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ランチボックス
佐々木さんの告白に応え、その後二人で賑やかに盛り上がった翌日、土曜日。
ぐわぐわととんでもなく痛む頭を抱え、俺はベッドから起き上がった。
「うぐぐ……頭いってえ……」
カーテンの隙間から、もう昼間に近い日差しが入り込んでくる。
「……うあ、スーツ着替えてねーし……あー、すげえシワだ」
昨日、カクテルバーから帰ってきて……どうしたんだっけ……
重い頭でぼーっと辺りを見ると、ビールの缶が歪に凹んでテーブルの上に転がっている。
……そうだった。
昨夜は佐々木さんとかなり飲んだのに、帰宅してからまた変な勢いでビール空けた……んだったっけ。
「……にしても、なんであんなに悲惨に凹んでんだ、あの缶……?」
……いやいや、あれやったの自分だろ。
空になったビールの缶を、怒りに任せてぐしゃっと潰した感触が、不意に手のひらに蘇った。
……怒り……
——そういえば。
その時俺は、何かにめちゃくちゃ腹を立てて……
思い切り何か怒鳴ってた……ような。
——あの時、俺は何に腹が立って……何を怒鳴ったんだっけ……?
「——んー……」
ぐちゃぐちゃとして、うまく思い出せない。
というか……
何となく、そこは思い出してはいけないような……そんな気もした。
「——……
ってか頭痛すぎるし……」
記憶を掘り起こそうと額に当てていた手を、力なくだらっと下へ落とす。
やめよう。
どうせ思い出しても、きっとまた腹立たしさが戻ってくるだけなのだ。
微妙にもやつく何かを洗い流したくなり、俺は無理やり勢いをつけてシャワールームへ立ち上がった。
……これでいいんだ。
佐々木さんが、俺の期待した通りの人で、よかった。
今度、もっとちゃんとした誕生日プレゼントを贈ろう。
ネクタイを解きながら、俺はなんとなくそんなことを思った。
*
そんな週末が明けた、水曜日の早朝。
俺は、二人分のランチボックスをキッチンのテーブルに並べ、千切りにしたゴボウを炒めていた。
コーヒーメーカーから、香ばしい豆の香りが立ち上る。
五十嵐さんに、この前の焼き肉のお礼にランチを作って持って行くと約束した。
プライベートで俺とああいうことがあっても、彼は会社では、優しく頼れる先輩という空気を一切崩さない。
内心がすぐにぐちゃぐちゃと乱れる俺には、以前と変わらぬ彼のその態度がとても有り難かった。
俺と彼のある意味不思議な関わりは、ここで途切れてしまうけれど——
だからと言って、当初自分で決めていたお礼すらできずに終わるのは、嫌だった。
初めて、彼にランチを作っていった時——
生姜焼きも、きんぴらも、彼はとても喜んで食べてくれた。
散々悩んだ末、俺は結局あの時と同じメニューを作り、黙々とボックスに詰めた。
超クールな硬質系イケメンのくせに、まるで子供みたいに嬉しそうに笑う、あの顔が見たい。
この関係を結ばなければ、きっと決して見ることのできなかったあの笑顔を——もう一度見たい。
そう思った。
その日の昼。
五十嵐さんと一緒に、ビジネス街の奥のあの静かなベンチに向かった。
2月半ば。今日の空は灰色の雲が張り、空気もしんと冷えている。
俺たちは、互いに話題を探すこともなく、ただ黙って歩いた。
並んでベンチに座り、彼が蓋を開けたボトルから香るコーヒーの湯気にふわりと鼻をくすぐられ、心が微かにほぐれる。
その時初めて、俺は自分の気持ちが氷のようにカチコチに冷え固まっていることに気づいた。
——それは多分、寒さのせいじゃなく。
「——これ、君が一番最初に作ってくれたメニューだよな」
ランチボックスの蓋を取り、彼がどこか懐かしそうな微笑を浮かべて呟く。
「——……」
……まだ、たったひと月前のことなのに。
懐かしいなんていう悲しい言葉、絶対に使いたくないのに。
そんな意味不明な思いばかりが胸の奥から溢れ、何一つ言葉にならない。
「……メニュー、覚えててくれて嬉しいです」
「当たり前だ。忘れるわけない」
返事を選びかねて結局俺の口からぼそぼそ出た無愛想な呟きに、彼はいつもと変わらない優しい笑顔でそう答えた。
彼は、俺の見たかった屈託のない笑顔で嬉しそうに箸を進める。
見つめてるのがバレないように苦労しながら、俺は何度も確かめるようにその横顔を盗み見た。
——忘れたくない、と思った。
この笑顔を、俺はきっともう見ることができない。
そんな俺に世間話でもするように、彼は箸も止めずに話し出した。
「——今度、仲林美優さんと会うことになった」
唐突なその言葉の意味を、俺は一瞬必死に考える。
「……え……
仲林美優さん……って……」
「そう。お人形みたいに可愛いお嬢様で、以前俺が断った、総務部の彼女だ」
俺の問いかけに、彼はまるでロボットのように無機的に回答する。
「断った……のに、どうして……」
「——彼女の父親が、運悪く俺の父親と同じ会社の一年先輩らしくてな。……どうやら、専務として社内で有力なポジションにいるようだ。
振られたことに納得がいかないのか、彼女がその父親に何かしら頼んだ……というところだろう。
父親経由で、彼女ともう一度会ってみてほしいという話になった。
……そういう話に応じざるを得ないのも、なんだか笑えるよな。
うちの親父も、会社の先輩かつ有力者のたっての依頼を無視はできないのかもしれないが……」
そこまで言うと、五十嵐さんは何か気持ちを切り替えるように一つ息を吸い込み、浅く微笑んだ。
「——まあ、そういうことだ」
「……」
——ということは……
仲林美優さんは、あの大崎商事の有力者である専務の愛娘……
そういうことか。
そのお嬢様に、五十嵐さんは強く想われている……振られても諦めきれないほどに。
——そういうことか。
そんなことを頭の中で必死に整理していた俺に、彼は真っ直ぐに眼差しを向けた。
「——篠田くん。
今まで、ありがとう」
「……」
「君が側にいてくれた時間は——俺の中で、最高に幸せな時間だった」
「————」
何と言えばいいんだ。
なんて返事をしたらいいんだ。
「俺も幸せだった」ってか?
じゃなくて、「悲しい」ってか?
それとも、「悔しい、寂しい」……ってか?
この場に相応しい言葉なんて——出てくるわけがない。
俺はただ、訳もわからずこみ上げそうになる涙を、必死に目の奥に押し留めることしかできなかった。
ぐわぐわととんでもなく痛む頭を抱え、俺はベッドから起き上がった。
「うぐぐ……頭いってえ……」
カーテンの隙間から、もう昼間に近い日差しが入り込んでくる。
「……うあ、スーツ着替えてねーし……あー、すげえシワだ」
昨日、カクテルバーから帰ってきて……どうしたんだっけ……
重い頭でぼーっと辺りを見ると、ビールの缶が歪に凹んでテーブルの上に転がっている。
……そうだった。
昨夜は佐々木さんとかなり飲んだのに、帰宅してからまた変な勢いでビール空けた……んだったっけ。
「……にしても、なんであんなに悲惨に凹んでんだ、あの缶……?」
……いやいや、あれやったの自分だろ。
空になったビールの缶を、怒りに任せてぐしゃっと潰した感触が、不意に手のひらに蘇った。
……怒り……
——そういえば。
その時俺は、何かにめちゃくちゃ腹を立てて……
思い切り何か怒鳴ってた……ような。
——あの時、俺は何に腹が立って……何を怒鳴ったんだっけ……?
「——んー……」
ぐちゃぐちゃとして、うまく思い出せない。
というか……
何となく、そこは思い出してはいけないような……そんな気もした。
「——……
ってか頭痛すぎるし……」
記憶を掘り起こそうと額に当てていた手を、力なくだらっと下へ落とす。
やめよう。
どうせ思い出しても、きっとまた腹立たしさが戻ってくるだけなのだ。
微妙にもやつく何かを洗い流したくなり、俺は無理やり勢いをつけてシャワールームへ立ち上がった。
……これでいいんだ。
佐々木さんが、俺の期待した通りの人で、よかった。
今度、もっとちゃんとした誕生日プレゼントを贈ろう。
ネクタイを解きながら、俺はなんとなくそんなことを思った。
*
そんな週末が明けた、水曜日の早朝。
俺は、二人分のランチボックスをキッチンのテーブルに並べ、千切りにしたゴボウを炒めていた。
コーヒーメーカーから、香ばしい豆の香りが立ち上る。
五十嵐さんに、この前の焼き肉のお礼にランチを作って持って行くと約束した。
プライベートで俺とああいうことがあっても、彼は会社では、優しく頼れる先輩という空気を一切崩さない。
内心がすぐにぐちゃぐちゃと乱れる俺には、以前と変わらぬ彼のその態度がとても有り難かった。
俺と彼のある意味不思議な関わりは、ここで途切れてしまうけれど——
だからと言って、当初自分で決めていたお礼すらできずに終わるのは、嫌だった。
初めて、彼にランチを作っていった時——
生姜焼きも、きんぴらも、彼はとても喜んで食べてくれた。
散々悩んだ末、俺は結局あの時と同じメニューを作り、黙々とボックスに詰めた。
超クールな硬質系イケメンのくせに、まるで子供みたいに嬉しそうに笑う、あの顔が見たい。
この関係を結ばなければ、きっと決して見ることのできなかったあの笑顔を——もう一度見たい。
そう思った。
その日の昼。
五十嵐さんと一緒に、ビジネス街の奥のあの静かなベンチに向かった。
2月半ば。今日の空は灰色の雲が張り、空気もしんと冷えている。
俺たちは、互いに話題を探すこともなく、ただ黙って歩いた。
並んでベンチに座り、彼が蓋を開けたボトルから香るコーヒーの湯気にふわりと鼻をくすぐられ、心が微かにほぐれる。
その時初めて、俺は自分の気持ちが氷のようにカチコチに冷え固まっていることに気づいた。
——それは多分、寒さのせいじゃなく。
「——これ、君が一番最初に作ってくれたメニューだよな」
ランチボックスの蓋を取り、彼がどこか懐かしそうな微笑を浮かべて呟く。
「——……」
……まだ、たったひと月前のことなのに。
懐かしいなんていう悲しい言葉、絶対に使いたくないのに。
そんな意味不明な思いばかりが胸の奥から溢れ、何一つ言葉にならない。
「……メニュー、覚えててくれて嬉しいです」
「当たり前だ。忘れるわけない」
返事を選びかねて結局俺の口からぼそぼそ出た無愛想な呟きに、彼はいつもと変わらない優しい笑顔でそう答えた。
彼は、俺の見たかった屈託のない笑顔で嬉しそうに箸を進める。
見つめてるのがバレないように苦労しながら、俺は何度も確かめるようにその横顔を盗み見た。
——忘れたくない、と思った。
この笑顔を、俺はきっともう見ることができない。
そんな俺に世間話でもするように、彼は箸も止めずに話し出した。
「——今度、仲林美優さんと会うことになった」
唐突なその言葉の意味を、俺は一瞬必死に考える。
「……え……
仲林美優さん……って……」
「そう。お人形みたいに可愛いお嬢様で、以前俺が断った、総務部の彼女だ」
俺の問いかけに、彼はまるでロボットのように無機的に回答する。
「断った……のに、どうして……」
「——彼女の父親が、運悪く俺の父親と同じ会社の一年先輩らしくてな。……どうやら、専務として社内で有力なポジションにいるようだ。
振られたことに納得がいかないのか、彼女がその父親に何かしら頼んだ……というところだろう。
父親経由で、彼女ともう一度会ってみてほしいという話になった。
……そういう話に応じざるを得ないのも、なんだか笑えるよな。
うちの親父も、会社の先輩かつ有力者のたっての依頼を無視はできないのかもしれないが……」
そこまで言うと、五十嵐さんは何か気持ちを切り替えるように一つ息を吸い込み、浅く微笑んだ。
「——まあ、そういうことだ」
「……」
——ということは……
仲林美優さんは、あの大崎商事の有力者である専務の愛娘……
そういうことか。
そのお嬢様に、五十嵐さんは強く想われている……振られても諦めきれないほどに。
——そういうことか。
そんなことを頭の中で必死に整理していた俺に、彼は真っ直ぐに眼差しを向けた。
「——篠田くん。
今まで、ありがとう」
「……」
「君が側にいてくれた時間は——俺の中で、最高に幸せな時間だった」
「————」
何と言えばいいんだ。
なんて返事をしたらいいんだ。
「俺も幸せだった」ってか?
じゃなくて、「悲しい」ってか?
それとも、「悔しい、寂しい」……ってか?
この場に相応しい言葉なんて——出てくるわけがない。
俺はただ、訳もわからずこみ上げそうになる涙を、必死に目の奥に押し留めることしかできなかった。
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