですか……。去年になりますが、電車で手を貸した女性の話しのときに、僕の行動が鈍いと言われましたよね。ほんとにそうだったと、今日、思ったんです。実は、あの女性は宮守那美さんと言って、此処に居る西野くんの高校時代からの友人だったんです。彼が気を遣ってくれて、ふたりで会ったんですが、何か違う感じがしていたんですよ」
「ほおー⁉、それが、今日、何かがあった訳だ?」
「西野くん、此処だけの話しにしてくれるかな?」
「いいですよ」
「うちの課には昌子ちゃんと同じ派遣会社の、川西さんという女性がいるんですが、四月から川西さんの方が契約終了になるんです。今朝、主任からそれを聞いたんです。そのときに、彼女が僕のファンだから、契約が切れると会うこともないだろうから、一度、食事にでも誘って上げたらどうかと言われたんです……」
「牧野さんは、弓子さんが牧野さんに好意を持っていることを、全く知らなかったんですか?」
「君は知っていたのか?」
「ええ、まあ。西城さんから聞いたことがあります」
「そうか。もしかして、みんなも知っているのか?」
「うちの課の人間は知っていると思いますが……」
久子が言う。
「それで?、それを聞いてからどうしたの?」
「西野くんとの約束の時間をずらしたのは……、梅田で川西さんと会うことにしたからなんだよ。笑うなよ?」
「笑いませんよ、まだ何も聞いていませんから」
「松森くんに電話をしてから梅田の百貨店に行って、誕生石の入った……」
「指輪を買ったの?」
「久子さん、違いますよ。彼女は髪飾りが好きなんです。それで、百貨店の女性に相談して、誕生石のトパーズの嵌め込まれた髪飾りを買って、喫茶店で渡したんです。餞別だからと言って……」
「でも、それだけの意味じゃないのね?」
「だと思います」
シェフが言う。
「だと思う……、か。だろうね。何かに駆られるようにして身体が動いたんだろ?」
「そうなんです。多分、また、僕は彼女と会います。携帯の番号を渡すと、彼女も教えてくれました。宮守那美さんのときとは違うんですよね……」
シェフが言う。
「違うね。でも、プライベートでは、今日、初めて会っただけなんだろ?、その那美さんとだって、何度も会っている訳じゃないんだろ?」
「そうですが……」
「じゃあ、焦って決めることはないんじゃないのかな?」
「そうかも知れないんですが……」
修也は少し考えこむような間を置いた。



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