Geometrially_spell_aria

吹雪舞桜

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第0章

010

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 体を包む浮遊感に、直後に襲う重力に少女――ミントは思わずクロノの腕にしがみ付いてしまったが、彼の腕がしっかりと体を支えてくれたおかげで、それほど恐怖はなかった。
 先程告げられた「死なすつもりはない」と「信用してほしい」の言葉が鮮明に蘇る。

 幼い頃から友人に、紋章術の使い手は例外なく一般人とはかけ離れた存在だ、と聞かされてきた。仕事上で仕方なくじゃなければ知り合いにもなりたくない、とまで言っていたことは今でも記憶に残っている。
 だけどこの少年は、少女の想像と似ても似つかない。かけ離れすぎていた。
 先入観の妄想があまりにも人外すぎたのかもしれない。……確かに常識外れな部分の方が目立つけれど、安月給に文句を零したり、徹夜明けで疲れていたり、冗談も言うし、何よりも様々な色を見せる表情。
 目の前にいる金髪の紋章術の使い手は、自分たちと何も変わらないように思う。


「頼む、風を……っ」


 風に掻き消されながらも、微かに聞こえた声。
 ミントは慌ててクロノを見る。
 手伝ってくれ、と言われたのを思い出した。

 彼が言うのはおそらく、彼女自身を何度も助けた不思議な力のことだろう。理由はわからないけれど、確かに何度もミントの窮地を救ってくれた〝それ〟は、駆け抜ける〝風の力〟だ。
 彼の言葉に応えるべく、ミントは胸の中で声を掛ける。


 ――力を、貸して下さい。


 握った手から風が漏れた。
 足元から吹き上がる風によって、体を襲う重力が消える感覚。
 再び感じる体の浮遊。次の瞬間、ひやりと周囲の空気が冷えた気がした。
 腕にミントを引っ付けたままのクロノが、空中で踏み込む足に力を込めた。意識せずとも風が二人の行く道を開き、その間を少年は少女を半ば引きずるような形で駆ける。
 空を歩いてるんだ、とミントが他人事のように驚いていた瞬間。
 頭の奥で声が響く。


『名前を、呼んで……』
「名前……?」


 不意に友人の言葉が蘇る。
 彼女は、自分たちは生きた魔導具だと言った。もうこの体は自分だけのものではないと。
 そう言えば、とミントはずっと昔に教えられた言葉を思い出す。

 人智を超えた力、紋章術。
 それは、かつて精霊によって人々にもたらされた未知の力の、成れの果て。精霊から与えられた力はいつしか、それを制御する紋様なしでは扱うことすら出来なくなっていた。それはつまり、未知の力の源である精霊もまた、紋章によって制御出来るということでもある。
 その記憶が正しいのならば。おそらく、きっと今の声は〝風の力を持つ精霊〟のものなのかもしれない。そして彼が求めている「結社に迫るための手段」なのだろう。またそれは「少女自身を守る術」でもある。
 何故精霊がミントを助けてくれるのかは、――まだ思い出せない。


「何? どうしたの?」


 クロノの声が聞こえた。
 彼の目線は前を見たまま、こちらに向けられることはない。
 だけどミントは何も答えられず、ただ首を振ることしか出来なかった。
 彼にこのことを伝えるわけにはいかない。これは、彼女自身の問題なのだ。

 それに……、とミントの胸中に別の不安が浮かぶ。
 もし、少年が精霊を手に入れるために少女に殺意を向けたら?
 ありえない話ではない。彼の目的は結社に迫って何かの情報を得ることだ、ミントを助けることではない。それは本人の口から確認している。クロノが、目的のために必要な手段がミントではなく、彼女が持つ精霊なのだと知ったら。少年は少女を躊躇いなく殺すだろう、クロノならきっと迷わない。使い手の住む世界は――彼が生きている世界は、そんな場所だ。


 ――自分の身を守るために、わたしを助けてくれた人を騙すなんて。


 少女の心を覆う、何とも言えない鬱蒼とした気持ち。
 その気分を掻き消すかのように、不意に体が空を切る感覚が消えて足が地に触れる。
 どうやら無事に宙を渡れたようだ。
 良かった、とミントは安堵の息をついた。
 着地と同時に彼女の体を支えていた腕が離れる。
 ハッと顔を上げた少女の視線の先、クロノは来た道を振り返っていた。彼の深紅の瞳は結社を見ている。追手を警戒しているのかもしれない。
 しばらくして、彼はどこか安堵の表情を浮かべてミントに視線を向けた。

 風に舞った金糸の髪を、真っ直ぐこちらに向けられるクロノのスカーレット色を、眩しげに見つめながらミントは思う。
 きっと彼なら、騙したんじゃなくて言わなかっただけだと平然と言ってのけるのだろうと。
 そんな彼女の心中を知らない少年は、あっけらかんと告げる。


「……で。名前だっけ?」


 彼の言葉に、ミントの顔が強張る。
 まさか精霊のことが気付かれたのかと、少女は続く言葉に不安を隠せないでいた。
 彼女のあからさまな動揺に、彼は気付いているだろう。
 けれど少年は、呆れたようにため息を一つ吐いてから、口を開く。


「こっち側では〝黒羽〟って呼ばれてる」


 彼はミントが言った名前を勘違いしたようだ。……それが、本当に彼の勘違いなのかはわからないけれど。疑い慣れてない少女の頭はそこまで回らない。
 ミントはほっと胸を撫で下ろし、改めて、黒羽と呼ばれる金髪の使い手を見上げる。


「えっと……。それじゃあ、何て呼べば……?」
「そうだよな、うん、そうなるよな」


 一般人相手に暗号を教えても意味ないよな、と彼は呆れたように言葉を続ける。
 わかってて言ったのだろうか、だとしたらやっぱり変な人だ。
 くすりと小さく笑みを零すミント。いつの間にかに、疑心暗鬼になりそうだった気持ちはどこかに消えていた。
 少女が警戒を解いたのを確認してから、彼は言い捨てるように続ける。


「俺はクロノ」


 クロノ。告げられたその名前を、口の中で何度も呟く。
 彼の名前を聞いた時に一瞬だけ風がざわめいた気がした。
 ビルの屋上に吹く冷風に目を細めて、彼女は言葉を返す。


「わたしはミントです」


 少しだけ、ほんの少しだけクロノの目付きが柔らかくなった……気がした。
 彼の口が小さく開き、何かを告げようとする。
 そして、まるでその瞬間を狙っていたかのように、屋上のドアが乱暴に開いた。


「――やっぱり、ここに来ていたようね」


 耳に届いたのは、どこかで聞き覚えのある声。
 ミントが振り返るよりも先に、クロノが彼女を庇うように前に出た。
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