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第1章
042
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誰も動かないその空間は、嫌に緊迫している。
スローモーションのような錯覚を感じる中で、クロノだけがその足を動かす。
積雪に浅く埋もれているそのケースへと手を伸ばした瞬間。
「それで満足だろ、なら、さっさと帰れ」
耳に届いたのは敵意剥き出しの言葉。
クロノは素早くシガレットケースを懐にしまって顔を上げた。
目の前には、鋭い眼光と共に片方の重剣ををエイレンへ向けるシグドの姿。
一触即発と言わんばかりの空気だ。
「お、おい……!」
クロノが踏み出したと同時、その一歩を遮るようにエイレンが彼の前へと出た。
セラの次はエイレンが、銀髪の青年と対峙する。
この二人の因縁は改めて問わずとも理解出来た。
本人の言葉通り、彼とその連れが〝人魚姫〟であるのなら、あの辺境の街でクロノとミントが『赤頭巾』と戦闘をしていたまさにその時、エイレンは彼らと接触していたのだろう。
クロノは燃えるような赤毛を見やりながら、自身の仕事内容を思い出す。
壊滅寸前の組織にいる鍵の確保。
要は、助けて保護し、そして仲間に加えると言うことだ。そして、言うまでもないが今回のターゲットは『人魚姫』であり、つまりシグドとミラノの二人のことで。
――これは、難易度が高いな。
相手が親しい人物ならば武力行使に出ずとも話し合いで何とか出来るはずなのだが、如何せん当のターゲットは結社のリーダーに対して並ならぬ敵意を抱いているようで。そして、相手が古くからの付き合いであるがために、こうなってしまえば一筋縄ではいかないことは手に取るようにわかる。
だが、戦おうにも状況はかなり悪い。
エイレンが龍牙と呼ばれる紋章術師であることと転がっているナツメも合わせれば、非戦闘員のビビアンがいたとしても戦力は申し分ないのだが、ここが紋章術の使えない空間であることとシグドとミラノに挟み撃ちにされている配置を考えると、楽観視は出来ない。何よりも、こちらはミントしか紋章術を使えないと言うのに、相手は二人共紋章術を使える上に、ミラノは殺しても死なないのだと言う。どう考えても、穏便に済ませるべきだと言うのに。
穏便に済ませるには、もう手遅れである。
「帰らないぞ! オレはお前にも用がある!」
「そうか、じゃあ帰れ」
噛み合わない会話を繰り広げる二人は相手の出方を窺っているのか、動く気配はない。
困惑顔のミントが近寄ってきた足音を聞きながら、クロノはエイレンから一歩距離を取る。
シグドとの間に割り込まれた形になったが、この調子で行けば逆にクロノが二人の間に割り込まなければいけなくなるだろう。
どうシグドを説得するべきかと頑固者の丸め込み方を考え始めたクロノだったが。
ザザッと耳障りなノイズ音が聞こえた気がした。
「……?」
怪訝そうに眉をひそめたクロノが、袖口の銀ボタンを耳元に寄せた時だ。
拍手の音が雪原に響いた。
突如聞こえた乾いた音のする方へ、全員が視線を向ける。
半壊になった本部の瓦礫の向こうに、見知らぬ男が立っていた。逆光と建物の陰のせいで顔は見えないが、若くはない。……エンブレムは見つけられなかった。
「想像以上の出来だった」
どこか威厳のあるような低い声だ。
隠し切れない喜びを滲ませる声音は、どこかで聞いた記憶があった。
エイレンが目を見開いたこと、そして、ミントの肩が揺れたことに誰も気付いていない。
警戒心を滲ませて、クロノがすいと男を見据える。
「まさか、取るに足らない弱小結社が、最強と謳われる結社に一矢報いるとはな」
「……」
「グラールに君臨する闇の紋章術師が敗れると夢にも思わなかったぞ」
興奮冷め止まぬと言った様子で告げられる言葉。
苦虫を噛み潰したように顔をしかめるエイレン。
何かに気付いたビビアンが、耳元に手を寄せた。
「撤退するわよ!」
凛と声が響いた瞬間、クロノたちの足元にそれぞれ紋様が浮かび上がった。
それは、カリバーンの屋敷でビビアンが開けた扉に施されていたのと同じもので。
突如現れた男のものではないのならば、命を脅かす類のものではないようだが。使い手ではない人間でも使えるこの紋章術は、この空間の影響を受けないものなのか。それとも、また何か特別なものなのだろうか。
と、ミントとミラノの足元の紋様が白く光を放ち始めた。
クロノとシグドがそれぞれ自身の連れを振り返る。
驚いた少年たちが何か言うよりも先に、シャボン玉が消えるように二人の姿が消えた。
その出来事を理解する間もなく、次に紋様の光に包まれたのはシグドだった。
「……!」
旧友を振り返ったクロノの目の前で、銀髪の姿が消えた。
その直後。
少年の視界から、いや、この場所から白の世界が消えて行った。足元の雪がまるで幻だったかのように溶けるようになくなる。
身に凍みる寒さが消えると、じめつく暑さが戻って来た。
「さすが、グラールが誇る優秀な通信部をまとめるだけのことはある。状況判断が早いな」
「お褒めにあずかり光栄だわ」
その会話に、その男が何者なのかクロノは理解した。
それは、グラールに引き抜かれ彼らの機械仕掛けの城へ連行された時だ。セラに連れられて挨拶した上層部の中で、一番偉そうな雰囲気を醸し出していた男。
その人物が今、目の前に立っているのだ。
――どこから、見ていた?
表情硬く、クロノが改めてその男を見やった瞬間。
「え?」
ふわりと不安定な浮遊感を覚えた。
恐る恐る落とした視線の先に見える、白い光を放つ紋様。
包まれてみて理解する。それは確かに魔力を放っていた。間違いなく紋章術だ。
エイレンが、吼えるように男に向かって叫んでいる。
だが、声が届いてこないので何を言っているのかはわからない。
一歩近付いて来た男の背後に、もうひとつ、人影を認めた瞬間。
クロノの視界は、雪とは違う白に包まれた。
スローモーションのような錯覚を感じる中で、クロノだけがその足を動かす。
積雪に浅く埋もれているそのケースへと手を伸ばした瞬間。
「それで満足だろ、なら、さっさと帰れ」
耳に届いたのは敵意剥き出しの言葉。
クロノは素早くシガレットケースを懐にしまって顔を上げた。
目の前には、鋭い眼光と共に片方の重剣ををエイレンへ向けるシグドの姿。
一触即発と言わんばかりの空気だ。
「お、おい……!」
クロノが踏み出したと同時、その一歩を遮るようにエイレンが彼の前へと出た。
セラの次はエイレンが、銀髪の青年と対峙する。
この二人の因縁は改めて問わずとも理解出来た。
本人の言葉通り、彼とその連れが〝人魚姫〟であるのなら、あの辺境の街でクロノとミントが『赤頭巾』と戦闘をしていたまさにその時、エイレンは彼らと接触していたのだろう。
クロノは燃えるような赤毛を見やりながら、自身の仕事内容を思い出す。
壊滅寸前の組織にいる鍵の確保。
要は、助けて保護し、そして仲間に加えると言うことだ。そして、言うまでもないが今回のターゲットは『人魚姫』であり、つまりシグドとミラノの二人のことで。
――これは、難易度が高いな。
相手が親しい人物ならば武力行使に出ずとも話し合いで何とか出来るはずなのだが、如何せん当のターゲットは結社のリーダーに対して並ならぬ敵意を抱いているようで。そして、相手が古くからの付き合いであるがために、こうなってしまえば一筋縄ではいかないことは手に取るようにわかる。
だが、戦おうにも状況はかなり悪い。
エイレンが龍牙と呼ばれる紋章術師であることと転がっているナツメも合わせれば、非戦闘員のビビアンがいたとしても戦力は申し分ないのだが、ここが紋章術の使えない空間であることとシグドとミラノに挟み撃ちにされている配置を考えると、楽観視は出来ない。何よりも、こちらはミントしか紋章術を使えないと言うのに、相手は二人共紋章術を使える上に、ミラノは殺しても死なないのだと言う。どう考えても、穏便に済ませるべきだと言うのに。
穏便に済ませるには、もう手遅れである。
「帰らないぞ! オレはお前にも用がある!」
「そうか、じゃあ帰れ」
噛み合わない会話を繰り広げる二人は相手の出方を窺っているのか、動く気配はない。
困惑顔のミントが近寄ってきた足音を聞きながら、クロノはエイレンから一歩距離を取る。
シグドとの間に割り込まれた形になったが、この調子で行けば逆にクロノが二人の間に割り込まなければいけなくなるだろう。
どうシグドを説得するべきかと頑固者の丸め込み方を考え始めたクロノだったが。
ザザッと耳障りなノイズ音が聞こえた気がした。
「……?」
怪訝そうに眉をひそめたクロノが、袖口の銀ボタンを耳元に寄せた時だ。
拍手の音が雪原に響いた。
突如聞こえた乾いた音のする方へ、全員が視線を向ける。
半壊になった本部の瓦礫の向こうに、見知らぬ男が立っていた。逆光と建物の陰のせいで顔は見えないが、若くはない。……エンブレムは見つけられなかった。
「想像以上の出来だった」
どこか威厳のあるような低い声だ。
隠し切れない喜びを滲ませる声音は、どこかで聞いた記憶があった。
エイレンが目を見開いたこと、そして、ミントの肩が揺れたことに誰も気付いていない。
警戒心を滲ませて、クロノがすいと男を見据える。
「まさか、取るに足らない弱小結社が、最強と謳われる結社に一矢報いるとはな」
「……」
「グラールに君臨する闇の紋章術師が敗れると夢にも思わなかったぞ」
興奮冷め止まぬと言った様子で告げられる言葉。
苦虫を噛み潰したように顔をしかめるエイレン。
何かに気付いたビビアンが、耳元に手を寄せた。
「撤退するわよ!」
凛と声が響いた瞬間、クロノたちの足元にそれぞれ紋様が浮かび上がった。
それは、カリバーンの屋敷でビビアンが開けた扉に施されていたのと同じもので。
突如現れた男のものではないのならば、命を脅かす類のものではないようだが。使い手ではない人間でも使えるこの紋章術は、この空間の影響を受けないものなのか。それとも、また何か特別なものなのだろうか。
と、ミントとミラノの足元の紋様が白く光を放ち始めた。
クロノとシグドがそれぞれ自身の連れを振り返る。
驚いた少年たちが何か言うよりも先に、シャボン玉が消えるように二人の姿が消えた。
その出来事を理解する間もなく、次に紋様の光に包まれたのはシグドだった。
「……!」
旧友を振り返ったクロノの目の前で、銀髪の姿が消えた。
その直後。
少年の視界から、いや、この場所から白の世界が消えて行った。足元の雪がまるで幻だったかのように溶けるようになくなる。
身に凍みる寒さが消えると、じめつく暑さが戻って来た。
「さすが、グラールが誇る優秀な通信部をまとめるだけのことはある。状況判断が早いな」
「お褒めにあずかり光栄だわ」
その会話に、その男が何者なのかクロノは理解した。
それは、グラールに引き抜かれ彼らの機械仕掛けの城へ連行された時だ。セラに連れられて挨拶した上層部の中で、一番偉そうな雰囲気を醸し出していた男。
その人物が今、目の前に立っているのだ。
――どこから、見ていた?
表情硬く、クロノが改めてその男を見やった瞬間。
「え?」
ふわりと不安定な浮遊感を覚えた。
恐る恐る落とした視線の先に見える、白い光を放つ紋様。
包まれてみて理解する。それは確かに魔力を放っていた。間違いなく紋章術だ。
エイレンが、吼えるように男に向かって叫んでいる。
だが、声が届いてこないので何を言っているのかはわからない。
一歩近付いて来た男の背後に、もうひとつ、人影を認めた瞬間。
クロノの視界は、雪とは違う白に包まれた。
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