Geometrially_spell_aria

吹雪舞桜

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第1章

049

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 第一回目の人体実験は、目も当てられないほどの惨状を残し、失敗した。
 初代が言葉を発することはない。音を聞くこともなく、物を見ることもない。五感を失ってしまったかのように、今もなお、存在し続けている。……実験体となった、当時の姿のまま。

 ただ、そんな彼女が唯一、微々たる反応を示すものがあった。
 彼女の実父が吸っていたという、煙草の香り。
 病室で煙草に火を付けたセラを咎めると、紫煙を吸いもしないで無愛想に打ち明けられたのが、今も記憶に新しい。
 しかし、もはや初代が回復を望める状態でないことを、彼女も悟っていたのかもしれない。

 セラは時折、病室にやってきては、語りかけるでも触れるでもなく、何も映さない瞳を見つめていた。
 ひどく静かな横顔で、手中の闇を尖らせていたこともあった。
 いつか自らの半身を手にかけてしまうのではないかという瞬間、普段は絶対に胸の内を吐露しないセラの、危うい情動が見えるようだった。
 その度に、ソエストは偶然を装って病室に駆け込んでいた。


 見込みのない未来のために、どうして術師結社に全てを捧げられるのか。初代も自分がセラを縛り付ける枷になることなど、望んでいるはずがない。
 だからこそ、彼は家柄を理由にして、研究に携わったのだ。
 セラから紋章術を奪うために。

 ジェネラルを用いて鍵を模造する方法――すなわち、人間に紋章術を植え付けるメカニズムがわかるなら、それを奪い去るメカニズムもわかるはずだと。
 初代を救うためだとかたりながら、彼女から紋章術というグラールに尽くす手段を奪い取ることで、術師結社と離別させようと考えていた。恐らく、ソエストの態度から、セラも薄々それに気付いていたのだろう。
 気付いていながら、そ知らぬ振りをしていた。
 互いに黙っていれば、セラはグラールの組織力を支え、ソエストはグラールの技術向上に貢献する。
 全く正反対の目的のために、両者が両者を利用していたのだ。


 しかし、その歪な関係は、最後まで、解消されることも破綻することもなく終わった。
 一方の死という、最も空しい形で。


「可能であれば、もう少し待って頂きたかった。……間に合いませんでしたか」
『――ソエスト。悪いが、お前の少しってのが長すぎたんだぞ』


 エイレンの寂しげな声音に、医者は、つと屋敷の天井を仰いだ。デスクワークに疲れた会社員がそうするように、長いため息をこぼす。


『ガエブルグが動き出しててな。セラも人体実験に聖槍が一枚噛んでることはわかってたと思うぞ。だけど、ここでグラールの首根っこを潰しておかないと、手に負えなくなるかもしれないから――』
「何のことやら。私にカルト教団の話をされましてもね」
『そんなことを言ってごまかしても、いつまでもジェネラルじゃいられないぞ! 良いか、ソエスト。お前はもう一般人でもただの医者でもないからな。武器の五つや六つ、持っておかないと本当に危ないんだからな!』
「ご心配には及びませんよ。生命保険はかかっていますので」
『……そういう冗談はキライだ。オレはまだ、お前に借りを借りっぱなしなんだぞ。延滞料金込み込みで、返さないといけないからな』


 電話相手の言う借りというのは、ずいぶん古い話だ。
 術師結社の仕事で死にかかっていたエイレンを拾って、一命を取り留めさせたという過去があるソエスト。グラールでは完全に殉職者扱いになってしまったらしいが、エイレンは案外、恩にこだわる男らしい。だが、彼が何を思って、殉職者の名をかたられたままでいるのかは知らない。ついでに言えば、知りたいとも思わない。
 ソエストはあくまで、結社とは関わりたくないのだ。


「では、通信部に扉の開錠をお願いできますか」


 できますか、と聞いておきながら彼は一方的に通話を切った。
 どうせあの少年の腕の抜糸で、また後日呼びつけられるに決まっているのだ。これ以上、術師結社などに長居したくはなかった。

 ソエストはケータイ画面に表示されたポインターを、目元の銀縁の中に見下ろす。
 彼はセラの死を知っていたわけではない。
 ただ、動向を探るためにシガレットケースに仕込んでいた発信機が、この屋敷を示していた。

 ここにセラはいない。

 彼女がそれを手放すときは、要するにそういうときなのだろうと。薄ぼんやりと思ったのだ。
 気のせいであってほしいと願わなかったといえば嘘になる。
 だがそれと同時に、彼女がもうこれ以上、グラールに犠牲を強いられることも、病室で独り、無力感に苛まれることもないのだと思うと、ソエストは何も言えない心持ちになった。


 電話での様子から察するに、あのシガレットケースを回収したのはエイレンではない。とすると。扱い辛い部下がいる、とセラが珍しく仕事の話を漏らしていたのを想起する。


 ――あの少年か。


 わざわざ死ぬ前に他人に託したということは、ケースの細工まで見通されていたということなのだろうか。わかっていながらずっと持ち歩いていたとは。


「……舐められたものですね」


 ソエストは足元の絨毯に向かって、ふとこぼした。
 眼鏡のフレーム脇で、封印扉の紋様が脈打ち、ゆっくりと開かれるのが見えた。
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