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第0章
009、脱走
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「……っ!」
突然感じた悪寒に、クロノはびくりと肩を震わせた。
今まで以上の嫌な予感に表情を強張らせる。例えるならそれは、死ぬか殺されるかではなく、生き地獄かなぶり殺しか、の二択を突き付けられる感じに似ている。
どの選択肢も嫌だな、とクロノは自分の想像に苦笑いを浮かべた、次の瞬間。
最高の強度を誇る結社の建物が大きく揺れて、遠くで巨大な爆発音が聞こえた。
「うわ……、っと」
どこか耳障りな音と共に、倉庫の電気が一斉に消えた。
襲撃かと身構えながら、クロノは少女の手を握る。いざとなれば、この少女と共に決死の脱走劇を繰り広げるつもりだった。
だが、クロノの想像に反して、倉庫に響いたのは、聞いたことのある声だった。
『ただ今、ちょっとした事故により全電気が停止致しました。現在普及作業に追われておりますので、今しばらくお待ち下さい』
それは通信係が告げた機械的な放送。
おそらく、この建物にいるすべての人間に伝えられただろう。
クロノが知る限りでは、現在グラールに所属する光や雷の紋章術を扱う者は、全員仕事で出払っている。また、この結社は危険極まりない炎の紋章術の使い手を雇うつもりはないらしい。普及作業は長引くだろうな、とクロノは他人事のように思った。
――でも、脱出するなら今だな。
不安げに見つめてくる少女のラズベリー色を横目に、クロノは冷静に考える。
このタイミングでいきなり事故。しかも、電気系統が破壊される。
事件の間違いなんじゃないのかなぁ、と苦笑を漏らした。
その上、彼は先程感じた独特の気配――というか、魔力に何となく覚えがあった。
見た目だけはいじらしい童顔の先輩術師。
彼女が過去に、どこの組織にも属さない使い手でありながら「退屈だったから」と結社中枢まで乗り込み、破格な使い手として名高いセラと互角に渡り合ったのは有名な話だ。
クロノにしてみれば冗談でも借りを作りたい相手とは言い難かったが、こうなってしまっては仕方がない。ろくでもないことを思い付いた時に見せるあのほくほく顔を思いながら、彼は少女の華奢な手をゆっくり引いた。
「立てるか?」
「えっ、あ、はい……」
いきなり手を取られて彼女は驚いたのかもしれなかった。
しかしクロノはまるで気にも留めず、人形にでも触れるみたいにその手を引き上げる。
更に。
「ここから脱出しようと思う。万が一、死んだらごめんな」
それは「今から買い物に行こうと思う」と言うのと大して変わらない言い草。
めまいでも覚えたのか、少女は透けるような白い肌を更に青白くする。
構わず倉庫の出入り口へと向かう彼だが。
「いや、死なせるつもりはないんだ。君が死にたくなっても、無理やり生かすし――ってあれ?」
倉庫の扉が動かない。
無反応のそれを、両手で引っ張ったり押したりし始める。しまいにはドア面を蹴り付けるその仕草に、少女はたまらず肩を竦めた。
「そうか……電気、とんでるんだった」
この本部内の扉は、すべてセキュリティ向上のために開錠してもすぐにロックされるように設定されている。入って来た時と同じようにケータイからパスワードキーを入力して開こうにも、電気系統は全停止しているのだ。
ロックしたままブレークダウン。こういうところに、先端技術の弱さが出る。
「あ、あの、開かないんですか? わたし手伝います。道具か何か……」
あたふたと倉庫内を探ろうとするワンピース姿。
クロノは即席の笑みを作ると、ポケットから水の入った小瓶を取り出し、扉の番い目に注いだ。そうして、赤みがかった深紅色の目を、瞬間的に閉ざす。
瞬きというには僅かに長く、瞑想というにはあまりに短い。
と思うと、突然、無造作に伸ばされた片手越し。
扉が凍結した。
――まさか、味方の施設を壊すために使うなんて思ってなかったな。
最近は雑用や面倒事ばかり押し付けられて、紋章術に頼る機会がなかったクロノだ。
その上、わけあって出来る限り紋章術を使いたがらないという変哲な使い手である彼は、慣れたようで馴染まない感覚に、ため息を漏らす。
きしきしと音を立てながら、場違いに凍り付いた倉庫扉。後は事前に水を流し込んでおいた扉の隙間へと集中し、氷を急激に膨張させる。パキン、と番い目が弾け飛んだ。
頑丈に作られた鍵部分を壊すより、この方が早い。
躊躇ない回し蹴りだった。
鍵だけでぶら下がっていた〝板〟が、派手に屋上の欄干へとすっ飛ぶ。
差し込んだ外光に目を細める少女に、クロノは告げる。
「君は手伝わなくて良いよ、危ないし。ただ、俺のこと今だけ信用してほしい」
矛盾だらけだ。
誰がどう見ても少年の方が危ないと答えるだろうし、そんな人間を信用するのなんかもっと危ないと声を大にするに違いなかったが、言われた本人はこくこくと頷いた。
紋章術を目の当たりにしたせいもあったのかもしれない。
いくら自身を匿ってくれた相手とはいえ、彼女にとって目の前の少年は普通の人間ではない。七つの鍵の争奪戦に暗躍して来た、得体の知れない闇そのものなのだろう。
疎外に慣れ親しんでしまっているクロノは、それに気付きつつも、今更愛想良くして信頼を得ようとするでもない。当たり前のように逃走経路へと思考を巡らせるが。
不意に、こめかみを押さえる。
ただでさえ精神力と体力を要する紋章術。疲労時の紋章術ほど、不養生なものはなかった。頭痛と、多少のめまい。あとは視界不良。目の前がチカチカする。
――やんなっちゃうな、こんな時に。
慣れているとはいえ、状況が状況なのだ。
のんびりしていられない、と淡白な無表情の裏で自分を叱咤するクロノだったが。
「やっぱり、少し休んだほうがいいです。……すごく辛そう」
掛けられた言葉に、僅かに目を見開いた。
彼が結社に所属して自分の弱みを隠し通すために会得した術は、少女に言わせれば、すごく辛そうに見えるらしかった。その上、紋章術の使い手に対して、純粋に体を心配するような素振り。「変な人」なのはお前の方だと。クロノは妙な気分になった。
「冗談だろ。寝首を掻かれて、永遠に起きられないよ」
「少し休むだけでも違うと思うんです。五分経ったら起こしますから」
「カップラーメンでも三分なのにな」
「え?」
「……何でもない」
一秒が命取りになるんだ、と言いたかったはずなのだが。
疲れているらしい。だいぶ筋違いな自分のツッコミに、辟易するクロノ。
電気系統が停止しているということは、全自動的な監視の目からは逃れられるわけだが、同時にセキュリティでがんじがらめにされたこのビルでは、出口を塞がれたのと同じことだ。その上、生きた監視はどうにも避けられない。エレベーターは動かない。要するに、結社内の人間は階段を使うしかなくなる。
そんな中、ターゲットを連れて堂々と地上まで下りるほど、クロノの頭は疲れていない。
鉢合わせる相手が事務員や調査員などのただの人間か、あるいは、腕の立つ使い手じゃなければ薙ぎ倒して進むことも出来そうだが、そんなに首尾良くいくとも思えない。そもそも、逃走劇中に紋章術師と「こんにちは」したらゲームオーバーだ。
この階層から動かずに、尚かつ迅速に脱出出来るルート。
クロノは辺りを見回した。
近くに本部と並列する建造物は見当たらない。本部は地上二十二階建てだ。超高層ビルというわけでもなく、かといって普通のビルよりは抜きん出るこの階層。隣接する建物の高さは、十七、八階くらいだろうか。
「……飛び移れないかな」
ぼそりと呟かれた一言を、少女が聞いていたらどんな顔をしたのか。
いや、飛び移ることは出来なくても、渡ることなら可能かもしれないのだ。
紋章術で向こう側までの道を作る――。
でも高所だけに風は強い。しかも目に見えないから軌道も読めないし、風速、風向きによって空気の流れもあっちこっち乱れる。やり辛くてしょうがないけれど、向こう岸に渡るには、やるしかない。
これだから風は嫌なんだ、とクロノ。
空中に漂う酸素。その水分を凝縮して物体へと変える彼にとって、予測不能な暴風を繰り出してくる風の紋章術は、まさに天敵なのだ。
クロノはその場で身を屈め、角度と距離をイメージするが。
――頭痛い。
常ならば呑気な訴えだ。しかし、いつもより程度が酷いので思考の邪魔になる。
寝不足と疲労感だけでこんな風になるものだろうか、と考えかけて。
耳鳴りのようなものが、近付いてきた。
いや、聞いたのは耳じゃない。頭だ。
脳裏を突くような甲高い音。
覚えある雑音。
クロノの目が少女を捉えた。
「……どうか、したんですか?」
本人は気付いていない。
先程より風が強まっている。
彼女の淡い萌葱色の髪が、ふわりとなびく。
とぐろを巻くように不自然な風向きが、その身を包み始める。
まさか。
そのまさかか。
「くそ……!」
昨晩、狂暴な紋章術の使い手と化した彼女を想起した。
状況が似ている。そっくりだ。
さすがに焦りを露にするクロノ。
その時だった。
背後から、更に追い討ちのような冷たい一言が飛んできた。
「やはりここか」
振り返りたくないと思った。
しかし背中を向けたままでは、何をされるかわかったものではない。
クロノは結局、銃口を突き付けられた捕虜よろしく、ゆっくりと振り返る。
そこには、冷たい声の主。
セラが佇んでいた。
何であんたがここに来るんだ、と。彼は惜しげもなく、苦虫と渋柿をダブルで口に放り込んだような顔をした。
「屋上に向かう者がいたと聞いてな。監視室の窓際族共が、自殺でもするのかと案じていたぞ」
監視カメラの映像のことだ。せっかくそれをチェックするコンピュータも今は停止しているというのに。
――あの窓際族、余計なこと喋るなよ。
柄にもなく、クロノはセラの言葉に賛同してしまう。
それと、童顔術師は――ナツメは何をやっているのか。さっそく紋章術師と「こんにちは」してしまったではないか。
こうなったら先手を打つか、と無謀にも身構えるが、相手はエレベーターを用いずに最上階までやって来たはずなのに呼吸一つ乱れていない。
隙を窺おうにも、隙がないのだからどうしようもなかった。
セラのトパーズの眼光に射抜かれたまま、息を止めている少女。
クロノは、その身を庇うように自分の背後へと回らせる。
「それが何なのか、理解しているのか」
「……そう言うあんたはどうなんだ。結社が何をやってるのか、考えたことあるんですか」
「私は貴様より勤務が長い」
嫌な肯定の仕方だった。
少女を真後ろに庇ったまま、まばたき一つせず、じっと目前を見据えるクロノ。
セラは、しなやかな仕草で虚空に指をやった。
「部外者に何を吹き込まれたかは知らないが――」
総毛立つ気配と共に、闇が、漆黒の鎌を成形していく。
「ここに来た理由を忘れたのが、お前の最期だ。クロノ」
いつもこうだった。
セラが彼の名前を呼ぶ時は、決まって耳に痛いような台詞が付け足される。当のクロノはというと、自分の名を嫌いになりそうなのでやめてほしいと常々思っていたのだが。
――部外者か。
敵、とすら言わなかったのは、彼女なりの優しさだったのか。
それとも残酷さだったのか。
ふと、あの大理石の部屋に、そして制服の胸元に描かれた聖杯を思った。
一度零した水は元には戻らない。
そんなことを示唆されているようで、クロノはそのエンブレムをいつまで経っても好きになれなかった。
空間が唸る。暗黒が迫るのを感じた。
いつの間にか、クロノの背中からぎゅっと腕を掴んでいた少女。
その言葉は、ぽつりと漏らされた。
「ごめん。やっぱり、手伝ってくれるか」
「――え」
次の瞬間。
クロノは、少女と共に欄干を越えていた。
目を疑うほどの、スローモーション。
時間の紋章術にでもかかったみたいだった。
あの仏頂面のセラが、瞠目して何かを叫んでいる。
それだけでも、思い切った価値はあったかもしれない。
そして、クロノはこの場所に残したものをぼんやり思う。
結社に所属する際、通っていた学園の学生服をそのまま加工してもらった。
彼が唯一持つ、普通の少年としての名残が、あの制服だった。
――自分じゃどうしても捨てられなかったんだよな。
まあ良いや、と。
クロノはやけに冷静な頭で、ガラス張りの外壁に映る自分を、そして少女を見やる。
風を切る音が聞こえる。
空気と重力の中、握った少女の白い手から突風が荒ぶのを感じた。
突然感じた悪寒に、クロノはびくりと肩を震わせた。
今まで以上の嫌な予感に表情を強張らせる。例えるならそれは、死ぬか殺されるかではなく、生き地獄かなぶり殺しか、の二択を突き付けられる感じに似ている。
どの選択肢も嫌だな、とクロノは自分の想像に苦笑いを浮かべた、次の瞬間。
最高の強度を誇る結社の建物が大きく揺れて、遠くで巨大な爆発音が聞こえた。
「うわ……、っと」
どこか耳障りな音と共に、倉庫の電気が一斉に消えた。
襲撃かと身構えながら、クロノは少女の手を握る。いざとなれば、この少女と共に決死の脱走劇を繰り広げるつもりだった。
だが、クロノの想像に反して、倉庫に響いたのは、聞いたことのある声だった。
『ただ今、ちょっとした事故により全電気が停止致しました。現在普及作業に追われておりますので、今しばらくお待ち下さい』
それは通信係が告げた機械的な放送。
おそらく、この建物にいるすべての人間に伝えられただろう。
クロノが知る限りでは、現在グラールに所属する光や雷の紋章術を扱う者は、全員仕事で出払っている。また、この結社は危険極まりない炎の紋章術の使い手を雇うつもりはないらしい。普及作業は長引くだろうな、とクロノは他人事のように思った。
――でも、脱出するなら今だな。
不安げに見つめてくる少女のラズベリー色を横目に、クロノは冷静に考える。
このタイミングでいきなり事故。しかも、電気系統が破壊される。
事件の間違いなんじゃないのかなぁ、と苦笑を漏らした。
その上、彼は先程感じた独特の気配――というか、魔力に何となく覚えがあった。
見た目だけはいじらしい童顔の先輩術師。
彼女が過去に、どこの組織にも属さない使い手でありながら「退屈だったから」と結社中枢まで乗り込み、破格な使い手として名高いセラと互角に渡り合ったのは有名な話だ。
クロノにしてみれば冗談でも借りを作りたい相手とは言い難かったが、こうなってしまっては仕方がない。ろくでもないことを思い付いた時に見せるあのほくほく顔を思いながら、彼は少女の華奢な手をゆっくり引いた。
「立てるか?」
「えっ、あ、はい……」
いきなり手を取られて彼女は驚いたのかもしれなかった。
しかしクロノはまるで気にも留めず、人形にでも触れるみたいにその手を引き上げる。
更に。
「ここから脱出しようと思う。万が一、死んだらごめんな」
それは「今から買い物に行こうと思う」と言うのと大して変わらない言い草。
めまいでも覚えたのか、少女は透けるような白い肌を更に青白くする。
構わず倉庫の出入り口へと向かう彼だが。
「いや、死なせるつもりはないんだ。君が死にたくなっても、無理やり生かすし――ってあれ?」
倉庫の扉が動かない。
無反応のそれを、両手で引っ張ったり押したりし始める。しまいにはドア面を蹴り付けるその仕草に、少女はたまらず肩を竦めた。
「そうか……電気、とんでるんだった」
この本部内の扉は、すべてセキュリティ向上のために開錠してもすぐにロックされるように設定されている。入って来た時と同じようにケータイからパスワードキーを入力して開こうにも、電気系統は全停止しているのだ。
ロックしたままブレークダウン。こういうところに、先端技術の弱さが出る。
「あ、あの、開かないんですか? わたし手伝います。道具か何か……」
あたふたと倉庫内を探ろうとするワンピース姿。
クロノは即席の笑みを作ると、ポケットから水の入った小瓶を取り出し、扉の番い目に注いだ。そうして、赤みがかった深紅色の目を、瞬間的に閉ざす。
瞬きというには僅かに長く、瞑想というにはあまりに短い。
と思うと、突然、無造作に伸ばされた片手越し。
扉が凍結した。
――まさか、味方の施設を壊すために使うなんて思ってなかったな。
最近は雑用や面倒事ばかり押し付けられて、紋章術に頼る機会がなかったクロノだ。
その上、わけあって出来る限り紋章術を使いたがらないという変哲な使い手である彼は、慣れたようで馴染まない感覚に、ため息を漏らす。
きしきしと音を立てながら、場違いに凍り付いた倉庫扉。後は事前に水を流し込んでおいた扉の隙間へと集中し、氷を急激に膨張させる。パキン、と番い目が弾け飛んだ。
頑丈に作られた鍵部分を壊すより、この方が早い。
躊躇ない回し蹴りだった。
鍵だけでぶら下がっていた〝板〟が、派手に屋上の欄干へとすっ飛ぶ。
差し込んだ外光に目を細める少女に、クロノは告げる。
「君は手伝わなくて良いよ、危ないし。ただ、俺のこと今だけ信用してほしい」
矛盾だらけだ。
誰がどう見ても少年の方が危ないと答えるだろうし、そんな人間を信用するのなんかもっと危ないと声を大にするに違いなかったが、言われた本人はこくこくと頷いた。
紋章術を目の当たりにしたせいもあったのかもしれない。
いくら自身を匿ってくれた相手とはいえ、彼女にとって目の前の少年は普通の人間ではない。七つの鍵の争奪戦に暗躍して来た、得体の知れない闇そのものなのだろう。
疎外に慣れ親しんでしまっているクロノは、それに気付きつつも、今更愛想良くして信頼を得ようとするでもない。当たり前のように逃走経路へと思考を巡らせるが。
不意に、こめかみを押さえる。
ただでさえ精神力と体力を要する紋章術。疲労時の紋章術ほど、不養生なものはなかった。頭痛と、多少のめまい。あとは視界不良。目の前がチカチカする。
――やんなっちゃうな、こんな時に。
慣れているとはいえ、状況が状況なのだ。
のんびりしていられない、と淡白な無表情の裏で自分を叱咤するクロノだったが。
「やっぱり、少し休んだほうがいいです。……すごく辛そう」
掛けられた言葉に、僅かに目を見開いた。
彼が結社に所属して自分の弱みを隠し通すために会得した術は、少女に言わせれば、すごく辛そうに見えるらしかった。その上、紋章術の使い手に対して、純粋に体を心配するような素振り。「変な人」なのはお前の方だと。クロノは妙な気分になった。
「冗談だろ。寝首を掻かれて、永遠に起きられないよ」
「少し休むだけでも違うと思うんです。五分経ったら起こしますから」
「カップラーメンでも三分なのにな」
「え?」
「……何でもない」
一秒が命取りになるんだ、と言いたかったはずなのだが。
疲れているらしい。だいぶ筋違いな自分のツッコミに、辟易するクロノ。
電気系統が停止しているということは、全自動的な監視の目からは逃れられるわけだが、同時にセキュリティでがんじがらめにされたこのビルでは、出口を塞がれたのと同じことだ。その上、生きた監視はどうにも避けられない。エレベーターは動かない。要するに、結社内の人間は階段を使うしかなくなる。
そんな中、ターゲットを連れて堂々と地上まで下りるほど、クロノの頭は疲れていない。
鉢合わせる相手が事務員や調査員などのただの人間か、あるいは、腕の立つ使い手じゃなければ薙ぎ倒して進むことも出来そうだが、そんなに首尾良くいくとも思えない。そもそも、逃走劇中に紋章術師と「こんにちは」したらゲームオーバーだ。
この階層から動かずに、尚かつ迅速に脱出出来るルート。
クロノは辺りを見回した。
近くに本部と並列する建造物は見当たらない。本部は地上二十二階建てだ。超高層ビルというわけでもなく、かといって普通のビルよりは抜きん出るこの階層。隣接する建物の高さは、十七、八階くらいだろうか。
「……飛び移れないかな」
ぼそりと呟かれた一言を、少女が聞いていたらどんな顔をしたのか。
いや、飛び移ることは出来なくても、渡ることなら可能かもしれないのだ。
紋章術で向こう側までの道を作る――。
でも高所だけに風は強い。しかも目に見えないから軌道も読めないし、風速、風向きによって空気の流れもあっちこっち乱れる。やり辛くてしょうがないけれど、向こう岸に渡るには、やるしかない。
これだから風は嫌なんだ、とクロノ。
空中に漂う酸素。その水分を凝縮して物体へと変える彼にとって、予測不能な暴風を繰り出してくる風の紋章術は、まさに天敵なのだ。
クロノはその場で身を屈め、角度と距離をイメージするが。
――頭痛い。
常ならば呑気な訴えだ。しかし、いつもより程度が酷いので思考の邪魔になる。
寝不足と疲労感だけでこんな風になるものだろうか、と考えかけて。
耳鳴りのようなものが、近付いてきた。
いや、聞いたのは耳じゃない。頭だ。
脳裏を突くような甲高い音。
覚えある雑音。
クロノの目が少女を捉えた。
「……どうか、したんですか?」
本人は気付いていない。
先程より風が強まっている。
彼女の淡い萌葱色の髪が、ふわりとなびく。
とぐろを巻くように不自然な風向きが、その身を包み始める。
まさか。
そのまさかか。
「くそ……!」
昨晩、狂暴な紋章術の使い手と化した彼女を想起した。
状況が似ている。そっくりだ。
さすがに焦りを露にするクロノ。
その時だった。
背後から、更に追い討ちのような冷たい一言が飛んできた。
「やはりここか」
振り返りたくないと思った。
しかし背中を向けたままでは、何をされるかわかったものではない。
クロノは結局、銃口を突き付けられた捕虜よろしく、ゆっくりと振り返る。
そこには、冷たい声の主。
セラが佇んでいた。
何であんたがここに来るんだ、と。彼は惜しげもなく、苦虫と渋柿をダブルで口に放り込んだような顔をした。
「屋上に向かう者がいたと聞いてな。監視室の窓際族共が、自殺でもするのかと案じていたぞ」
監視カメラの映像のことだ。せっかくそれをチェックするコンピュータも今は停止しているというのに。
――あの窓際族、余計なこと喋るなよ。
柄にもなく、クロノはセラの言葉に賛同してしまう。
それと、童顔術師は――ナツメは何をやっているのか。さっそく紋章術師と「こんにちは」してしまったではないか。
こうなったら先手を打つか、と無謀にも身構えるが、相手はエレベーターを用いずに最上階までやって来たはずなのに呼吸一つ乱れていない。
隙を窺おうにも、隙がないのだからどうしようもなかった。
セラのトパーズの眼光に射抜かれたまま、息を止めている少女。
クロノは、その身を庇うように自分の背後へと回らせる。
「それが何なのか、理解しているのか」
「……そう言うあんたはどうなんだ。結社が何をやってるのか、考えたことあるんですか」
「私は貴様より勤務が長い」
嫌な肯定の仕方だった。
少女を真後ろに庇ったまま、まばたき一つせず、じっと目前を見据えるクロノ。
セラは、しなやかな仕草で虚空に指をやった。
「部外者に何を吹き込まれたかは知らないが――」
総毛立つ気配と共に、闇が、漆黒の鎌を成形していく。
「ここに来た理由を忘れたのが、お前の最期だ。クロノ」
いつもこうだった。
セラが彼の名前を呼ぶ時は、決まって耳に痛いような台詞が付け足される。当のクロノはというと、自分の名を嫌いになりそうなのでやめてほしいと常々思っていたのだが。
――部外者か。
敵、とすら言わなかったのは、彼女なりの優しさだったのか。
それとも残酷さだったのか。
ふと、あの大理石の部屋に、そして制服の胸元に描かれた聖杯を思った。
一度零した水は元には戻らない。
そんなことを示唆されているようで、クロノはそのエンブレムをいつまで経っても好きになれなかった。
空間が唸る。暗黒が迫るのを感じた。
いつの間にか、クロノの背中からぎゅっと腕を掴んでいた少女。
その言葉は、ぽつりと漏らされた。
「ごめん。やっぱり、手伝ってくれるか」
「――え」
次の瞬間。
クロノは、少女と共に欄干を越えていた。
目を疑うほどの、スローモーション。
時間の紋章術にでもかかったみたいだった。
あの仏頂面のセラが、瞠目して何かを叫んでいる。
それだけでも、思い切った価値はあったかもしれない。
そして、クロノはこの場所に残したものをぼんやり思う。
結社に所属する際、通っていた学園の学生服をそのまま加工してもらった。
彼が唯一持つ、普通の少年としての名残が、あの制服だった。
――自分じゃどうしても捨てられなかったんだよな。
まあ良いや、と。
クロノはやけに冷静な頭で、ガラス張りの外壁に映る自分を、そして少女を見やる。
風を切る音が聞こえる。
空気と重力の中、握った少女の白い手から突風が荒ぶのを感じた。
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一方でレアーヌという『真の支柱』を失った元パーティーは、自分たちがどれほど愚かな選択をしたかを知る由もなかった。
やがて彼らが地獄の淵で「戻ってきてくれ」と泣きついてきても、もう遅い。
レアーヌの隣には、彼女を離さないと誓った執着愛の化身が微笑んでいるのだから。
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