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第2話 聞き覚えのある鼻歌と、彼の秘密
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翌日のバイトは、昨日よりもずっと足が重かった。
カフェのドアを開ける指先が、鉛のように冷たい。ガラスに映る自分の顔は、案の定、ひどく強張っている。
「……おはようございます」
私がか細い声で挨拶をすると、すでにエプロン姿のカイくんが、バックヤードから顔を出した。その視線が、値踏みするように私を一瞥する。心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「……おはよう。今日はシフト、一時間早く入ってもらってるから。まず豆の補充、やっといて」
「は、はい!」
昨日と同じ、温度のない声。
私は逃げるように返事をして、コーヒー豆が並ぶ棚へと向かった。
(大丈夫。大丈夫、私。いつも通りやればいいだけ)
自分に言い聞かせながら、豆の袋を開ける。けれど、焦れば焦るほど、指先は不器用にもつれていく。案の定、袋の口を大きく切りすぎて、香ばしい豆が数粒、床にころころと転がってしまった。
「……何やってんの」
背後から聞こえた声に、全身が凍りつく。
振り返ることもできずに固まっていると、カイくんが私の隣にしゃがみ込み、慣れた手つきで豆を拾い始めた。その時だった。
ふん、ふふん、ふーん……。
ごく小さな音量で、彼が鼻歌を歌っているのが聞こえた。
それは、私が昨日、VTuberのルルとして配信で歌ったばかりの、マイナーなボカロ曲のサビのフレーズ。まさか、と思った。こんな偶然があるだろうか。
「あの、相田さん……。その曲……」
「あ?」
私の言葉に、彼の鼻歌がぴたりと止まる。拾った豆をゴミ箱に捨てながら、怪訝そうな顔で私を見た。その瞳には、私が知るクールな光しか宿っていない。
「……いや、なんでもないです。すみません」
これ以上、踏み込んではいけない。本能的にそう感じて、私は慌てて言葉を濁した。
彼は「そう」とだけ短く言うと、すぐに持ち場へ戻っていく。その後ろ姿を見つめながら、私の胸は、さっきとは違う理由でざわついていた。
(気のせい、だよね。きっと、ただの偶然……)
でも、一度芽生えた小さな疑念は、なかなか消えてはくれなかった。
◇
その日の夜。
相田カイは、アパートの自室でパソコンの電源を入れた。
カフェで見せる、完璧でクールな姿はそこにはない。少し着古したスウェットに、気の抜けた表情。しかし、その瞳だけは、獲物を待つ狩人のように、画面の一点に集中していた。
時刻は、午後九時五十八分。
お目当ての配信が始まる、二分前だ。
カイの部屋は、一見すると、ごく普通の大学生の部屋だ。けれど、クローゼットの扉を開ければ、そこにはびっしりと、VTuber『ルル』のグッズが並んでいる。アクリルスタンド、缶バッジ、タペストリー。そのどれもが、大切に、神棚に飾るかのように保管されていた。
そう。彼こそが、ルルの熱狂的ファン『セバスチャン』だった。
バイトを掛け持ちして稼いだ金のほとんどは、彼女へのスパチャとグッズ代に消えていく。友人からは「金の使い方がおかしい」と呆れられるが、カイにとっては、それこそが生きがいだった。
時間ぴったりに、画面に愛しの彼女が映し出される。
『みんなー、こんばんるるー!』
その声を聞いた瞬間、カイの口元が、誰にも見せたことのないほど、緩く、だらしなく綻んだ。
「……可愛い」
思わず、声が漏れる。
今日の彼女も、完璧に可愛い。一つに束ねたピンクの髪が、動きに合わせてふわふわと揺れている。その姿を見ているだけで、バイトでの疲れや、新人への苛立ちが、綺麗さっぱり浄化されていくようだった。
そういえば、と思い出す。
今日、新人の彼女――本城凪が、何か言いたそうに自分を見ていたことを。
(なんて言ってたんだっけな……。『その曲』、だっけか)
自分が無意識に口ずさんでいた鼻歌のことだろう。あれは確かに、ルルが昨日歌っていた曲だ。だが、それがどうしたというのか。まさか、あの地味で挙動不審な新人が、自分と同じ『同志』だとは到底思えない。
『今日はねー、この前リクエストをもらった、恋愛シミュレーションゲームをやっていこうと思いまーす!』
画面の中のルルが、はしゃいだ声で言う。
コメント欄が、一気に沸き立った。カイもまた、キーボードを叩く指に力を込める。
セバスチャン:『ルルの恋愛ゲーム実況、待ってた。神回確定だね』
セバスチャン:『どんな男が出てきても、僕のルルへの愛は揺るがないから』
次々と、愛の言葉を打ち込んでいく。
現実の自分では、絶対に口にできないような、甘くて、キザなセリフ。でも、ここでは、誰も彼を笑わない。むしろ、『セバス様、今日もキレッキレ!』と、他のリスナーから称賛されるくらいだ。この場所だけが、カイが素直になれる唯一の世界だった。
ゲームが始まり、攻略対象のイケメンキャラクターが登場するたびに、ルルは「きゃー、かっこいい!」と無邪気に声を上げる。そのたびに、カイの胸は、ちりちりと焦げるように痛んだ。
(……俺以外の男に、そんな顔、見せんなよ)
独占欲が、黒い煙のように心に立ち上る。
分かっている。彼女はアイドルで、自分はただのファンだ。そんなことは、百も承知だ。
それでも、抑えきれないこの気持ちを、どうすればいいのか。
気づけば、カイの指は、スパチャのボタンに触れていた。
金額の欄に、躊躇なく『10,000』と打ち込む。そして、メッセージ欄に、今、心に渦巻いている全ての感情をぶつけるように、言葉を綴った。
『他の男に笑顔を見せるのは、ほどほどにして。僕が、嫉妬で狂いそうだから』
送信ボタンを押した直後、画面の中のルルが、驚いたように目を見開いた。
「せ、セバスチャンさん!? あ、ありがとうございます……! えっ、し、嫉妬……?」
真っ赤になって、しどろもどろになっているルル。
その姿が、たまらなく愛おしい。
カイは、満足げに口角を上げると、椅子に深くもたれかかった。
バイト先の、あの要領の悪い新人のことなど、もう彼の頭からは完全に消え去っていた。
まさか、今まさに画面の向こうで自分を真っ赤にさせている相手が、その本人だとは、夢にも思わずに。
カフェのドアを開ける指先が、鉛のように冷たい。ガラスに映る自分の顔は、案の定、ひどく強張っている。
「……おはようございます」
私がか細い声で挨拶をすると、すでにエプロン姿のカイくんが、バックヤードから顔を出した。その視線が、値踏みするように私を一瞥する。心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「……おはよう。今日はシフト、一時間早く入ってもらってるから。まず豆の補充、やっといて」
「は、はい!」
昨日と同じ、温度のない声。
私は逃げるように返事をして、コーヒー豆が並ぶ棚へと向かった。
(大丈夫。大丈夫、私。いつも通りやればいいだけ)
自分に言い聞かせながら、豆の袋を開ける。けれど、焦れば焦るほど、指先は不器用にもつれていく。案の定、袋の口を大きく切りすぎて、香ばしい豆が数粒、床にころころと転がってしまった。
「……何やってんの」
背後から聞こえた声に、全身が凍りつく。
振り返ることもできずに固まっていると、カイくんが私の隣にしゃがみ込み、慣れた手つきで豆を拾い始めた。その時だった。
ふん、ふふん、ふーん……。
ごく小さな音量で、彼が鼻歌を歌っているのが聞こえた。
それは、私が昨日、VTuberのルルとして配信で歌ったばかりの、マイナーなボカロ曲のサビのフレーズ。まさか、と思った。こんな偶然があるだろうか。
「あの、相田さん……。その曲……」
「あ?」
私の言葉に、彼の鼻歌がぴたりと止まる。拾った豆をゴミ箱に捨てながら、怪訝そうな顔で私を見た。その瞳には、私が知るクールな光しか宿っていない。
「……いや、なんでもないです。すみません」
これ以上、踏み込んではいけない。本能的にそう感じて、私は慌てて言葉を濁した。
彼は「そう」とだけ短く言うと、すぐに持ち場へ戻っていく。その後ろ姿を見つめながら、私の胸は、さっきとは違う理由でざわついていた。
(気のせい、だよね。きっと、ただの偶然……)
でも、一度芽生えた小さな疑念は、なかなか消えてはくれなかった。
◇
その日の夜。
相田カイは、アパートの自室でパソコンの電源を入れた。
カフェで見せる、完璧でクールな姿はそこにはない。少し着古したスウェットに、気の抜けた表情。しかし、その瞳だけは、獲物を待つ狩人のように、画面の一点に集中していた。
時刻は、午後九時五十八分。
お目当ての配信が始まる、二分前だ。
カイの部屋は、一見すると、ごく普通の大学生の部屋だ。けれど、クローゼットの扉を開ければ、そこにはびっしりと、VTuber『ルル』のグッズが並んでいる。アクリルスタンド、缶バッジ、タペストリー。そのどれもが、大切に、神棚に飾るかのように保管されていた。
そう。彼こそが、ルルの熱狂的ファン『セバスチャン』だった。
バイトを掛け持ちして稼いだ金のほとんどは、彼女へのスパチャとグッズ代に消えていく。友人からは「金の使い方がおかしい」と呆れられるが、カイにとっては、それこそが生きがいだった。
時間ぴったりに、画面に愛しの彼女が映し出される。
『みんなー、こんばんるるー!』
その声を聞いた瞬間、カイの口元が、誰にも見せたことのないほど、緩く、だらしなく綻んだ。
「……可愛い」
思わず、声が漏れる。
今日の彼女も、完璧に可愛い。一つに束ねたピンクの髪が、動きに合わせてふわふわと揺れている。その姿を見ているだけで、バイトでの疲れや、新人への苛立ちが、綺麗さっぱり浄化されていくようだった。
そういえば、と思い出す。
今日、新人の彼女――本城凪が、何か言いたそうに自分を見ていたことを。
(なんて言ってたんだっけな……。『その曲』、だっけか)
自分が無意識に口ずさんでいた鼻歌のことだろう。あれは確かに、ルルが昨日歌っていた曲だ。だが、それがどうしたというのか。まさか、あの地味で挙動不審な新人が、自分と同じ『同志』だとは到底思えない。
『今日はねー、この前リクエストをもらった、恋愛シミュレーションゲームをやっていこうと思いまーす!』
画面の中のルルが、はしゃいだ声で言う。
コメント欄が、一気に沸き立った。カイもまた、キーボードを叩く指に力を込める。
セバスチャン:『ルルの恋愛ゲーム実況、待ってた。神回確定だね』
セバスチャン:『どんな男が出てきても、僕のルルへの愛は揺るがないから』
次々と、愛の言葉を打ち込んでいく。
現実の自分では、絶対に口にできないような、甘くて、キザなセリフ。でも、ここでは、誰も彼を笑わない。むしろ、『セバス様、今日もキレッキレ!』と、他のリスナーから称賛されるくらいだ。この場所だけが、カイが素直になれる唯一の世界だった。
ゲームが始まり、攻略対象のイケメンキャラクターが登場するたびに、ルルは「きゃー、かっこいい!」と無邪気に声を上げる。そのたびに、カイの胸は、ちりちりと焦げるように痛んだ。
(……俺以外の男に、そんな顔、見せんなよ)
独占欲が、黒い煙のように心に立ち上る。
分かっている。彼女はアイドルで、自分はただのファンだ。そんなことは、百も承知だ。
それでも、抑えきれないこの気持ちを、どうすればいいのか。
気づけば、カイの指は、スパチャのボタンに触れていた。
金額の欄に、躊躇なく『10,000』と打ち込む。そして、メッセージ欄に、今、心に渦巻いている全ての感情をぶつけるように、言葉を綴った。
『他の男に笑顔を見せるのは、ほどほどにして。僕が、嫉妬で狂いそうだから』
送信ボタンを押した直後、画面の中のルルが、驚いたように目を見開いた。
「せ、セバスチャンさん!? あ、ありがとうございます……! えっ、し、嫉妬……?」
真っ赤になって、しどろもどろになっているルル。
その姿が、たまらなく愛おしい。
カイは、満足げに口角を上げると、椅子に深くもたれかかった。
バイト先の、あの要領の悪い新人のことなど、もう彼の頭からは完全に消え去っていた。
まさか、今まさに画面の向こうで自分を真っ赤にさせている相手が、その本人だとは、夢にも思わずに。
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