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第5話 落とし物と、揺れる確信
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あの土砂降りの夜から、カイくんの纏う空気が少しだけ変わったように感じられた。
相変わらず口数は少なく、私への指示は端的で冷たい響きを帯びている。けれど、以前のような、私という存在そのものを拒絶するような鋭利な冷たさではなかった。まるで、凍てついた湖の表面が、春の陽射しでほんの少しだけ緩み始めたような、そんな微かな変化。
私も私で、彼をまともに見ることができなくなっていた。
カウンター越しにコーヒーを淹れる彼の、節くれだった指先。真剣な眼差しで豆を挽く横顔。ふとした瞬間に、あの夜の、穏やかな光を宿した瞳が思い出されて、心臓が勝手に跳ねる。そのたびに私は慌てて視線を逸らし、お皿を割らないように、カップを落とさないように、自分の作業に意識を集中させるのだった。
私たちの間には、言葉にならない感情が霧のように立ち込めて、気まずさと、ほんの少しの居心地の良さが混じり合った、奇妙な時間が流れていた。
その日も、私たちは二人きりで閉店作業をしていた。
西日が差し込む店内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。床に落ちた影が、時間の経過とともにゆっくりと形を変えていく。私はモップをかけながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「本城さん」
「は、はいっ」
不意に呼ばれて、私は蛙のように間の抜けた声を出してしまった。カイくんが、訝しげな顔でこちらを見ている。
「それ、終わったら先に上がっていいよ。あとは俺がやっとくから」
「え、でも……」
「いいから」
有無を言わせない口調。けれど、その声には、棘がなかった。それは紛れもない、彼の気遣いだった。先日の雨の夜、私が疲れた顔をしていたのを、気にしてくれているのだろうか。
「……ありがとうございます。お先に失礼します」
私は深く頭を下げると、急いでバックヤードへ向かった。エプロンを外し、自分のトートバッグを手に取る。なんだか、彼の視線から一刻も早く逃げ出したかった。彼の優しさに触れるたびに、胸の奥でざわめきが大きくなっていくのが、怖かったのだ。
「お疲れ様でした」
もう一度、彼に背を向けたまま挨拶をして、カフェのドアノブに手をかける。その時だった。トートバッグの口から、何かが滑り落ちたことに、私は全く気づかなかった。カタン、と床の上で小さな音がしたことさえも。
私の頭の中は、今夜の配信のこと、そしてカイくんのことで、もう飽和状態だったのだ。
◇
本城凪が帰っていった後の、静寂に包まれた店内。
カイは、最後の一脚をテーブルに上げると、ふう、と一つ息をついた。
(……あいつ、ちゃんと飯食ってんのかな)
最近の彼女は、どこか上の空で、顔色もあまり良くない。ただでさえ細い体が、さらに頼りなく見えて、つい、過保護なことを考えてしまう。
いつもの自分なら、他人に、ましてや仕事のできない新人に、こんな感情を抱くはずがないのに。
カイは自嘲気味に首を振ると、フロアの見回りを始めた。消し忘れた照明はないか。汚れたままのテーブルはないか。完璧主義の彼の目は、どんな些細な見落としも許さない。
そして、彼はそれを見つけた。
一番奥のテーブル席の、その足元に、何かが落ちている。
最初は、客の忘れ物かと思った。拾い上げようと屈み込んで、その小さな物体を指でつまみ上げた瞬間、カイの全身に、電流が走ったような衝撃が突き抜けた。
「……これ、は」
声が、掠れた。
それは、手のひらに収まるほど小さな、アクリルキーホルダーだった。
けれど、ただのキーホルダーではない。そこに描かれているのは、丸っこいウサギのような、不思議な生き物。ピンク色の体に、星の飾りがついた、長い耳。
――VTuber『ルル』の配信画面の隅で、いつもぴょこぴょこと跳ねている、彼女の公式マスコットキャラクター、『るるぴょん』。
カイの心臓が、警鐘のように激しく鳴り響く。
おかしい。こんなグッズは、公式からは販売されていない。カイはルルの熱狂的なファンだ。彼女のグッズは、全て把握している自負がある。こんな、手作り感のある、非公式のキーホルダーは、見たことがない。
だとしたら、これは一体……?
カイは、キーホルダーを握りしめたまま、フラフラと立ち上がった。
脳裏に、いくつもの光景が、堰を切ったように蘇る。
あの日、自分が無意識に口ずさんでいた、ルルの歌。それに、過剰なほどに反応した、本城凪の姿。
カフェで、他の客がルルの話をしている時の、彼女の尋常ではないうろたえぶり。
そして、先日の雨の夜。
『何か、夢中になってるものとか、ないの』
そう聞いた時の、全てを見透かされたかのように、真っ赤になって固まった彼女の顔。
点と点が、線として繋がっていく。
ありえない、と否定する理性と、まさか、と期待する感情が、頭の中で激しくぶつかり合う。
本城凪は、地味で、内気で、いつもおどおどしている。
ルルは、明るくて、元気で、太陽みたいに笑う。
正反対だ。あまりにも、違いすぎる。
けれど。
たまに、ルルが見せる素の表情。
ゲームで失敗して、本気で悔しがるところ。リスナーの温かいコメントに、感極まって、言葉を詰まらせるところ。ドジをして、慌てて早口で言い訳をするところ。
その姿が、不器用で、要領が悪くて、いつも一生懸命な、本城凪の姿と、奇妙に重なった。
「……まさか」
カイは、誰もいないカフェで、呆然と立ち尽くす。
握りしめたキーホルダーが、彼の汗でじっとりと濡れていた。
◇
その頃、本城凪は、自室でパソコンの前に座っていた。
もちろん、自分の大切な落とし物のことなど、微塵も気づいていない。
画面の中では、もう一人の私、VTuberのルルが、元気いっぱいに笑っている。
『みんなー! 今夜も来てくれてありがとー! 今日はね、みんなからのお便りをたくさん読んでいくよー!』
いつも通りの、ハイテンションな挨拶。
けれど、心のどこかが、まだカフェに置いてきたみたいに、ふわふわと落ち着かない。カイくんの、あの優しいとも取れる態度が、私の心をかき乱す。
コメント欄を眺めていると、見慣れた名前が目に飛び込んできた。
セバスチャン:『ルル、こんばんは。今日も会えて嬉しいよ』
彼のコメントだ。いつもなら、もっと情熱的な言葉が並ぶのに、今日はなんだか、とても静かだ。
私は、胸のざわめきを押し殺すように、明るい声を作った。
「あ、セバスチャンさん、こんばんるるー! 今日も来てくれてありがとう! 嬉しいな!」
配信は、順調に進んでいった。リスナーからの面白いお便りに笑ったり、真剣な悩みに、私なりに言葉を尽くして答えたり。
セバスチャンさんは、いつもより口数は少なかったけれど、それでも、時折、私の言葉に相槌を打つような、優しいコメントをくれた。
そして、配信の終わりが近づいた頃だった。
私が「それじゃあ、そろそろ……」と締めの一言を言おうとした瞬間、彼の名前が、再びコメント欄に現れた。
セバスチャン:『ルル。もし君が、何かを失くして、不安な気持ちでいるのなら』
セバスチャン:『大丈夫。それは、きっと、一番大切な人のところに届いているから』
意味深な言葉。
それは、一体、どういう意味だろう。
失くし物? 私、何か失くしたっけ?
彼の言葉は、まるで、今日の私の心を見透かしているかのようだった。いや、それ以上に、何か、私がまだ知らない、重大な秘密を、彼が握っているかのような。
「え……? セバスチャンさん……?」
私の問いかけに、彼が答えることはなかった。
ただ、その謎めいた言葉だけが、私の胸に、重たい石のように、ずしりと沈んでいった。
相変わらず口数は少なく、私への指示は端的で冷たい響きを帯びている。けれど、以前のような、私という存在そのものを拒絶するような鋭利な冷たさではなかった。まるで、凍てついた湖の表面が、春の陽射しでほんの少しだけ緩み始めたような、そんな微かな変化。
私も私で、彼をまともに見ることができなくなっていた。
カウンター越しにコーヒーを淹れる彼の、節くれだった指先。真剣な眼差しで豆を挽く横顔。ふとした瞬間に、あの夜の、穏やかな光を宿した瞳が思い出されて、心臓が勝手に跳ねる。そのたびに私は慌てて視線を逸らし、お皿を割らないように、カップを落とさないように、自分の作業に意識を集中させるのだった。
私たちの間には、言葉にならない感情が霧のように立ち込めて、気まずさと、ほんの少しの居心地の良さが混じり合った、奇妙な時間が流れていた。
その日も、私たちは二人きりで閉店作業をしていた。
西日が差し込む店内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。床に落ちた影が、時間の経過とともにゆっくりと形を変えていく。私はモップをかけながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「本城さん」
「は、はいっ」
不意に呼ばれて、私は蛙のように間の抜けた声を出してしまった。カイくんが、訝しげな顔でこちらを見ている。
「それ、終わったら先に上がっていいよ。あとは俺がやっとくから」
「え、でも……」
「いいから」
有無を言わせない口調。けれど、その声には、棘がなかった。それは紛れもない、彼の気遣いだった。先日の雨の夜、私が疲れた顔をしていたのを、気にしてくれているのだろうか。
「……ありがとうございます。お先に失礼します」
私は深く頭を下げると、急いでバックヤードへ向かった。エプロンを外し、自分のトートバッグを手に取る。なんだか、彼の視線から一刻も早く逃げ出したかった。彼の優しさに触れるたびに、胸の奥でざわめきが大きくなっていくのが、怖かったのだ。
「お疲れ様でした」
もう一度、彼に背を向けたまま挨拶をして、カフェのドアノブに手をかける。その時だった。トートバッグの口から、何かが滑り落ちたことに、私は全く気づかなかった。カタン、と床の上で小さな音がしたことさえも。
私の頭の中は、今夜の配信のこと、そしてカイくんのことで、もう飽和状態だったのだ。
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本城凪が帰っていった後の、静寂に包まれた店内。
カイは、最後の一脚をテーブルに上げると、ふう、と一つ息をついた。
(……あいつ、ちゃんと飯食ってんのかな)
最近の彼女は、どこか上の空で、顔色もあまり良くない。ただでさえ細い体が、さらに頼りなく見えて、つい、過保護なことを考えてしまう。
いつもの自分なら、他人に、ましてや仕事のできない新人に、こんな感情を抱くはずがないのに。
カイは自嘲気味に首を振ると、フロアの見回りを始めた。消し忘れた照明はないか。汚れたままのテーブルはないか。完璧主義の彼の目は、どんな些細な見落としも許さない。
そして、彼はそれを見つけた。
一番奥のテーブル席の、その足元に、何かが落ちている。
最初は、客の忘れ物かと思った。拾い上げようと屈み込んで、その小さな物体を指でつまみ上げた瞬間、カイの全身に、電流が走ったような衝撃が突き抜けた。
「……これ、は」
声が、掠れた。
それは、手のひらに収まるほど小さな、アクリルキーホルダーだった。
けれど、ただのキーホルダーではない。そこに描かれているのは、丸っこいウサギのような、不思議な生き物。ピンク色の体に、星の飾りがついた、長い耳。
――VTuber『ルル』の配信画面の隅で、いつもぴょこぴょこと跳ねている、彼女の公式マスコットキャラクター、『るるぴょん』。
カイの心臓が、警鐘のように激しく鳴り響く。
おかしい。こんなグッズは、公式からは販売されていない。カイはルルの熱狂的なファンだ。彼女のグッズは、全て把握している自負がある。こんな、手作り感のある、非公式のキーホルダーは、見たことがない。
だとしたら、これは一体……?
カイは、キーホルダーを握りしめたまま、フラフラと立ち上がった。
脳裏に、いくつもの光景が、堰を切ったように蘇る。
あの日、自分が無意識に口ずさんでいた、ルルの歌。それに、過剰なほどに反応した、本城凪の姿。
カフェで、他の客がルルの話をしている時の、彼女の尋常ではないうろたえぶり。
そして、先日の雨の夜。
『何か、夢中になってるものとか、ないの』
そう聞いた時の、全てを見透かされたかのように、真っ赤になって固まった彼女の顔。
点と点が、線として繋がっていく。
ありえない、と否定する理性と、まさか、と期待する感情が、頭の中で激しくぶつかり合う。
本城凪は、地味で、内気で、いつもおどおどしている。
ルルは、明るくて、元気で、太陽みたいに笑う。
正反対だ。あまりにも、違いすぎる。
けれど。
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ゲームで失敗して、本気で悔しがるところ。リスナーの温かいコメントに、感極まって、言葉を詰まらせるところ。ドジをして、慌てて早口で言い訳をするところ。
その姿が、不器用で、要領が悪くて、いつも一生懸命な、本城凪の姿と、奇妙に重なった。
「……まさか」
カイは、誰もいないカフェで、呆然と立ち尽くす。
握りしめたキーホルダーが、彼の汗でじっとりと濡れていた。
◇
その頃、本城凪は、自室でパソコンの前に座っていた。
もちろん、自分の大切な落とし物のことなど、微塵も気づいていない。
画面の中では、もう一人の私、VTuberのルルが、元気いっぱいに笑っている。
『みんなー! 今夜も来てくれてありがとー! 今日はね、みんなからのお便りをたくさん読んでいくよー!』
いつも通りの、ハイテンションな挨拶。
けれど、心のどこかが、まだカフェに置いてきたみたいに、ふわふわと落ち着かない。カイくんの、あの優しいとも取れる態度が、私の心をかき乱す。
コメント欄を眺めていると、見慣れた名前が目に飛び込んできた。
セバスチャン:『ルル、こんばんは。今日も会えて嬉しいよ』
彼のコメントだ。いつもなら、もっと情熱的な言葉が並ぶのに、今日はなんだか、とても静かだ。
私は、胸のざわめきを押し殺すように、明るい声を作った。
「あ、セバスチャンさん、こんばんるるー! 今日も来てくれてありがとう! 嬉しいな!」
配信は、順調に進んでいった。リスナーからの面白いお便りに笑ったり、真剣な悩みに、私なりに言葉を尽くして答えたり。
セバスチャンさんは、いつもより口数は少なかったけれど、それでも、時折、私の言葉に相槌を打つような、優しいコメントをくれた。
そして、配信の終わりが近づいた頃だった。
私が「それじゃあ、そろそろ……」と締めの一言を言おうとした瞬間、彼の名前が、再びコメント欄に現れた。
セバスチャン:『ルル。もし君が、何かを失くして、不安な気持ちでいるのなら』
セバスチャン:『大丈夫。それは、きっと、一番大切な人のところに届いているから』
意味深な言葉。
それは、一体、どういう意味だろう。
失くし物? 私、何か失くしたっけ?
彼の言葉は、まるで、今日の私の心を見透かしているかのようだった。いや、それ以上に、何か、私がまだ知らない、重大な秘密を、彼が握っているかのような。
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