アーザンハウス.バンド

稲葉真乎人

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思わぬ情報

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ウッドベースがホールに響き、陽一のピアノが静かに曲に加わる。
ウッドベースとドラムのブラシが、優しく心地よくリズムを刻んで行く。
隆司のギターが加わり、演奏に厚みを増す。その頃にはフロア全体に響くリズムに合わせて、客の身体が揺らぎ始める。
陽一のピアノから、隆司が独特の弦を叩くようなタッチ奏法で引き継ぎ。ソロを取った。
登のベースは、アマチュアではあまり見かけないスラップ奏法を駆使しながら、雄作のドラムと一体となって、正確なリズムを刻む。
メンバーが次第に演奏に没頭して行く様子を、フロアの片隅で沼沢が見詰めている。
ドラムの雄作がギターから引き継ぐと、華麗なステック捌きで客の注目を集め。絶好調時の60%のプレイタイムで、陽一のピアノに渡す。
最後は陽一の華麗なピアノで締めくくった。
ひと息入れると、次のフォーリン.イン.ラブ.ウィズ.ラブの演奏に移る。
乗ってきたメンバーは、それぞれがソロを取ると、のめり込むような演奏をして10分近い演奏になったが、終わったときには、立ち上がった客から嬉しい拍手を受ける。
沼沢も満足そうな笑顔で、拍手を送っていた。
隆司が陽一の側に来るとマイクを取った。
「ありがとうございます。最後はピアノの麻野陽一が歌います。聴いて下さい。トゥ.マーヴェラス.フォー.ワーズ……」
隆司のギターと陽一のピアノから演奏に入り、ギターがリズムを演奏し始めると、陽一のピアノ……、そして甘い声がリズムに乗って、スウィングするように歌う……。
ギターとピアノの演奏、ベースとドラムが、バックでリズムをコントロールする。
前の曲が長引いたので、ツーコーラスで終える。
拍手が止まず。雰囲気を読んだ隆司が、再びピアノの側に来てマイクを取る。
「ありがとうございます。僕達メンバーが、全員揃っての演奏は三年ぶりです。聴いて頂いて嬉しく思いますが、何せ久し振りなので、レパートリーも満足に練習ができていませんでした。そこで提案です。お口直しと言うと失礼になりますが、マスターに僕達が最初に演奏した、オータムン.リーブスを歌ってもらいたいと思うのですが、如何でしょう?」
沼沢は手を振って断るが、客席の拍手はおさまらず、遂にステージに上がる。
「いゃー、こんなことになるとは……。それにしても素晴らしい演奏だった。皆さん、そうでしょ?」
客が拍手で応える。
「僕も感動しました。せっかくの指名なので歌わせてもらいます。じゃ、宜しくね……」
陽一の甘い声とは対照的な、渋いバリトンの歌声と、陽一や隆司のインプロビゼーションには負けない、素晴らしいスキャットのアドリブが、客を魅了して演奏は終わった。
客席は暫くざわついていたが、次第にBGMが耳に届くようになった。
五組の男女は、急に打ち解けた感じで会話が弾む。
瀬川靖男だけが、バンドメンバーに向けて「みんな、凄いですよ!」を連発していた。
隆司が「お開きの時間だな」と、陽一の耳元で囁く。

「それでは、今日はここまでと言うことで、店を出たら自由に解散としますから……。後は皆さんにお任せします。お疲れ様でした……」
全員を店から出し、元々カップルを希望していない陽一が独り残って、レジで精算をしていると沼沢が近寄って来た。
「ありがとう、麻野くん。バンド活動を再開したらどうだい?。きみ達の何人かは、プロになると思っていたのに、そうじゃなかったんだね。きみ達の技量はLavaのステージで知っているから、仕事に支障が無い程度で、小遣い稼ぎに時々やってくれないか?」
「うちのバンドでいいんですか?」
「ああ、そうだよ。プロを呼ぶ程の店じゃないし……。石野さんの処のLavaも、最近はプロにステージを任せることが多いらしくて、アマチュアの出番が無いらしいんだ。きみ達がステージに立ってくれれば、他のアマチュアのバンドにも、声が掛けやすくなるし、彼等も出やすくなると思うんだか……、どうだろうね?」
「今まで遠のいていましたから、もう無いと思っていたんですが……。実は久し振りにメンバーとステージに上がって、それもいいかなって、いま思っているんです」
「だろ?。何時でも連絡をくれれば準備するよ。田神くん経由でもいいし、これ、名刺を渡しておくよ。じゃ、今日はありがとう」
「はい、お世話になりました」
沼沢の名刺をポケットに入れて、ドアに向かおうとしていた。
「あのー?」
「はい!」
「わたし、以前Lavaに出入りしていたんですけど……、佐々木由美と言います」
「ああ、そうですか?」
「失礼なことを、お訊ねしていいですか?」
「僕のことで?、どうぞ……」
「はい。わたし、石野優華さんの友達なんですけど、麻野さんは優華さんと、ご結婚されないんですか?」
「はっ?……、優華さんとは……。あのー、彼女、結婚したんじゃないんですか?」
「えっ!、優華さんとは、お別れになられたんですか?」
「ええ、色々とあってLavaには出入りしなくなったもので……」
「失礼しました。知りませんでした。でも、彼女、麻野さん以外には、そんなに深く付き合っていた男性はいませんよ」
「そんな筈はないと思うけど……」
「バーテンの方のことでしょ?」
「ええ、まあ……、ご存知ですか?」
「騙されたんですよ、彼女。ご存じのように初心で真面目でしょ。相手の方の軽い冗談を真に受けて、東京に一緒に行くつもりだったみたいで……」
「ほんとに⁉……、そうなんですか?。その後のことは、何も聞いてないんです」
「やはり、そうですか……。いえ、ちょっと気になっていたので……。わたしも結婚をしたものですから、彼女とは暫く会っていないので……。今夜は主人と一緒に、久し振りに沼沢さんに会いにきましたので……。失礼しました」
「いえ、どうも……。あの、彼女、今は?」
「ええ、北山の音楽教室で、ピアノを教えていると聞いてますけど……」
「そうですか……。どうもありがとうございます」
「いいえ、失礼しました。アーザンハウスの演奏が聞けて良かったです。それと沼沢さんの歌も聴けて……。青春の思い出ですので、それじゃ」
「はい、ありがとうございます。じゃ、失礼します」
Freddieのドアを開けて外に出ると、誰も見当たらなかった。
聞いたばかりの優華のことを想い、立ち止まって溜息をつく。
「麻野さん、ご苦労様でした」
「あれ?、篠宮さんは、みんなと一緒じゃなかったの?」
「はい、ちょっとお訊ねしたいと思って」
「僕に?。今夜は、よくひとに訊かれるなぁ」
「えっ、何かあったんですか?」
「いや、何でもないよ。予定がなければですが、コーヒーでも行きませんか?」
「そうですね……」
「週末だから、何処も多いかな……」
繁華街に入り、ショーケースにケーキが並ぶカフェに入ると、テーブルはカップルばかりで埋まっていた。
女性の店員が迎える。
「お二人様?、おタバコは?」
「いえ、吸いません」
ふたりは、店の奥にひとつだけ空いていた、鴨川の見える窓の端のテーブル席に案内される。
ウイスキー.コーヒーとレモン.ティーを注文しようとして、芽衣に「ケーキはどうですか?」と訊くと頷いたので、お薦めのチーズ.ケーキ.セットで注文する。

ティーカップを置くと、芽衣が話しかける。
「あの、今夜、機会があったのに、今更訊くのはおかしいんですけど、麻野さんには決まったお相手がおありですか?」
「いや、特には……」
「今夜は、お相手の方が、おられませんでしたか?」
「……実は、そんなに結婚を急いでいる訳ではないので……とは言っても、いい加減な気持ちで参加したと言う意味ではないですよ。縁があればとは思っていますから……。僕に何か?」
「わたしの学生時代からの友達なんですけど、企業内の医療施設で、看護師をしている女性なんです……」
「篠宮さんが、そのひとを僕に紹介してくれるんですか?」
「いいえ、違うんです。わたし、はっきりと憶えてないんですけど、麻野さんの名前を彼女から聞いたような気がするんです」
「どう云うことですか?」
「麻野さんのお家の庭には、沈丁花と金木犀の木がありますか?」
「ええ、あります……」
「お家は東洞院通に面してます?」
「ええ、そうですが……」
「ほな、やっぱりそうかも知れません。……あのー、朝の出勤途中のことなんですけど、金木犀の花を頂いて行った、女のひとを憶えてはりませんか?」
「もしかして、磯谷鞠子さんのことかな?」
「そうです。鞠子さんです。憶えてはるんですね?」
「ええ、祖母が春に沈丁花を上げたことがあって、この前は金木犀を……。僕が枝を切って上げたから、憶えてますよ」
「そうですか。彼女のこと、どう思われます?」
「どうって?……、感じの良いひとでしたよ。あまり話はしていないけど……。そうですか、看護師さん……」
「ええ、看護師と言っても、勤め先は会社の医療室なんですよ。厚生部長がお医者さんで、看護師さんと、篠宮さんは、彼女の友達ですか?……、狭いものだな」
「そうですね。もしかと思って訊いたんです」
「それより、篠宮さんは今夜のメンバーには、好みのタイプが居ませんでしたか?」
「それは……。考えてます」
「そうか、電話番号もメルアドも渡してあるから……。みんなドキドキして待ってるかも知れないな……」
「麻野さんは?」
「栂崎さんと長野さんは、同じ会社だからね」
「社内の女性は対象外なんですか?」
「はっきりとした理由は無いんだけど、僕が、そう決めているだけで……」
「じゃぁ、わたしと安本さんと坂崎さんはいいんですね?。でも、坂崎さんて素敵な方ですから……」
「アパレル関係の雑誌記者だって聞いてるけど、確かにファッションセンスも良いよね……」
「麻野さん、また誘って頂けますか?。わたし、お友達がたくさんいますから……」
「友達を、誘って来てくれると言うことですね。それはいいんじゃないかな、みんな歓迎だと思いますよ」
陽一は河原町通でタクシーを止め、芽衣を見送ると歩き始める。
タイトなスカートに、綺麗なラインのコートを着ていた磯谷鞠子は、何処かの商社にでも勤めているのかと想像していた陽一は、彼女が看護師だと知り、何となく好感を抱いた。
御池通に向けて歩き始めると、冷たい風が、少し熱った顔に気持良い。身体はコートのお陰で暖かかった。
陽一は登や隆司に、誰かとカップルになって欲しいと思っていた。
雄作と自分は、そんなに結婚を急いではいないが、そろそろ真剣に身を固めなければと考えながら歩いていると、通行人にぶつかりそうになる。
「すいません」と言うと「いやいや、此処でぶつかりそうになったのも何かのご縁……。さようなら……」と言って手を振りながら去って行った。
少し酔っている様子の中年男性だった。
ふと、何かのご縁で、綺麗な女性とぶつかることはないのかと思い。独り笑った。
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