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篠田を焼肉屋に連れていった夜。
ああいう会話になり、すっかり口数の少なくなってしまった篠田と別れた五十嵐は、表情を動かすことなくひたすら自分の部屋に向かい歩いた。
自分を追いかけてくるたまらなく苦い感情を、必死に振り切るように。
「——あんな言い方、したかったはずがないだろう」
拳を固く結び、五十嵐は喉の奥で呟く。
ただ——
彼が、自分自身の気持ちとちゃんと向き合ってこの先を選択するためには……ああいう言い方をする以外なかった。
——君は、知らないだろう。
恐らく君が待っていたその言葉を、俺がどれだけ言いたかったか。
……「そんな話は断ってくれ」と。
どれだけ、言ってしまいたかったか。
俺の側にいて欲しい、と。
言えるわけがないのに。
君が他の女の子から想いを寄せられている、そんな大きな幸せを妨害したりなど——俺にできるわけがないのに。
恋をすれば自然に求め合うはずの悦びを、俺は何一つ、君に与えてやれないのだから。
君は、残酷だ。
あんな戸惑うような目をして、俺の答えを待ち望むなんて——
自分自身の想いすら、しっかり見極められていないくせに。
いっそ、君が自分から、「彼女ができるからあなたとは終わりだ」とでも言ってくれれば、どれほど楽か。
俺は結局、自分から君を突き放した。
そして俺も——多分、この道を選ぶ以外にないんだ。
瞳の奥に、にわかに何かがこみ上げそうになるのを、五十嵐は自嘲するかのように微笑みながらきつく押し殺した。
部屋に入り、ビジネスバッグを机に置くと、五十嵐は何かに追い立てられるようにスマホを取り出し、通話ボタンを押す。
連絡先は、父のスマホだ。
『——おお、廉か。
どうした?』
「——父さんの言ってた話……受けるから」
『……仲林さんの件か?
——そうか。そういう気持ちになってくれたか。
よかった。嬉しいよ』
父の安堵するようなため息が、その声の奥に感じられる。
「——……
全てを受諾するわけじゃありません。
ただ、もう一度彼女と会ってみるだけです」
『わかっている。
だが、お相手は非の打ち所のないお嬢さんだ。もう一度会って彼女をよく知れば、きっとお前の気持ちも動くさ。
——早速仲林さんの方にも伝えておくからな』
「——……じゃ」
躊躇っては、決心がつかない。
今すぐ篠田の元へ駆け戻って、全力で彼を抱き竦めてしまいそうな自分がいる。
それを断ち切ったこの気持ちでいる間に、父にそう伝えてしまわなければ。
どうせ、無視はできない話なのだ。
そんな父との短い通話を終え、机へ置こうとしたスマホへ、メッセージを知らせる着信音が鳴った。
篠田からだ。
『さっきは、ごちそうさまでした。
せっかく人気の焼肉屋に連れて行ってもらったのに、なんだか雰囲気悪くなっちゃって済みませんでした。
——佐々木さんの告白、受けようと思います』
「——……」
スマホをソファへ放り、自分自身の体もそこへ一緒に投げ出すと、五十嵐は天井を仰ぎ、しばらくじっと目を瞑る。
そして、ゆっくり瞼を開けた。
いつもと変わらぬ無表情が顔を覆う。
「——単純な話だろ。
届かないものにうっかり手を伸ばして——やはり届かないと、わかっただけだ」
*
五十嵐さんとそんなやりとりをした、翌週の金曜。
佐々木さんのお気に入りのカクテルバーで、俺は彼女の告白に頷いた。
五十嵐さんにあんなふうに言われたから、とかそんな情けない理由でOKしたわけじゃない。
告白されたからって、すぐに自分の気持ちがその相手に対してときめくようになるなんて、心はそんな都合のいい動きはしてくれない。
けれど——
暖かな場所からなんだか酷くひんやりとした暗がりへ突き放されたようなこの気持ちを、彼女はきっと救ってくれる。
彼女のあの元気な明るさの側にいたい。
気づけば俺は、そんなことを思った。
それに……
彼女は、言うまでもなく、女性だ。
五十嵐さんのたまらなく居心地のいい温もりに、自分がだんだんと深く埋もれてしまいそうな——ここ最近、心の奥でざわざわと鳴り続けていたその不可解な不安から、俺はふつりと解放されていた。
「——ほんとにいいの?」
俺の目を覗き込むように、佐々木さんは俺の答えを確認する。
「……え?」
「私、もしかしたら篠田くんを困らせてないかなって……実は告白してからずっと、少し心配だったんだ。
私、年上だし、こんな風に酒好きの飲んべえで、ふんわり女の子らしく可愛いところなんかないし……
穏やかで優しいあなたの好みに、全然合ってないんじゃないかなって」
「いえ……そんなことは」
「ねえ、ほんとに無理はしないで。なあーんか微妙だなあ、その不明瞭さ」
どこか自嘲気味に笑う彼女に、俺は真剣な表情で答えた。
「無理にあなたの気持ちに頷いたんじゃありません。……本当です。
いつも元気な笑顔とか、明るさとか、楽しさとか——あなたのそういう暖かさの側にいられたら、幸せだなと——そう思ったんです。
……あなたからそういうものをたくさんもらえたら、嬉しいです」
俺の言葉に、彼女は頬を綺麗な色に染めて、ぱっと微笑んだ。
「——ほんと?
うあー……そういう言葉聞けて、すっごく嬉しい。
なんだか少年みたいにピュアで真っ直ぐな篠田くんをいつかボキッとへし折っちゃうんじゃないかって、ちょっと心配だけど……大丈夫かな?」
「……
そっ……それは大丈夫……ですよね??」
「あははっ! そうならないように、ちゃんと大事にするからねっ♪
じゃ、プライベートでは篠田くんも敬語なんかやめて。思いっきり楽しくやろうよ♡
——改めて、乾杯」
そんな会話を交わし、やっと彼女はいつものように快活に笑った。
話題に事欠かない佐々木さんとのお喋りで、その後俺は終始笑いっぱなしだった。
適当に会話の切れたところで一緒に店を出て、ふわふわとした酔いに揺られながら彼女と別れた。
部屋に戻ると、時計は11時近くになっている。
余計なことなど考える間もない、明るく賑やかな数時間。
「——いいじゃないか、これで」
そんなことを一人呟きつつ、俺はソファにカバンをどさっと置くと冷蔵庫を開ける。
缶ビールを取り出すと、躊躇なくそのタブを開けた。
やたらに冷たく苦い刺激が、喉を過ぎる。
「……だから。
彼女は俺の望んだ通りの人じゃんか。
元気で明るくて、いつも楽しい空気を作ってくれて。
こういう悩みのない時間が欲しかったんだろ、俺は」
ブツブツと、勝手に言葉が口から漏れる。
それなのに、何か別の声が脳内でうるさい。
ぐーーっと乱暴にビールを呷った。
「……はあ?
なんかうるせーな。お前誰だよ??
……これでいいに決まってんじゃんか。ガタガタ騒ぐな。
今までずっとグダグダ悩んでたのはお前だろ? 悩みが去ってよかったじゃんか。彼女とならなんでもできんだろ、チューだってハグだってもっといろいろだってな!
——なんだかわからない沼に呑まれそうでずっと怖がってたのはお前だろーがっっ!!?」
一瞬で空になった缶をテーブルにガンっと打ち付ける。
——その時、不意にスマホが鳴り響いた。
『もしもーし。にいちゃん? 夜遅くごめんねー』
真琴だった。
『あのね、今度の土曜、友達と遊ぶ約束してにいちゃんの部屋の近くまで行くんだけど、ついでに寄っていい? 可愛い妹がデートしてあげるよ~♡
その代わり、にいちゃんの会社の近くに今すごい人気のイタリアンあるらしいじゃん? 夕飯ご馳走してよー♪♪』
「…………」
『……もしもーし? にいちゃん聞いてるー??』
「——ああ~!!?
聞いてんに決まってんだろー今酔っ払ってんだよグデグデに!!
しかもな、今俺は最高に機嫌わりいんだよっ! かけ直した方がいいんじゃねーのか??」
電話の奥の声が、一瞬ギョッとしたように息を飲む。
『え……なんかあったの?
今までの人畜無害なにいちゃんからは想像できない乱れっぷりじゃない……
あ、もしかして、告白した女の子にフラれてやけ酒飲んでた……とか?』
「ちげーわ!! ってかたった今彼女ができたばっかだっつーの!!!」
『……はあ??
にいちゃん、ほんと大丈夫?
なんだか意味がさっぱりわかんないんだけど……とにかく、なんだかにいちゃんに面白いことが起こってるらしい……
ねえ、とにかく今度の土曜行くからね! 自暴自棄でヤケ起こしたりしないでよね!!』
一気に身体に入ったアルコールでとうとう前後不覚に陥った俺は、妹とそんなめっちゃくちゃな会話をしていたのだった。
ああいう会話になり、すっかり口数の少なくなってしまった篠田と別れた五十嵐は、表情を動かすことなくひたすら自分の部屋に向かい歩いた。
自分を追いかけてくるたまらなく苦い感情を、必死に振り切るように。
「——あんな言い方、したかったはずがないだろう」
拳を固く結び、五十嵐は喉の奥で呟く。
ただ——
彼が、自分自身の気持ちとちゃんと向き合ってこの先を選択するためには……ああいう言い方をする以外なかった。
——君は、知らないだろう。
恐らく君が待っていたその言葉を、俺がどれだけ言いたかったか。
……「そんな話は断ってくれ」と。
どれだけ、言ってしまいたかったか。
俺の側にいて欲しい、と。
言えるわけがないのに。
君が他の女の子から想いを寄せられている、そんな大きな幸せを妨害したりなど——俺にできるわけがないのに。
恋をすれば自然に求め合うはずの悦びを、俺は何一つ、君に与えてやれないのだから。
君は、残酷だ。
あんな戸惑うような目をして、俺の答えを待ち望むなんて——
自分自身の想いすら、しっかり見極められていないくせに。
いっそ、君が自分から、「彼女ができるからあなたとは終わりだ」とでも言ってくれれば、どれほど楽か。
俺は結局、自分から君を突き放した。
そして俺も——多分、この道を選ぶ以外にないんだ。
瞳の奥に、にわかに何かがこみ上げそうになるのを、五十嵐は自嘲するかのように微笑みながらきつく押し殺した。
部屋に入り、ビジネスバッグを机に置くと、五十嵐は何かに追い立てられるようにスマホを取り出し、通話ボタンを押す。
連絡先は、父のスマホだ。
『——おお、廉か。
どうした?』
「——父さんの言ってた話……受けるから」
『……仲林さんの件か?
——そうか。そういう気持ちになってくれたか。
よかった。嬉しいよ』
父の安堵するようなため息が、その声の奥に感じられる。
「——……
全てを受諾するわけじゃありません。
ただ、もう一度彼女と会ってみるだけです」
『わかっている。
だが、お相手は非の打ち所のないお嬢さんだ。もう一度会って彼女をよく知れば、きっとお前の気持ちも動くさ。
——早速仲林さんの方にも伝えておくからな』
「——……じゃ」
躊躇っては、決心がつかない。
今すぐ篠田の元へ駆け戻って、全力で彼を抱き竦めてしまいそうな自分がいる。
それを断ち切ったこの気持ちでいる間に、父にそう伝えてしまわなければ。
どうせ、無視はできない話なのだ。
そんな父との短い通話を終え、机へ置こうとしたスマホへ、メッセージを知らせる着信音が鳴った。
篠田からだ。
『さっきは、ごちそうさまでした。
せっかく人気の焼肉屋に連れて行ってもらったのに、なんだか雰囲気悪くなっちゃって済みませんでした。
——佐々木さんの告白、受けようと思います』
「——……」
スマホをソファへ放り、自分自身の体もそこへ一緒に投げ出すと、五十嵐は天井を仰ぎ、しばらくじっと目を瞑る。
そして、ゆっくり瞼を開けた。
いつもと変わらぬ無表情が顔を覆う。
「——単純な話だろ。
届かないものにうっかり手を伸ばして——やはり届かないと、わかっただけだ」
*
五十嵐さんとそんなやりとりをした、翌週の金曜。
佐々木さんのお気に入りのカクテルバーで、俺は彼女の告白に頷いた。
五十嵐さんにあんなふうに言われたから、とかそんな情けない理由でOKしたわけじゃない。
告白されたからって、すぐに自分の気持ちがその相手に対してときめくようになるなんて、心はそんな都合のいい動きはしてくれない。
けれど——
暖かな場所からなんだか酷くひんやりとした暗がりへ突き放されたようなこの気持ちを、彼女はきっと救ってくれる。
彼女のあの元気な明るさの側にいたい。
気づけば俺は、そんなことを思った。
それに……
彼女は、言うまでもなく、女性だ。
五十嵐さんのたまらなく居心地のいい温もりに、自分がだんだんと深く埋もれてしまいそうな——ここ最近、心の奥でざわざわと鳴り続けていたその不可解な不安から、俺はふつりと解放されていた。
「——ほんとにいいの?」
俺の目を覗き込むように、佐々木さんは俺の答えを確認する。
「……え?」
「私、もしかしたら篠田くんを困らせてないかなって……実は告白してからずっと、少し心配だったんだ。
私、年上だし、こんな風に酒好きの飲んべえで、ふんわり女の子らしく可愛いところなんかないし……
穏やかで優しいあなたの好みに、全然合ってないんじゃないかなって」
「いえ……そんなことは」
「ねえ、ほんとに無理はしないで。なあーんか微妙だなあ、その不明瞭さ」
どこか自嘲気味に笑う彼女に、俺は真剣な表情で答えた。
「無理にあなたの気持ちに頷いたんじゃありません。……本当です。
いつも元気な笑顔とか、明るさとか、楽しさとか——あなたのそういう暖かさの側にいられたら、幸せだなと——そう思ったんです。
……あなたからそういうものをたくさんもらえたら、嬉しいです」
俺の言葉に、彼女は頬を綺麗な色に染めて、ぱっと微笑んだ。
「——ほんと?
うあー……そういう言葉聞けて、すっごく嬉しい。
なんだか少年みたいにピュアで真っ直ぐな篠田くんをいつかボキッとへし折っちゃうんじゃないかって、ちょっと心配だけど……大丈夫かな?」
「……
そっ……それは大丈夫……ですよね??」
「あははっ! そうならないように、ちゃんと大事にするからねっ♪
じゃ、プライベートでは篠田くんも敬語なんかやめて。思いっきり楽しくやろうよ♡
——改めて、乾杯」
そんな会話を交わし、やっと彼女はいつものように快活に笑った。
話題に事欠かない佐々木さんとのお喋りで、その後俺は終始笑いっぱなしだった。
適当に会話の切れたところで一緒に店を出て、ふわふわとした酔いに揺られながら彼女と別れた。
部屋に戻ると、時計は11時近くになっている。
余計なことなど考える間もない、明るく賑やかな数時間。
「——いいじゃないか、これで」
そんなことを一人呟きつつ、俺はソファにカバンをどさっと置くと冷蔵庫を開ける。
缶ビールを取り出すと、躊躇なくそのタブを開けた。
やたらに冷たく苦い刺激が、喉を過ぎる。
「……だから。
彼女は俺の望んだ通りの人じゃんか。
元気で明るくて、いつも楽しい空気を作ってくれて。
こういう悩みのない時間が欲しかったんだろ、俺は」
ブツブツと、勝手に言葉が口から漏れる。
それなのに、何か別の声が脳内でうるさい。
ぐーーっと乱暴にビールを呷った。
「……はあ?
なんかうるせーな。お前誰だよ??
……これでいいに決まってんじゃんか。ガタガタ騒ぐな。
今までずっとグダグダ悩んでたのはお前だろ? 悩みが去ってよかったじゃんか。彼女とならなんでもできんだろ、チューだってハグだってもっといろいろだってな!
——なんだかわからない沼に呑まれそうでずっと怖がってたのはお前だろーがっっ!!?」
一瞬で空になった缶をテーブルにガンっと打ち付ける。
——その時、不意にスマホが鳴り響いた。
『もしもーし。にいちゃん? 夜遅くごめんねー』
真琴だった。
『あのね、今度の土曜、友達と遊ぶ約束してにいちゃんの部屋の近くまで行くんだけど、ついでに寄っていい? 可愛い妹がデートしてあげるよ~♡
その代わり、にいちゃんの会社の近くに今すごい人気のイタリアンあるらしいじゃん? 夕飯ご馳走してよー♪♪』
「…………」
『……もしもーし? にいちゃん聞いてるー??』
「——ああ~!!?
聞いてんに決まってんだろー今酔っ払ってんだよグデグデに!!
しかもな、今俺は最高に機嫌わりいんだよっ! かけ直した方がいいんじゃねーのか??」
電話の奥の声が、一瞬ギョッとしたように息を飲む。
『え……なんかあったの?
今までの人畜無害なにいちゃんからは想像できない乱れっぷりじゃない……
あ、もしかして、告白した女の子にフラれてやけ酒飲んでた……とか?』
「ちげーわ!! ってかたった今彼女ができたばっかだっつーの!!!」
『……はあ??
にいちゃん、ほんと大丈夫?
なんだか意味がさっぱりわかんないんだけど……とにかく、なんだかにいちゃんに面白いことが起こってるらしい……
ねえ、とにかく今度の土曜行くからね! 自暴自棄でヤケ起こしたりしないでよね!!』
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