アーザンハウス.バンド

稲葉真乎人

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変わらぬ想い

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土曜日の朝。朝食前に家の前に出ると、空模様を見てから通の左右を見通す。
「なんか、時の過ぎるのが早く感じられるなあ……」
石垣の上から溝蓋の周り一面に広がった金木犀の散り花を見ながら、陽一が呟いた。
背後から塵取と箒を手にした、祖母の澄枝が声を掛ける。
「掃いてしまうのは惜しいなあ……。暫く見ていたいけど、ご近所はんに迷惑をお掛けするさかいな、そうもいかしまへん……」
「ああ。いいよ、お祖母ちゃん。僕がやるから」
陽一は箒と塵取を澄枝の手から受け取ると、金木犀の淡く色褪せた橙色の面を箒で縮めて行く。小さく山にして塵取に取り込む。
「お祖母ちゃん。金木犀も、良い香りがするのは咲き掛けの頃だけやね……、こんなに集めても、あまり匂わへんもん……」
「それで、ええやないの……。最初から最後までやったら金木犀も疲れはるやろ……。
早ようても遅おても必ず弱くなって、老いて褪せて行くのが自然の習いやおへんか……」
「まあ、そう言えばそうやけど…」
「そない言うたら、この頃は磯谷さんのお嬢さんを見掛けまへんなあ……。元気にしてはるんやろか?」
「元気なんじゃないかな。きっと、出勤が早いんだよ」
「今朝はお休みやから遅いけど、常は、お祖母ちゃんも早よから外へ出てますえ……」
「タイミングやから、勤務の都合もあるんと違う……」
「そうやろか、それなら宜しいけど、身体を壊してはらへんかったら、ええんやけど……。
朝晩は寒うなって、風邪をひきやすい時候になってるさかい、陽一も気ぃつけなはれや……」
「そうだね。お祖母ちゃんも、うちに戻った方がいいよ。後は、やっとくから……」
「そうか、ほんなら頼みますえ。あんたは、ご飯は食べたんか?」
「まだやけど、此処は直ぐ済むから……」
澄枝を家に戻して、陽一は通りを見渡す。心の隅で鞠子のことが気になっていた。
鞠子に金木犀を切って渡したのも、土曜日の同じ時間帯だった。
家の前を綺麗に掃き終わると、暫く、通の左右を見てから家に戻った。

小波正子が下賀茂に在る石野家を訪ねたのも、会社が土曜休日の午後だった。
前日に電話をすると、優華からピアノの訪問指導が二件あるから終われば帰宅すると言われた。それを承知で、正子は早めに石野家を訪れる。
優華は留守でも、優華の母とは面識もあり気心も知れている。
正子は母親と話したいと考えていた。
応接に通された正子は、優華の母とふたりだけで話しを始めた。
「正子さんは何時もお元気そうで……。この前お会いしたのは何時やったかしら?」
「就職してからでしたから、もう四、五年前になると思います」
「そうね、もう、そんなになるのね」
「小母さん、立ち入ったことをお訊ねしていいですか?」
「なにかしら。どうぞ……」
「優華さんのことです……。わたし、二年前くらいに優華さんから聞いたんですけど、大変やったんですね……」
「ああ、そのことね……。あの子は男はんのこと、なーんにも知らんうちに上手いこと言われて、信用してしまわはったんえ……。
わたし等が、気ぃがついたときには、何にも周りのことが見えてへんかった……。
本気で東京に行く気やったんえ……。何を言うても、貸す耳を持ってはらへんかった」
「そうだったんですか」
「ええ。後で分かったんやけど、当時は自分でも何をしているのか分かってへんかったみたい……。
主人も早とちり言うか、優華の言うことを、そのまま鵜呑みにしはって麻野さんのお宅に行かはった。
陽一さんには悪いことをした思うてます。わたしは、今でも気ぃが重ぉて忘られしまへんのえ。優華自身は、どない思うてんのか知りまへんけど……」
「お話しされることはないんですか?」
「もともと大人しい子やさかい、三十過ぎても、そないに変わってぇしまへんえ」
「小母さん、わたし、優華さんにそのことを訊いても構いませんか?」
「高校時代からのお友達やさかい、かましまへん。わたしからもお願いしたいくらいです。何を考えてはんのか……。
この頃は余計に分からんようになってしもて……。正子さんの前やけど、母親として恥ずかしい思うてますのえ」
「お家の中のことですから……。うちも、たいして変わらないと思います。わたしも失恋して、知らないうちにこの歳ですから……。
父や母も諦め気味で、最近は何にも言わないんです……」
「正子さんは以前からしっかりしてはるから、なんも心配なんかいらしまへんえ。
ええ娘さんになってはるやないの。なんやったら、ええひとを紹介しまひょか?……。
自分とこの娘は、どうもでけしまへんけどな……」
「小母さん、麻野さんの、その後のことはご存じなんですか?」
「いいえ。うちが駄目にしたお話しですから……。どうにもでけしまへんやろ……。
きちっと謝罪しなあかんのですけど、主人も引っ込みがつかへんようになってしもて。
おひとを通じて謝っただけですやろ……。そやから気ぃが重いんです」
「そうですか……。小母さん、わたしの大学の後輩が麻野さんと同じ会社なんです。
彼女、麻野さんと心安くしているので、その彼女から気になることを聞いたんです。
わたしが優華さんに今の気持を訊いてもいいですか?」
「わたしからは答えられしまへん。優華の気持ちも理解でけへん母親ですさかい、お任せします……」
「勝手なことはしません。優華さんに訊いて、それからにしますけど……」
「正子さん。当時は、わたしも主人も優華の結婚相手は陽一さんが良いと話してたんです。
そやから……。
いいえ。やっぱり、これ以上、陽一さんに負担を掛けるようなことをしたらあかんように思うんやけど……」
「ご迷惑はかけないようにします」
「そうですか……。そやけど、どうして正子さんが?」
「わたしと同じ職場の若い看護師なんですけど、麻野さんに憧れてはるんです。
まだデートも何にもしてはらへんのですけど……。それを聞いて、もし麻野さんが優華さんのことを心の隅に憶えてはったら……。
そう思ったら、優華さんの本当の気持ちも知りたいと思って、訪ねて来たんです」
「そうですか……。ありがたいお友達やわね。わたしは正子さんにお任せします。くれぐれも、陽一さんのご迷惑にならんように、お願いしときます」
「分かりました。わたしも、以前Lavaで麻野さんとは会ったことがありますけど、とても紳士的で好感を持ちました。
優華さんと麻野さんが、まだ気持の中にお互いのことを思ってはったら、幸せになって欲しいと思ってるんです……」
「おおきに、ありがとう。正子さんも大変みたいやのに、堪忍え……」

優華の母の勧めで、正子は優華と一緒に二階の優華の部屋で話すことにした。
「ほんとに久し振りやね……、元気にしてはった?」
「優華こそ、あんな大変なことを聞かされてから、あっと言う間に時が過ぎてしもて……。
でも、相変わらずやね……、ひとつも変わってへん……」
「そんなことないわよ。この頃、何か分からへんけど、寂しい思うときがあるんや」
「分かるわ、わたしもおんなじ。三十になるまでには結婚してると思ってたのに、恋人も居てへんのよ」
「さっき母から聞いたけど、ほんまに失恋しはったの?」
「まあね。二十代に結婚できなくてよ、失恋くらい無いとなんか寂しいやろ?」
「そんな……。正子さんは何時も前向きやから羨ましいわ」
「ねえ、優華。正直に答えてくれる?」
「なぁに?」
「気に障ったら許してね。その後、麻野さんとは連絡も会ってもいないの?」
「……わたしからは何にも言えへん立場やから……。分かってくれるやろ?」
「分かるわ。じゃあ、連絡はとってないのね?」
「ええ……」
「優華……。貴女、麻野さんのこと、今はどう思ってるの?」
「どぉって……。ずっと重荷になってる。あのとき私はどうかしていたわ。どうして陽一さんを巻き込むようなことを言ってしまったのか……。
今でも悔やまれてならないの……。そやから、わたしの気持を陽一さんになんて……。伝えられへんでしょ……」
「そう。分かったわ。じゃあ、私の話しを聞いてくれる?」
「……?」
「わたしの大学の後輩が麻野さんの会社に居るの……。この前、麻野さんから合コンに誘われたらしいのよ。
でもね、麻野さんは世話役をしてはったみたいで、誰かとカップルに、とかいう感じやなかったそうやけど……。
実はね、私の職場の磯谷鞠子さんいう若い看護師さんなんやけど、麻野さんに想いを寄せてはるらしいの。
でも、デートをするような仲とは違うんよ。通勤途中にお庭の花を貰ったから、それで……。鞠子さんて、とても好いひとなのよ。
でもね、わたし、彼女の気持ちを聞いて思ったの……。もし、麻野さんが優華のことを今でも思ってはったら、鞠子さんが可哀想なことになるかも知れへんって……。
そんなこと考えてたら、もしかして優華もそうやったら……。そう思ったの……」
「正子さん、わたし、なんて答えたらいいの?」
「優華、あれから好きになった男のひとは居てへんの?」
「ないわ……。さっきも話したけど、ほんまに、あの時ほんの少しの間やったけど、わたしは何をしてたんやろかって……。自分でも信じられへんの……。
わたし、陽一さんのこと、とっても好きやった。父も母も、将来一緒になれたらええのにって、そう言うてくれてはったのに……。何で、あのひとの言葉に惹かれてしもたんやろうって……。
時間が経って、冷静に考えられるようになったとき、何て馬鹿なことをしたんやろかって、自分に腹が立った……。でも、どうしていいのか分からへんし…。
今も気持はあの頃とおんなじ……。身から出た錆やから仕方ないと思ってる……」
優華の目は潤んでいた。
「辛かったのね……。もう、話してくれなくていいわ。わたし、今度、麻野さんと一緒の飲み会に誘われているの……。優華、わたしに任せてくれる?」
「いいの?。わたしは陽一さんを凄く怒らせてしまったのよ。わたしのこと、酷い女だと思ってはるわ……」
「そんなことないと思うわ。ねえ優華。わたし、今でも、貴女が何で言うに事欠いて。あんな、子供でもつかへんような嘘をついたのか理解でけへんのよ……。
魔が差したとしか思われへん……。陽一さんも、心の何処かでは同じように思ってはると思うのよ……。
優華の妊娠の嘘以外は、何にも問題はあれへんのと違う?……。
男と女が、恋愛中に行き違うことは幾らでも在り得ることやない……。
実際に妊娠するような関係や無かったんやし。騙されたんやから仕方ないと思うけど……」
優華は黙って窓の外を見ていた。
柔らかな髪が頬にかかったのを、ゆっくりと耳の後ろにやると、正子に視線を移した。
「正子さん……」
「なあに?」
「わたし……。陽一さんがLavaのステージでピアノを弾いて、歌ってはるのを見るのが、とても好きだった……。
ステージから、席の後ろに立っているわたしを見つけて、優しく頷いてくれてはった……。
それと、家に来て一緒にピアノを弾くのも楽しかったし嬉しかった……。ずっと昔のことみたい……」

優華の部屋を出るとき。正子は、本棚に並ぶピアノ曲のスコア本の隙間に置かれたベージュの額の中に、二つのティーカップが載った庭のテーブルを挟んで、椅子に掛けている優華と陽一の笑顔を垣間見た。
階段の先を下りる優華の後ろ姿に向けて、正子が声を掛ける。
「優華。安心して、わたしに任せて……。貴女を放っておけないわ……」
優華は足を止め、振り向くと正子に微笑を返した。
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