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第4話 土砂降りの夜と、温かいココア
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あの一件以来、私とカイくんの間の空気は、薄いガラス板を一枚挟んだように、ぎこちなく張り詰めていた。
バックヤードで二人きりになる時間は、針の筵に座っているかのようだ。必要最低限の業務連絡以外、会話はない。ただ、時折、彼の視線が私の手元に注がれているのを感じて、そのたびに心臓が跳ねた。彼は何を考えているのだろう。私の正体を、どこまで疑っているのだろうか。
そんな緊張を抱えたまま、私たちは閉店作業を迎えていた。
最後の客が帰り、ドアに『CLOSED』の札をかける。フロアの椅子をテーブルに上げ、床を掃き清めていく。いつもと同じ、けれど、いつもよりずっと長く感じる作業。
「……本城さん、そこのゴミ、まとめといて」
「は、はい」
カイくんの声に、びくりと肩が揺れる。彼に背を向けたまま、ゴミ袋の口を縛った。その時だった。
ざあっと、窓ガラスを叩きつける激しい音が店内に響いた。さっきまで星が瞬いていた夜空から、まるでバケツをひっくり返したような、猛烈な雨が降り注いできたのだ。
「うわ、すごい雨……」
思わず、声が漏れた。窓の外は、黒いインクをぶちまけたように、何も見えない。ただ、叩きつける雨音だけが、世界を支配していた。
「……天気予報、雨なんて言ってなかったのに」
カイくんが、ぼそりと呟く。その声には、珍しく、困惑の色が滲んでいた。
彼は入り口のドアに手をかけ、少しだけ外の様子を伺ったが、すぐに諦めたように手を離した。
「これじゃ、帰れないな。少し、ここで雨宿りするか」
「え……」
二人きり、このカフェで?
その事実に、私の心臓は、また大きく音を立てた。
彼は私の動揺に気づく様子もなく、バックヤードへ消えていく。やがて、二つのマグカップを持って戻ってきた。湯気の立つ、甘い香りのココアだった。
「……これでも飲んで、待ってなよ。体、冷えるだろ」
ぶっきらぼうな口調は、いつもと同じ。けれど、差し出されたマグカップは、じんわりと温かかった。その温もりが、凍えた私の指先から、ゆっくりと心にまで沁みていく。
「あ、ありがとうございます……」
お礼を言うのが、やっとだった。
私たちは、カウンター席に並んで腰掛けた。間に三席ほどの距離を空けて。雨音だけが、沈黙を埋めていく。
温かいココアを一口飲むと、緊張で強張っていた体が、少しだけほぐれるのを感じた。
「本城さんってさ」
不意に、カイくんが口を開いた。
「なんで、ここでバイトしようと思ったの」
予想外の質問だった。私は、マグカップを握りしめたまま、言葉に詰まる。
(自分を変えたかったから、なんて、言えるわけない……)
「えっと……家が、近いから、とか……」
「ふうん」
しどろもどろな私の答えに、彼はそれ以上、何も聞いてこなかった。ただ、静かにココアを飲んでいる。その横顔を、盗み見る。
窓の外の激しい雨を映す彼の瞳は、いつも私に向けられる鋭い光とは違って、どこか遠くを見ているように、穏やかだった。
「相田さんは……どうして、ここで?」
気づけば、私はそんな質問を口にしていた。
彼は少しだけ驚いたように私を見ると、ふっと、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑った、というよりは、表情が和らいだ、という方が近い。
「……ここのコーヒー、美味いから。マスターの淹れるコーヒーが、好きなんだ」
それは、とても意外な答えだった。
もっと、時給がいいからとか、そういう合理的な理由だと思っていた。彼が、そんな風に純粋な「好き」という気持ちで、物事を選ぶなんて。
「そう、なんですね……」
なんだか、胸が温かくなる。
彼がセバスチャンかもしれないという疑念が、頭の片隅でまだ燻っている。でも、今、目の前にいるのは、ただのクールな同僚でも、画面越しの王子様でもない。
美味しいコーヒーが好きで、不器用な優しさを見せる、一人の男の子だった。
「……本城さんは、何か、夢中になってるものとか、ないの」
今度は、彼の声が、少しだけ探るような響きを帯びた。
私の心臓が、どきりと跳ねる。これは、罠だろうか。ルルのことに、誘導しようとしているのだろうか。
「ゆ、夢中になってるもの、ですか……?」
「……例えば、ネットとか。ゲームとか、配信見たりとか」
核心に迫る言葉。
私は、息を呑んだ。顔が、一気に熱くなる。
何か、答えなければ。でも、どんな顔をして、何を言えばいいのか分からない。
私が答えに窮していると、彼は、はっとしたように視線を逸らした。
「……いや、悪い。変なこと聞いた」
そう言って、彼は残りのココアを一気に飲み干すと、立ち上がった。
気まずい沈黙が、再び私たちの間に落ちる。
彼のあの質問は、やはり、私を試していたのだろうか。それとも――。
雨足が、少しだけ弱まってきた。
もうすぐ、この奇妙な雨宿りの時間も終わる。
私は、まだ温かいマグカップを両手で包み込んだ。答えの出ない問いと、胸に残るココアの甘さ。そして、初めて見た彼の穏やかな横顔が、私の心の中を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜていた。
バックヤードで二人きりになる時間は、針の筵に座っているかのようだ。必要最低限の業務連絡以外、会話はない。ただ、時折、彼の視線が私の手元に注がれているのを感じて、そのたびに心臓が跳ねた。彼は何を考えているのだろう。私の正体を、どこまで疑っているのだろうか。
そんな緊張を抱えたまま、私たちは閉店作業を迎えていた。
最後の客が帰り、ドアに『CLOSED』の札をかける。フロアの椅子をテーブルに上げ、床を掃き清めていく。いつもと同じ、けれど、いつもよりずっと長く感じる作業。
「……本城さん、そこのゴミ、まとめといて」
「は、はい」
カイくんの声に、びくりと肩が揺れる。彼に背を向けたまま、ゴミ袋の口を縛った。その時だった。
ざあっと、窓ガラスを叩きつける激しい音が店内に響いた。さっきまで星が瞬いていた夜空から、まるでバケツをひっくり返したような、猛烈な雨が降り注いできたのだ。
「うわ、すごい雨……」
思わず、声が漏れた。窓の外は、黒いインクをぶちまけたように、何も見えない。ただ、叩きつける雨音だけが、世界を支配していた。
「……天気予報、雨なんて言ってなかったのに」
カイくんが、ぼそりと呟く。その声には、珍しく、困惑の色が滲んでいた。
彼は入り口のドアに手をかけ、少しだけ外の様子を伺ったが、すぐに諦めたように手を離した。
「これじゃ、帰れないな。少し、ここで雨宿りするか」
「え……」
二人きり、このカフェで?
その事実に、私の心臓は、また大きく音を立てた。
彼は私の動揺に気づく様子もなく、バックヤードへ消えていく。やがて、二つのマグカップを持って戻ってきた。湯気の立つ、甘い香りのココアだった。
「……これでも飲んで、待ってなよ。体、冷えるだろ」
ぶっきらぼうな口調は、いつもと同じ。けれど、差し出されたマグカップは、じんわりと温かかった。その温もりが、凍えた私の指先から、ゆっくりと心にまで沁みていく。
「あ、ありがとうございます……」
お礼を言うのが、やっとだった。
私たちは、カウンター席に並んで腰掛けた。間に三席ほどの距離を空けて。雨音だけが、沈黙を埋めていく。
温かいココアを一口飲むと、緊張で強張っていた体が、少しだけほぐれるのを感じた。
「本城さんってさ」
不意に、カイくんが口を開いた。
「なんで、ここでバイトしようと思ったの」
予想外の質問だった。私は、マグカップを握りしめたまま、言葉に詰まる。
(自分を変えたかったから、なんて、言えるわけない……)
「えっと……家が、近いから、とか……」
「ふうん」
しどろもどろな私の答えに、彼はそれ以上、何も聞いてこなかった。ただ、静かにココアを飲んでいる。その横顔を、盗み見る。
窓の外の激しい雨を映す彼の瞳は、いつも私に向けられる鋭い光とは違って、どこか遠くを見ているように、穏やかだった。
「相田さんは……どうして、ここで?」
気づけば、私はそんな質問を口にしていた。
彼は少しだけ驚いたように私を見ると、ふっと、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑った、というよりは、表情が和らいだ、という方が近い。
「……ここのコーヒー、美味いから。マスターの淹れるコーヒーが、好きなんだ」
それは、とても意外な答えだった。
もっと、時給がいいからとか、そういう合理的な理由だと思っていた。彼が、そんな風に純粋な「好き」という気持ちで、物事を選ぶなんて。
「そう、なんですね……」
なんだか、胸が温かくなる。
彼がセバスチャンかもしれないという疑念が、頭の片隅でまだ燻っている。でも、今、目の前にいるのは、ただのクールな同僚でも、画面越しの王子様でもない。
美味しいコーヒーが好きで、不器用な優しさを見せる、一人の男の子だった。
「……本城さんは、何か、夢中になってるものとか、ないの」
今度は、彼の声が、少しだけ探るような響きを帯びた。
私の心臓が、どきりと跳ねる。これは、罠だろうか。ルルのことに、誘導しようとしているのだろうか。
「ゆ、夢中になってるもの、ですか……?」
「……例えば、ネットとか。ゲームとか、配信見たりとか」
核心に迫る言葉。
私は、息を呑んだ。顔が、一気に熱くなる。
何か、答えなければ。でも、どんな顔をして、何を言えばいいのか分からない。
私が答えに窮していると、彼は、はっとしたように視線を逸らした。
「……いや、悪い。変なこと聞いた」
そう言って、彼は残りのココアを一気に飲み干すと、立ち上がった。
気まずい沈黙が、再び私たちの間に落ちる。
彼のあの質問は、やはり、私を試していたのだろうか。それとも――。
雨足が、少しだけ弱まってきた。
もうすぐ、この奇妙な雨宿りの時間も終わる。
私は、まだ温かいマグカップを両手で包み込んだ。答えの出ない問いと、胸に残るココアの甘さ。そして、初めて見た彼の穏やかな横顔が、私の心の中を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜていた。
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