Geometrially_spell_aria

吹雪舞桜

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第2章

076

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古びた書物や、木の本棚が漂わせる独特の香り。
空き部屋ってこれがか、と、クロノはベッドを占める古書の山と、うず高く積まれた資料の塔に苦笑する。リアフェール本部の物置同然の資料室だった。

クロノは医者に促されるまま、ブレザーを脱ぐと椅子に浅く腰掛けた。その片袖を捲り上げて包帯を解くなり、ソエストが顕微鏡の微生物でも覗き込むような難しい顔をする。


「……負傷してから、十日ほど経過しましたでしょうか」
「それがなんですか」
「失礼。存外呆気なく塞がってしまったようなので、気味が悪くなってしまいまして」

 ――それって医者としてどうなんだ。


黙ったまま反論したクロノだが、患部の周辺を指で押さえて、出血しないことを確認すると、相手が本格的に未確認生物を見るみたいな視線を向けてきたので、何も考えないことにした。

ソエストはバッグのビニールから、医療用具を取り出すと、消毒液を染み込ませた脱脂綿をピンセットに、手早く傷口を拭き取る。糸玉を器用に引っ張り上げて、根元へハサミが入れられた。相変わらず、裁縫か図工でもやるような、素っ気ない手付きだ。
手際よく切られていく黒糸に、チクチクした痛みを感じながらも、クロノは表情を動かさずに銀縁の中の両眼をじっと見据えた。


「……あんた、何か説明することがあるだろ」


抑揚のない低音。
警戒心丸出しの口振りだったが、医者は大して気にした風でもなく、手を止めることもない。


「医療行為中ですので。集中を乱すようなことはおっしゃらない方がよろしいかと」
「俺はソエストって名前を、今日初めて知ったんだけど。エイレンの言い方でなんとなく予想はついてたけど。あんたの名前で合ってるのか」
「さあ、どうでしょうか。残念ですが、名刺を切らしておりまして」
「さっきエイレンがそう呼んでた。大声で」


何しろ、エイレンが彼の名を口にするまで、クロノの中でソエストの呼称は〝ヤブ医者〟だったのだ。
黙然と糸を切りながら、興味すらなさげな様子のソエスト。

名前ひとつ認めさせるのでこの調子だ。
リーダーの軽薄さに初めて感謝しながらも、先が思いやられる反応に、少年は眉根を寄せる。


「あんたは実験施設の研究員だし、エイレンもそのことを知ってるな。グラールとガエブルグの被験者の取引関係だって、当然わかってたんだろ。あんた、エイレンと何か企ててないか?」
「…………」
「それから、社長が世話になったのは俺からも感謝するけど。だからって、何であんたがリアフェールの本部にまで来る必要があったんだ。葬儀を見に来たのか?」


詰問以外の何物でもない。
眼鏡越しの双眸を細めたと思うと、ソエストは涼しい顔で無造作に最後の糸玉を切る。
少年の腕に、刺すような痛みが走った。

苦い顔付きを向けたクロノだが、「手元が狂ってしまいました」なんて、さも申し訳なさそうに言ってのけたソエストは、サージカルテープを腕の縫い目に貼り付けるなり、さっさと医療用具をしまい始めた。


「では、一週間に一度テープの貼り替えを。三ヶ月はテープ固定をして頂きたいのですが、私は使い手さん方の治癒力を存じませんので。防水性でしたら、入浴なさっても結構です。ただ、患部への紫外線は極力避けられることをお勧めします。傷痕が残って――」
「医者みたいなこと言ってないで、質問に答えてくれないかな」


クロノのガサツな一言に、彼は形だけでも親身なアドバイスをする気が失せたようだった。
真一文字に口を結び、眼鏡のブリッジを押し上げる。


「……その前に、貴方も何かおっしゃることがあるのでは?」


無言で問い返した少年に、医者は迷いない口上で言った。


「お祝い申し上げますよ。貴方はまだお若いので、これからジェネラルとして生きていくこともできるでしょう」


クロノは返す言葉を失った。
真っ白になった頭の隅で、ジェネラルは実験施設の用語だったのか、と場違いな確信を抱く。

バッグの中身を整えながら、ソエストは淡々と告げる。


「紋章術への適性は残っているようですので、純粋なジェネラルとは言い難いですが。一般社会で生活されるのでしたら、経歴は詐称して頂く必要があります。術師結社への関与は、悪印象にしかなりませんので――」
「冗談じゃない。俺が術師結社から離れるつもりなら、あんたから聞き出すことは何もない」


遮ったクロノの声は静かだったが、惜しげもない全否定がにじみ出ていた。
これ以上ないほどの拒絶の姿勢。

ソエストの表情に、同情のような色が混じった。


「何故そこまでして、術師結社に執着されるんです? 紋章術から解放された今でなければ、選べない選択肢もあるでしょう」


どういう訳か、抜糸後のケアを説明するよりも、真剣な口調だった。

しかし、術師結社を捨てるなんて毛頭ないクロノにとっては、見当違いなアドバイスだ。
否定を口にすることすら面倒に思ったクロノだが、ソエストは茶化している様子でもない。


「あんたにそんなこと言われる筋合いないだろ。医者が患者の人生にまで口出しするな」
「これは研究の実証をして下さった貴方への、せめてもの敬意の表れですよ」


さらりと告げられた一言。
クロノは構わずに一蹴しかけて、開いた口を止めた。


 ――今、なんて言った?


それを理解するだけの、わずかな瞬間。
男に向けられていた少年の目付きが、一気に様相を変えた。

突然椅子から立ち上がったと思うと、目にも止まらぬ勢いで、ソエストの襟首を掴む。


「……全部吐いてもらう。それまで、ここから出れないと思え」


抵抗するなら命を奪う、という彼の剣幕に、普通の人間であれば絶句しただろう。
しかし、脅された当の本人は、現状を正しく呑み込めていないのではないかというほどに、冷め切っていた。クロノの眼光を受け流し、椅子に腰掛けたまま、ため息を漏らす。


「ご自分が紋章術を使えないということを、もうお忘れになりましたか」


ひどくシャクに障る言い草だった。
クロノは襟を掴む手に、ぐっと力を込める。
しかし、抵抗する素振りも見せずに、静々とした口調は続けられた。


「ここまで間合いを詰めてきたということは、銃器以外の、比較的長さの短い凶器をお持ちのようですが。貴方は年相応の体重がないようですので、大の大人に突き飛ばされれば、距離が空いてしまうでしょう」
「…………」
「貴方の後ろに何があるか、ご存知ですか」


当然のことだ。
ここに入室した当初から、クロノは部屋の状況を把握済みだった。

勧められた椅子の背後には、木製のチェストが置かれている。その上に、山のように積み上げられた書物。……と、そこまで考えて、少年は思わず眉を曇らせた。


「突き飛ばされて本が崩れでもしたら、身動きが取れなくなるのでは? 私が銃でも隠し持っていたとしたら、貴方は反撃の余地がなくなってしまいますが」


どうされますか、と抜け抜けと問い掛けるソエスト。
今この瞬間に、ベルトのナイフを突き付けられれば済む話だが、相手は一般人といえど馬鹿ではない。クロノがこれ以上の行動を見せれば、黙って見ているようなことは絶対にしないだろう。考えてみれば、丸腰で術師結社に出入りする一般人がいる訳がないのだ。
相手の凶器が刃物ならまだしも、銃だった場合。
クロノに対抗できる手段はない。


 ――紋章術ひとつなくなっただけで、このざまか。


愕然と立ち尽くすクロノ。その腕がやんわりと掴まれる。
ソエストは襟首の手を易々と解いた。
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