79 / 97
第2章
078
しおりを挟む
「彼女の毒が、紋章術と同じように血液にも含まれている事実と、それを使い手が実際に受けた場合。貴方が協力して下さったおかげで、今度こそはっきりとした実証が得られましたよ」
「協力したくてした訳じゃない。それに、今度こそって――」
「今までのものは、失敗作と言わざるを得ません。事実、貴方は記憶障害しか起こさなかったでしょう」
血の気が引くのを感じた。
今回、グラールとガエブルグの取引に使われたのは、以前クロノが回収したアタッシュケースに酷似するものだった。しかも、グラールで鍵の回収を命じられたあの日、そのアタッシュケースに関する記憶だけが抜け落ちている。
そして、ソエストが口にした、記憶障害という言葉。
クロノの中で、情報と情報が、かすかに繋がりを持った。
「……記憶障害って何のことだ」
「何のこと、と言われましても。貴方は、ソエストという名前を今日知った、とご自分でおっしゃった」
「それがどうしたんだ?」
「そうお思いになるのが、記憶障害の最たる証明でしょう。私はアタッシュケースを持った貴方と、グラール本部で自己紹介を済ましておりますので」
クロノは言葉を失った。
以前にも会っている? グラール本部で?
記憶になかった。
思い出そうにも、掘り起こす記憶自体が、彼の中から失われているのだ。
言いようのない空虚感に、クロノは背筋を冷たくする。
「カリバーンでお会いした際に、私が名乗りもせずに治療に取り掛かったのを、不可解に思われませんでしたか? 薬剤や輸血はタブーか否か、術師結社の宗派。あれは、本来の初対面の際に私が貴方にした質問事項、そのものだったのですが」
貴方は以前とまったく同じ答えを返して下さいましたね、と。
退屈そうな顔で、眼鏡へ指をやったソエスト。
あの質問攻めが、毒素の影響を知るための探りだったと思うと、心底気分が悪くなった。
「……あんたは、あのアタッシュケースがどうなったのか知ってるのか?」
「それは、貴方が上からのご命令でケースを廃棄した後、どのようにして貴方の体が毒されたのか、という意味でよろしいのでしょうか」
――わざと言ってるのか、こいつ。
クロノが聞きたかったのは、手元からアタッシュケースが消えた理由であって、その先の説明などではない。そもそも、自分で廃棄した記憶すらない彼にしてみれば、ソエストの言い回しは嫌味そのものだ。
神経を逆撫でされながらも、クロノはそれ以上の言及を避けた。
相手がさり気なく話題を散らそうとしているのは、分かり切ったことだ。
それに、今彼が聞くべきなのは、そんなことではない。
少年は眉を歪めながらも、まっすぐにソエストを見た。
「俺はこのままでいるつもりはない。紋章術を取り戻したい」
彼の一言は、薄暗い資料室にやけに響いた。
ソエストの目付きがさっと曇る。
露骨に難色を示した男を、クロノはなんとなく珍しく思った。
「先ほども申し上げましたが。何故そこまでして、この世界で生きようとされるんです? せっかく紋章術を手放せたというのに、いい機会だとお思いになりませんか」
「思わない。俺はこっち側でやっていくって決めたからな」
揺らぎもしない否定。
閉口したのかもしれない。長いため息がつかれた。
それでも、埃と古書が占めるこもった香りの中、ソエストの声は静かに問い掛けた。
「君はもう少しよく考えるべきだ。術師結社や紋章術が、何をもたらすのか」
一瞬、独り言ではないのかと錯覚した。
人を食ったような丁寧語が、鳴りを潜めていた。
相手の言い分を一蹴できなかったのはその所為だろう、と無意識の内に自分へ言い聞かせるクロノ。
ソエストは、相変わらず淀みない言葉付きで語を並べた。
「私は結社の存在に意味を見出せないのでね。悲劇の元凶でしかないなら、絶ってしまった方がよろしいかと」
貴方はそうは思われませんか、と。
共感を求めるでも、押し付けるでもない純粋な疑問のような口振りが、妙にあざとく見えた。
何も答えずにいるクロノは、彼の目にどう映ったのだろう。
「……それがあんたなりの正義か? じゃあ、そっちの目的は、紋章術の撲滅ってことだな」
この男に紋章術の奪還を相談するのは見当違いだったようだ。
それどころか、一生涯、協力できそうにない。
言外に引導を渡したクロノだったが、ソエストは思い出したように微笑した。
「正義? そんなに大それたものではありません。言うなれば――私怨ですかね。それに、撲滅だなんてとんでもない。ジェネラルがいくら抗ったところで、使い手さん方にはかないませんので」
「だったら、何の為にここにいるんだよ」
少年が大して興味もなさそうに聞いた所為だろうか。
問われた男もまた、驚くほどあっさりと答えてのけた。
「やはり、私怨でしょう。私にも、何がどうしても存在自体が許せない相手というのがいましてね。そのお方に〝こちら側〟からご退場頂くまで、私も退くに退けないのですよ」
呆気なく話すには、ずいぶんと不穏な動機だった。
しかも、ソエストの立場から推測するに、クロノはその人物に少なくとも心当たりがあった。
まさか、と憶測の相手を思った時だった。
「協力したくてした訳じゃない。それに、今度こそって――」
「今までのものは、失敗作と言わざるを得ません。事実、貴方は記憶障害しか起こさなかったでしょう」
血の気が引くのを感じた。
今回、グラールとガエブルグの取引に使われたのは、以前クロノが回収したアタッシュケースに酷似するものだった。しかも、グラールで鍵の回収を命じられたあの日、そのアタッシュケースに関する記憶だけが抜け落ちている。
そして、ソエストが口にした、記憶障害という言葉。
クロノの中で、情報と情報が、かすかに繋がりを持った。
「……記憶障害って何のことだ」
「何のこと、と言われましても。貴方は、ソエストという名前を今日知った、とご自分でおっしゃった」
「それがどうしたんだ?」
「そうお思いになるのが、記憶障害の最たる証明でしょう。私はアタッシュケースを持った貴方と、グラール本部で自己紹介を済ましておりますので」
クロノは言葉を失った。
以前にも会っている? グラール本部で?
記憶になかった。
思い出そうにも、掘り起こす記憶自体が、彼の中から失われているのだ。
言いようのない空虚感に、クロノは背筋を冷たくする。
「カリバーンでお会いした際に、私が名乗りもせずに治療に取り掛かったのを、不可解に思われませんでしたか? 薬剤や輸血はタブーか否か、術師結社の宗派。あれは、本来の初対面の際に私が貴方にした質問事項、そのものだったのですが」
貴方は以前とまったく同じ答えを返して下さいましたね、と。
退屈そうな顔で、眼鏡へ指をやったソエスト。
あの質問攻めが、毒素の影響を知るための探りだったと思うと、心底気分が悪くなった。
「……あんたは、あのアタッシュケースがどうなったのか知ってるのか?」
「それは、貴方が上からのご命令でケースを廃棄した後、どのようにして貴方の体が毒されたのか、という意味でよろしいのでしょうか」
――わざと言ってるのか、こいつ。
クロノが聞きたかったのは、手元からアタッシュケースが消えた理由であって、その先の説明などではない。そもそも、自分で廃棄した記憶すらない彼にしてみれば、ソエストの言い回しは嫌味そのものだ。
神経を逆撫でされながらも、クロノはそれ以上の言及を避けた。
相手がさり気なく話題を散らそうとしているのは、分かり切ったことだ。
それに、今彼が聞くべきなのは、そんなことではない。
少年は眉を歪めながらも、まっすぐにソエストを見た。
「俺はこのままでいるつもりはない。紋章術を取り戻したい」
彼の一言は、薄暗い資料室にやけに響いた。
ソエストの目付きがさっと曇る。
露骨に難色を示した男を、クロノはなんとなく珍しく思った。
「先ほども申し上げましたが。何故そこまでして、この世界で生きようとされるんです? せっかく紋章術を手放せたというのに、いい機会だとお思いになりませんか」
「思わない。俺はこっち側でやっていくって決めたからな」
揺らぎもしない否定。
閉口したのかもしれない。長いため息がつかれた。
それでも、埃と古書が占めるこもった香りの中、ソエストの声は静かに問い掛けた。
「君はもう少しよく考えるべきだ。術師結社や紋章術が、何をもたらすのか」
一瞬、独り言ではないのかと錯覚した。
人を食ったような丁寧語が、鳴りを潜めていた。
相手の言い分を一蹴できなかったのはその所為だろう、と無意識の内に自分へ言い聞かせるクロノ。
ソエストは、相変わらず淀みない言葉付きで語を並べた。
「私は結社の存在に意味を見出せないのでね。悲劇の元凶でしかないなら、絶ってしまった方がよろしいかと」
貴方はそうは思われませんか、と。
共感を求めるでも、押し付けるでもない純粋な疑問のような口振りが、妙にあざとく見えた。
何も答えずにいるクロノは、彼の目にどう映ったのだろう。
「……それがあんたなりの正義か? じゃあ、そっちの目的は、紋章術の撲滅ってことだな」
この男に紋章術の奪還を相談するのは見当違いだったようだ。
それどころか、一生涯、協力できそうにない。
言外に引導を渡したクロノだったが、ソエストは思い出したように微笑した。
「正義? そんなに大それたものではありません。言うなれば――私怨ですかね。それに、撲滅だなんてとんでもない。ジェネラルがいくら抗ったところで、使い手さん方にはかないませんので」
「だったら、何の為にここにいるんだよ」
少年が大して興味もなさそうに聞いた所為だろうか。
問われた男もまた、驚くほどあっさりと答えてのけた。
「やはり、私怨でしょう。私にも、何がどうしても存在自体が許せない相手というのがいましてね。そのお方に〝こちら側〟からご退場頂くまで、私も退くに退けないのですよ」
呆気なく話すには、ずいぶんと不穏な動機だった。
しかも、ソエストの立場から推測するに、クロノはその人物に少なくとも心当たりがあった。
まさか、と憶測の相手を思った時だった。
0
あなたにおすすめの小説
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
〖完結〗終着駅のパッセージ
苺迷音
恋愛
分厚い眼鏡と、ひっつめた髪を毛糸帽で覆う女性・カレン。
彼女はとある想いを胸に北へ向かう蒸気機関車に乗っていた。
王都から離れてゆく車窓を眺めながら、カレンは夫と婚姻してから三年という長い時間を振り返る。
その間、夫が帰宅したのは数えるほどだった。
※ご覧いただけましたらとても嬉しいです。よろしくお願いいたします。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
元公爵令嬢は年下騎士たちに「用済みのおばさん」と捨てられる 〜今更戻ってこいと泣きつかれても献身的な美少年に溺愛されているのでもう遅いです〜
日々埋没。
ファンタジー
「新しい従者を雇うことにした。おばさんはもう用済みだ。今すぐ消えてくれ」
かつて婚約破棄され、実家を追放された元公爵令嬢のレアーヌ。
その身分を隠し、年下の冒険者たちの身の回りを世話する『メイド』として献身的に尽くしてきた彼女に突きつけられたのは、あまりに非情な追放宣告だった。
レアーヌがこれまで教育し、支えてきた若い男たちは、新しく現れた他人の物を欲しがり子悪魔メイドに骨抜きにされ、彼女を「加齢臭のする汚いおばさん」と蔑み、笑いながら追い出したのだ。
地位も、居場所も、信じていた絆も……すべてを失い、絶望する彼女の前に現れたのは、一人の美少年だった。
「僕とパーティーを組んでくれませんか? 貴方が必要なんです」
新米ながら将来の可能性を感じさせる彼は、レアーヌを「おばさん」ではなく「一人の女性」として、甘く狂おしく溺愛し始める。
一方でレアーヌという『真の支柱』を失った元パーティーは、自分たちがどれほど愚かな選択をしたかを知る由もなかった。
やがて彼らが地獄の淵で「戻ってきてくれ」と泣きついてきても、もう遅い。
レアーヌの隣には、彼女を離さないと誓った執着愛の化身が微笑んでいるのだから。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる