3 / 28
第3話 カフェに響く推しの名前
しおりを挟む
あれから数日が経った。
カイくんが口ずさんでいた鼻歌の一件以来、私の心は、晴れない霧の中にいるみたいだった。
彼の何気ない仕草ひとつひとつに、過剰に反応してしまう自分がいる。彼がスマホを触っていれば「もしかしてルルの配信を?」なんて考えてしまい、すぐに「自意識過剰だ」と頭を振る。疑念と自己嫌悪のシーソーゲームは、私の心をすり減らしていった。
その日も、私はバックヤードでグラスを拭く作業に追われていた。
フロアからは、楽しげな会話と、食器の触れ合う音が微かに聞こえてくる。平日の昼下がり。カフェ『夕凪』は、穏やかな時間の中にあった。
その平穏を破ったのは、ドアベルの軽やかな音とともに現れた、三人の男子大学生だった。
「いらっしゃいませー」
カイくんの、いつも通りの低い声がフロアに響く。私も慌ててバックヤードから顔を出し、会釈をした。
彼らは店の一番奥のテーブル席に陣取ると、メニューを広げながら、大きな声で話し始めた。その会話の内容が、私の耳に届いた瞬間、心臓が凍りついた。
「てか、昨日のルルの配信、見た? マジで神回だったよな!」
「見た見た! 恋愛ゲームのやつだろ? 嫉妬してるセバスチャンに、ルルがタジタジになってんの、最高に可愛かったわ」
ルル。セバスチャン。
聞き慣れた、けれど、この場所では決して聞きたくなかった単語の連続に、私の思考は完全に停止する。血の気が、さあっと引いていくのが分かった。
手に持っていたグラスが、つるりと滑り落ちそうになる。慌てて胸に抱きかかえるようにして、なんとか最悪の事態は免れた。
(どうしよう、どうしよう……!)
パニックに陥る私を、現実に引き戻したのは、カイくんの冷たい視線だった。彼はフロアから、バックヤードで固まる私を、射抜くように見つめている。その目は「さっさと仕事に戻れ」と、雄弁に物語っていた。
私は弾かれたように、再びグラスを磨き始める。けれど、意識はすべて、彼らの会話に吸い寄せられていた。
「しかし、セバスチャンって何者なんだろうな。毎回、赤スパだろ? 社会人なのかな」
「ルルへの愛が深すぎる。俺らみたいな学生のお小遣いじゃ、到底太刀打ちできねえよ」
彼らの会話は、すべて私の配信に関するものだった。まるで、自分の秘密が、白日の下に晒されているような感覚。息が苦しい。この場から、今すぐ逃げ出したい。
そんな私の葛藤など知る由もなく、彼らの一人が、さらに声を弾ませた。
「でもさ、俺、思うんだよね。ルルって、ガワも声も可愛いけど、たまに見せる、あの素の部分が一番の魅力じゃない?」
「あー、分かる! ちょっとドジだったり、焦って早口になったりするところな」
「そうそう! なんか、放っておけないっていうかさ。守ってあげたくなるんだよな」
その言葉に、私はハッとした。
素の私。ドジで、要領が悪くて、いつもおどおどしている、本城凪。
それは、私が一番隠したい、嫌いな部分のはずだった。でも、彼らは、そんな私の姿を「魅力だ」と言ってくれている。
画面の向こう側では、私の欠点さえも、愛すべき個性として受け入れられている。その事実に、胸の奥が、じんと熱くなった。
その時だった。
注文を取り終えたカイくんが、私の隣のカウンターに伝票を置いた。その横顔は、いつもと同じ、無表情。けれど、私は見てしまった。彼が伝票を置く指先が、ほんの僅かに、震えていたのを。そして、固く結ばれた唇が、何かをこらえるように、微かに動いたのを。
(……気のせい? いや、でも……)
彼は、あの大学生たちの会話を、どんな気持ちで聞いていたのだろう。
自分と同じ「ルル推し」の会話を。そして、自分が「セバスチャン」として崇められている、その現場を。
やがて、大学生たちは満足げにコーヒーを飲み干し、会計を済ませて店を出て行った。
嵐が過ぎ去ったあとの店内は、元の静けさを取り戻している。けれど、私の心の中は、いまだに荒れ狂う嵐の真っ只中にいた。
「本城さん」
不意に、名前を呼ばれる。
顔を上げると、カイくんが、空になったシュガーポットを私に突きつけていた。
「これ、補充しといて。さっきから、ずっと手が止まってるけど。何か考え事?」
その声は、やっぱり冷たい。私の内面を見透かすような、鋭い視線。
でも、今の私には、その冷たさの奥に、ほんの少しだけ、別の感情が隠れているように思えてならなかった。それは、動揺、だろうか。それとも――。
「……すみません。すぐやります」
私は、彼からシュガーポットを受け取った。触れ合った指先が、やけに熱い。
彼がセバスチャンだなんて、そんなまさか。ありえない。
でも、もし、万が一、そうだとしたら?
いつも私に冷たい彼が、画面の向こうでは、私に愛を叫んでくれているとしたら?
その矛盾した事実に、私はどう向き合えばいいのだろう。
夕暮れのカフェの中、答えの出ない問いだけが、私の頭の中をぐるぐると巡っていた。
カイくんが口ずさんでいた鼻歌の一件以来、私の心は、晴れない霧の中にいるみたいだった。
彼の何気ない仕草ひとつひとつに、過剰に反応してしまう自分がいる。彼がスマホを触っていれば「もしかしてルルの配信を?」なんて考えてしまい、すぐに「自意識過剰だ」と頭を振る。疑念と自己嫌悪のシーソーゲームは、私の心をすり減らしていった。
その日も、私はバックヤードでグラスを拭く作業に追われていた。
フロアからは、楽しげな会話と、食器の触れ合う音が微かに聞こえてくる。平日の昼下がり。カフェ『夕凪』は、穏やかな時間の中にあった。
その平穏を破ったのは、ドアベルの軽やかな音とともに現れた、三人の男子大学生だった。
「いらっしゃいませー」
カイくんの、いつも通りの低い声がフロアに響く。私も慌ててバックヤードから顔を出し、会釈をした。
彼らは店の一番奥のテーブル席に陣取ると、メニューを広げながら、大きな声で話し始めた。その会話の内容が、私の耳に届いた瞬間、心臓が凍りついた。
「てか、昨日のルルの配信、見た? マジで神回だったよな!」
「見た見た! 恋愛ゲームのやつだろ? 嫉妬してるセバスチャンに、ルルがタジタジになってんの、最高に可愛かったわ」
ルル。セバスチャン。
聞き慣れた、けれど、この場所では決して聞きたくなかった単語の連続に、私の思考は完全に停止する。血の気が、さあっと引いていくのが分かった。
手に持っていたグラスが、つるりと滑り落ちそうになる。慌てて胸に抱きかかえるようにして、なんとか最悪の事態は免れた。
(どうしよう、どうしよう……!)
パニックに陥る私を、現実に引き戻したのは、カイくんの冷たい視線だった。彼はフロアから、バックヤードで固まる私を、射抜くように見つめている。その目は「さっさと仕事に戻れ」と、雄弁に物語っていた。
私は弾かれたように、再びグラスを磨き始める。けれど、意識はすべて、彼らの会話に吸い寄せられていた。
「しかし、セバスチャンって何者なんだろうな。毎回、赤スパだろ? 社会人なのかな」
「ルルへの愛が深すぎる。俺らみたいな学生のお小遣いじゃ、到底太刀打ちできねえよ」
彼らの会話は、すべて私の配信に関するものだった。まるで、自分の秘密が、白日の下に晒されているような感覚。息が苦しい。この場から、今すぐ逃げ出したい。
そんな私の葛藤など知る由もなく、彼らの一人が、さらに声を弾ませた。
「でもさ、俺、思うんだよね。ルルって、ガワも声も可愛いけど、たまに見せる、あの素の部分が一番の魅力じゃない?」
「あー、分かる! ちょっとドジだったり、焦って早口になったりするところな」
「そうそう! なんか、放っておけないっていうかさ。守ってあげたくなるんだよな」
その言葉に、私はハッとした。
素の私。ドジで、要領が悪くて、いつもおどおどしている、本城凪。
それは、私が一番隠したい、嫌いな部分のはずだった。でも、彼らは、そんな私の姿を「魅力だ」と言ってくれている。
画面の向こう側では、私の欠点さえも、愛すべき個性として受け入れられている。その事実に、胸の奥が、じんと熱くなった。
その時だった。
注文を取り終えたカイくんが、私の隣のカウンターに伝票を置いた。その横顔は、いつもと同じ、無表情。けれど、私は見てしまった。彼が伝票を置く指先が、ほんの僅かに、震えていたのを。そして、固く結ばれた唇が、何かをこらえるように、微かに動いたのを。
(……気のせい? いや、でも……)
彼は、あの大学生たちの会話を、どんな気持ちで聞いていたのだろう。
自分と同じ「ルル推し」の会話を。そして、自分が「セバスチャン」として崇められている、その現場を。
やがて、大学生たちは満足げにコーヒーを飲み干し、会計を済ませて店を出て行った。
嵐が過ぎ去ったあとの店内は、元の静けさを取り戻している。けれど、私の心の中は、いまだに荒れ狂う嵐の真っ只中にいた。
「本城さん」
不意に、名前を呼ばれる。
顔を上げると、カイくんが、空になったシュガーポットを私に突きつけていた。
「これ、補充しといて。さっきから、ずっと手が止まってるけど。何か考え事?」
その声は、やっぱり冷たい。私の内面を見透かすような、鋭い視線。
でも、今の私には、その冷たさの奥に、ほんの少しだけ、別の感情が隠れているように思えてならなかった。それは、動揺、だろうか。それとも――。
「……すみません。すぐやります」
私は、彼からシュガーポットを受け取った。触れ合った指先が、やけに熱い。
彼がセバスチャンだなんて、そんなまさか。ありえない。
でも、もし、万が一、そうだとしたら?
いつも私に冷たい彼が、画面の向こうでは、私に愛を叫んでくれているとしたら?
その矛盾した事実に、私はどう向き合えばいいのだろう。
夕暮れのカフェの中、答えの出ない問いだけが、私の頭の中をぐるぐると巡っていた。
0
あなたにおすすめの小説
Blue Bird ―初恋の人に再会したのに奔放な同級生が甘すぎるっ‼【完結】
remo
恋愛
「…溶けろよ」 甘く響くかすれた声と奔放な舌にどこまでも落とされた。
本宮 のい。新社会人1年目。
永遠に出来そうもない彼氏を夢見つつ、目の前の仕事に奮闘中。
なんだけど。
青井 奏。
高校時代の同級生に再会した。 と思う間もなく、
和泉 碧。
初恋の相手らしき人も現れた。
幸せの青い鳥は一体どこに。
【完結】 ありがとうございました‼︎
お隣さんはヤのつくご職業
古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。
残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。
元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。
……え、ちゃんとしたもん食え?
ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!!
ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ
建築基準法と物理法則なんて知りません
登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。
2020/5/26 完結
狼隊長さんは、私のやわはだのトリコになりました。
汐瀬うに
恋愛
目が覚めたら、そこは獣人たちの国だった。
元看護師の百合は、この世界では珍しい“ヒト”として、狐の婆さんが仕切る風呂屋で働くことになる。
与えられた仕事は、獣人のお客を湯に通し、その体を洗ってもてなすこと。
本来ならこの先にあるはずの行為まで求められてもおかしくないのに、百合の素肌で背中を撫でられた獣人たちは、皆ふわふわの毛皮を揺らして眠りに落ちてしまうのだった。
人間の肌は、獣人にとって子犬の毛並みのようなもの――そう気づいた時には、百合は「眠りを売る“やわはだ嬢”」として静かな人気者になっていた。
そんな百合の元へある日、一つの依頼が舞い込む。
「眠れない狼隊長を、あんたの手で眠らせてやってほしい」
戦場の静けさに怯え、目を閉じれば仲間の最期がよみがえる狼隊長ライガ。
誰よりも強くあろうとする男の震えに触れた百合は、自分もまた失った人を忘れられずにいることを思い出す。
やわらかな人肌と、眠れない心。
静けさを怖がるふたりが、湯気の向こうで少しずつ寄り添っていく、獣人×ヒトの異世界恋愛譚。
[こちらは以前あげていた「やわはだの、お風呂やさん」の改稿ver.になります]
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる