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婚約解消
* * *
ヴェルディナード侯爵領は王都と接し、大きな街道で繋がれている。
それでも領地の屋敷までは、馬車で半日以上かかる。
「今夜は王都の屋敷に泊まっていくよ」
「王都のお屋敷ですか……」
「そうだよ。アイリスが来るのは初めてだね」
「ええ……そうですね」
やり直し前は、王都のお屋敷にも何度か訪れたことがある。
すでに月は昇り、白い薔薇が咲き誇る庭園を柔らかく照らしている。
ヴェルディナード侯爵家の王都の屋敷の庭は、王城の庭園にも引けを取らない美しさだ。
(あのときのことを思い出すわ……)
吹く風は、冬の訪れを予感させる肌寒いものだ。
やり直す前、そして今から約六年後、この庭で義兄から婚約解消を告げられたときも、同じように冷たい風が吹いていた。
馬車から降りてふるりと肩をふるわせると、マントで包まれて抱き上げられる。
「ありがとうございます。お父様……」
「慣れない場所で急ににたくさんの人に囲まれてさぞや疲れただろう……。今夜はゆっくりお休み」
「はい……」
十二歳とはいえ、まだ思ったより体力が無いようだ。
抱き上げられて、ポカポカ温かくなると強い眠気が訪れる。
父の温かさが遠ざかっていく。
それと同時に、私は引きずり込まれるように夢の世界へと落ちていった。
* * *
「俺と君の婚約を解消してほしい」
それは、いつかは告げられると思っていた一言だった。
今この瞬間ですら、義兄と私の距離は手を伸ばしても届かないほどに遠いのだから……。
『これからは俺がアイリスを守ろう』
三年前、母に続き父まで失った悲しみに泣くことすらできない私を抱きしめて、確かに義兄はそう口にした。しかし、その言葉は聞き間違いだったと思えるほど、義兄は私と距離を置き、その後も話しかけてくることはなかった。
(守ってくれるというあの言葉は、お父様から受けた恩に報いるためのものよね……)
そう思いながらも、私にとってその言葉はかけがえのないものだった。
(お義兄様のことを慕っているのは私だけ……)
私は義兄にとって興味すら湧かない、視界に入れたくもないような人間なのだ。
婚約を解消したなら、義兄との繋がりは今以上に疎遠になることだろう。
義兄は父が亡くなってからほとんど王都の屋敷で過ごし、領地に戻ることはなくなっていた。
ヴェルディナード侯爵家の家事は今でも伯母が取り仕切っていて、私にはどこにも居場所がない。
「わかりました……。婚約解消を受け入れます」
きっと今の私なら義兄の本心を問いただすだろう。
今思えば、あのときの義兄の目は何かを覚悟しているようだった……。
けれどなにもかも諦めきってしまった私はその事実から目を背け、婚約解消を受け入れてしまったのだ。
* * *
目が覚めると、見慣れない部屋に一人寝かされていた。
(婚約解消されたけれど、提案された解消後の保証は申し分ないものだった……)
それでも、当時は決められた婚約を解消するほど私のことが嫌いなのだとしか思わなかった。
今受ける印象はあのときとは真逆だ……。
義兄は私のことを守ろうとしたに違いない……今は、そうとしか思えないのだ。
(全て思い違いで、本当に嫌われていたのかもしれないけれど。それにしても、ひどく喉が渇いたわ……)
ベッドから起き上がる。カーテンの隙間から覗いてみればすでに外はなにも見えないほど真っ暗だった。
寝かされていた部屋には扉が二つある。一つは恐らく廊下に続く出口だろう。
もう一つの扉は、隣の部屋に繋がっているようだ。
(お父様の部屋に寝かされていたようね……。たぶん、隣は執務室だわ)
執務室へ続く扉は少しだけ開けられていて、薄らと明かりが漏れ出していた。
喉の渇きは耐えがたく、水を求めて明かりのほうへと歩み寄る。
(……婚約破棄から三日後、探し出したお義兄様はひどい傷を負っていたわ)
あのとき、どうして義兄を探していたのか思い出すことはできない。
失われた記憶の代わりに残されているのは、悲しみと後悔……あのときの感情の欠片らしきものだけだ。
(今のお義兄様は、私のことを大事にしてくれる……過保護すぎるほどに。だからこそ、どうして私を遠ざけていたのか、そればかりが気になるの)
明かりが漏れ出す扉にふらふらと近づいていくと、父の怒りをこらえるような声が聞こえてきた。
「あの王子、今度はアイリスを奪おうというのか」
「父上、王族に対しそのような不敬を……」
「何が不敬なものか。在学中も君が手にするはずだった栄誉を全て奪ったじゃないか。もちろん当時は王族が誰かより劣っているわけにはいかないだろうと目を瞑ったが……まさか、アイリスに興味を示すとは」
「……まだ、そうと決まったわけではありません」
「――そう言いながら君、あの王子を見送るとき射殺すような目をしていたよ。僕が陛下への挨拶を中断して駆けつけようか迷うほどに」
「……」
室内が沈黙に包まれる。
少しだけ違和感を覚えていたのだ。
何をしても完璧すぎる義兄が、学園では次席に甘んじていたことを……。
(少しだけ……何かが繋がった気がする)
喉はますます渇くばかりだ……。
けれど私は、扉の前から引き返し、もう一度ベッドへと潜り込んだのだった。
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