Geometrially_spell_aria

吹雪舞桜

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第1章

023

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「あ、ガッツ君。何してんの?」


 上方で澄んだ声音が響いた。
 弾かれたように視線をやる。
 こちらもどうやってよじ登ったのか、電柱のてっぺんに黒髪の後姿。
 ナツメが佇んでいた。


「ああぁ? お嬢じゃねえか。天下の紋章術師サマこそ、こんなとこでなにしてんだ?」


 っつーかガッツじゃねえよ、と付け足す青年は、今にもクレーンからビルの屋上を伝って路地裏を網羅しようとしていた態勢を、僅かに崩したようだった。


「私はお散歩中だよ。ゲッツ君は? あ、もしかして仕事?」
「ゲッツじゃねえよ。人の名前くらい覚えろや、紋章術師サマよお」
「仕方ないよ、グッチ君。紋章術師は他に覚えることがたくさんあるんだからさー」
「おいおいおーい、どんどん離れてねえか。わざとか? お嬢」


 言うまでもなくわざとだと思うが、一度も名前を言い当てられない青年――ガンズは、紋章術師であるナツメを相手に、遠慮会釈のない問答をぶつけている。

 いや、それよりもだ。
 彼女はこのタイミングで一体何をしに来たのだろうか。
 ガンズの注意を散漫させるためだと言うなら、ただ話しかけたのではほんの数秒しか時間が稼げない。その間に切り抜けろなんて言われても、さすがに無理があるが。それでも。事の成り行きを黙って見ているよりは、とミントと赤頭巾を連れて再び歩きかけた時だ。
 曲がり角の影から腕を掴まれた。


「っ!」


 とっさに抵抗を試みて、にゅっと人差し指が立てられた。


「よおクロノ。静かに頼むぞ。でないと、オレはお前の鳩尾に飛び蹴りを食らわせてやらなきゃならない」


 そんなことをされたら、クロノはあの世で目を覚ます羽目になる。
 ビル影から、エイレンが姿を現した。
 まだ三番地内のはずだ、と疑心暗鬼気味にエイレンを見据える紅色。


「そんな、誕生日に毒りんごをプレゼントされたお姫様のような顔をするな。茨の森と言うのは自力で脱出するものじゃない。そういう泥臭い所業は、まさに本来の意味での役不足だぞ」
「…………とりあえず、白馬と馬車は取り止めになったのかな」
「意外にロマンチストだな、クロノ! よしわかった、そこまで言うのならカリバーンの総力を挙げて――」
「声がデカイ」


 傷のせいか、エイレンのせいか、体中が痛みを訴えていた。
 クロノの赤茶けた瞳は、絶え間ない痛苦で焦点も虚ろだ。

 ふらふらと覚束ない足取りと浅い呼吸を前に、さすがの人畜有害人物も顔色を変える。エイレンはすぐさま、彼が背負ってきたミントと赤頭巾の体をひょいと両肩に担いだ。


「クロノ。歩けるか?」
「……大丈夫だ。今から、戦うつもりだったし」
「笑えないジョークは言うものじゃないぞ」


 あんたに言われたくないな、となおも苦笑を見せたクロノ。
 エイレンの背を追って、建造物の間と言う間を縫って、壁伝いに歩く。追っ手を撒くための手段なのか、ショートカットなのかもわからない、アトランダムな道筋のように思えた。
 恐らく、人が通るように造られていないであろう細道を無理に横歩きして通り抜け、路地を突っ切ったところで、線路下の落書きだらけのトンネルを潜る。

 この時点で紋章術の使い手の気配はだいぶ遠ざかっていたが、安心など出来るはずがなかった。魔導反応を完全に殺して追って来るような、その道のプロもいる。ガンズのように、開けっ広げに存在主張する使い手の方がおかしいのだ。
 それに、とクロノはふと前方で揺れる赤髪を見つめた。


 ――エイレンにも気配を感じなかった。


 怪我の痛みで感覚が鈍っていたのだろうか。いや、むしろ追い詰められていたせいで尚更感覚は研ぎ澄まされていたはずだ。だが、クロノは腕を掴まれるまで、曲がり角の向こうにいたエイレンの存在に気付けなかったのだ。やはり、相手は仮にもカリバーンのリーダーたる人間だからか、中途半端な実力の持ち主ではないのかもしれない。
 目の覚めるような紅蓮を追いながら、必死に意識を手繰り寄せる。
 呼吸が苦しかった。
 クロノは今更ながら、どこが折れたんだろう、なんて考えかけてすぐに止めた。知らない方が歩き続られる気がした。

 やがて道が開けてくると、都会でも僻地に位置していることもあって、遠目に見えていた緑が姿を現した。思わずミントを見たクロノだったが、彼女はまだ意識を取り戻していない様子だ。どうやら本物の緑地らしい。
 林を抜けると、朽ちた廃墟を思わせる建造物が現れる。
 欠け落ちた看板には、ノスタルジックな字体でホスピタルの文字があった。


「病院?」
「そうだぞ。もう使われてないが、夜は現役の絶好心霊怪奇スポットだ」
「入院は別のところで良い」
「おっ、そうか。お化けは苦手か、クロノ! 紋章術の使い手だからといって怖いものなしじゃ、人間らしくないからな。そういうピュアな感性は大事にするんだぞ!」


 廃病院に入院制度なんか残ってないだろ。
 そもそも、廃墟で一番まずいのは、そこを根城にしてる生きた人間と出くわした場合だ。
 もはや反論する体力すら失っていたクロノは沈黙を返したが、エイレンの背中がどこか満足げだったのを、何となく見つめていた。

 廃病院の、割れたガラス戸を開く。


「実はカリバーンは色んな界隈に、紋章術で封じた隠し通路を造っていてな。ここの地下扉で、オレたちのお城まで直通のヴァージンロードだぞ」


 クロノは、密かにフォールディングナイフの冷感に触れていた指を止めた。
 正直に言って、彼は手負いの状態で、人気のない場所に連れ込まれるリスクを案じていた。

 名目上は仲間であっても、相手への猜疑心は絶対に捨てない。
 完全にグラールの名残りだった。
 ミントと赤頭巾もろともこの場所に埋めるつもりなのではないのか、とか、三人まとめてここの地縛霊にでもするつもりか、とか。どこかエイレンの言動を疑っていたのだが。

 怖いものなしでは人間らしくない。
 じゃあ、ここまで人間の表裏に畏怖を持って接するクロノは、エイレンに言わせれば人間らしいのだろうか。わかっていて言ったのだとしたら、相当な懐の広さだ。

 ややあって。
 彼はベルトに差していた冷たい取っ手から、そっと手を引いた。
 それよりも、今はミントと赤頭巾の容態が心配だったのだ。
 他人の身を素直に案じられること。そんな当たり前の衝動が、クロノには懐かしいことのように思えた。
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