激しさに壊され 優しさに抱かれる

杜若薫-かきつかおる-

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第5話 大丈夫、と笑うしかなくて

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夜勤明けの部屋。ベッドに倒れ込んでも、まぶたの裏にはまだ残像がこびりついていた。 あの光、あの声。左手薬指に見えた指輪の残像と、電話の向こうに向けた柔らかい声――「遅くなると、俺が心配するから」――。
思い出したくないのに、彼の声は耳の奥で、骨を伝って何度も反芻される。
あれは遊びだ、と突き放した冷たい声と、甘く囁いた声が、心の中で乱暴に取っ組み合い、かき乱す。 布団を頭まで深くかぶった。
けれど、身体の芯に残るあの夜の熱は消えない。
「……嘘だろ」
かすれた声が勝手に漏れた。唇を噛みしめても、身体の奥底に残る彼の感触が、まだ彼を求めていると突きつけてくる。 そんな、満たされない自分が情けなくて、涸れた瞳からは涙さえも出なかった。

食欲は落ち、体は鋭く痩せていく。鏡に映る青白い顔は、まるで血を抜かれたみたいで、思わず目をそらした。 制服に着替え、病棟へ向かう。出勤すれば、仕事は待ってくれない。 点滴、採血、バイタルサイン。目の前の命に集中している間だけは、胸を締めつける余計なことを考えずに済んだ。

「先輩、最近ちょっと痩せましたよね? 絞りすぎじゃないですか」
同僚の言葉に、とっさに笑顔を作る。
「ダイエット中なんだよ。夏が近いから」
冗談めかしたけれど、口元が不自然に引きつるのが自分でも分かった。



ナースステーションに戻ると、バタバタと準備をしている新人が目に入った。
大きな声で患者に挨拶し、機敏に動き回る彼は、まるで人懐っこい子犬のようだ。 俺がカルテを閉じると、彼は勢いよく駆け寄ってきた。
「先輩、お疲れさまです!」 元気な声と一緒に、額の汗を拭った屈託のない笑顔。

「……あれ、やっぱ顔色悪いです。目の下にクマも。大丈夫ですか?」
ぐっと顔を覗き込んでくる。近すぎる距離に、彼の体温と、微かな石鹸の香りが鼻をくすぐり、思わず身を引いた。
「大丈夫だよ」無理に笑顔を作って見せる。 「ほんとに? 嘘っぽいなぁ」
わざとらしく首を傾げ、じっと見上げてくる彼の瞳は、曇りなく真っ直ぐで、眩しい。

「これ、食べてください!」
差し出されたのは小さなチョコ菓子。包装越しにも分かる、冷たさ。
「僕、夜勤のとき絶対これで持ちこたえるんです。先輩にも効きますって」
得意げに笑いながら、俺の手に半ば強引に押し込んできた。

「……ありがとう」 自分の声が、少し掠れたことに驚いた。 人懐っこい笑顔と、まっすぐな声。あまりに純粋で、張りつめていた胸の奥がじん、と熱くなった。

「ちゃんとごはん食べてくださいね。先輩が倒れたら、僕、ほんと困るんで」
そう言って、何の邪気もなく笑う。 その言葉は、本気か冗談か。けれど、彼の無邪気な熱に触れ、救われた気がした。 チョコの甘さが舌に広がり、凍りついていた胸の奥が、氷が溶けるように少しだけ和らぐ。

こんなにも人の優しさ、ぬくもりに飢えていたんだと、気づかされる。 ほんの小さな温度なのに、涙がこみ上げそうになった。 でも、今はまだ、俺は笑顔を作るしかない。



次の病室へと足を向けた直後、緊急コールが鳴り響いた。
重症患者のバイタルが急変。ナースステーションは一気に緊迫する。 「先輩、A-301号室です! モニターのSpO2が急低下!」 新人の、先ほどの無邪気さが嘘のような、緊迫した声が飛ぶ。

俺は即座に立ち上がり、カートを押して病室へ向かう。頭の中で手順を組み立てながら、ふと気づいた。 A-301号室は、新人が担当している患者だ。
術後、特に注意を要すると申し送りをしていた。 彼は顔を青くしながらも、迅速に酸素投与量を上げ、医師への報告を始める。報告はたどたどしいが、要点を押さえている。

「先輩。SpO2が84です。呼名には反応ありますが、呼吸が浅く、顔色は悪いです。お願いします!」

俺は彼の横に立ち、落ち着いた声で指示を出す。
「よし、吸引の準備。先生には連絡してるから、挿管するまで、アンビューバッグで補助呼吸だ」 「は、はい!」
彼は深くうなずくと、震える手で吸引チューブを組み立て始める。

処置が一段落し、患者の容態が安定したとき、俺たちの額には大量の汗が滲んでいた。 湊は、腰が抜けそうになりながらも、その場で深々と頭を下げた。

「す、すみません! 僕の観察が甘くて……」
俺は彼の肩にそっと手を置いた。熱い。
「お前の観察は甘くない。急変は防げない。だが、お前が迅速に初期対応をしたから、事なきを得た」
俺は彼の肩を強く叩いた。
「動揺しながらも、やるべきことをやった。よくやった」

その言葉に、湊は瞳を潤ませ、唇を噛みしめた。
「……先輩」 彼は立ち上がると、無意識だったのだろう、俺の腕をぎゅっと掴んだ。 震える指先が、ユニフォームの上からでも熱を伝えてくる。
「怖かったです。でも、先輩が隣にいてくれて……すごく、安心しました」

その熱と、切実な声。 俺は、彼の手を振り払うことができなかった。 こんなにも、他人の熱を、必要としていた。 ただの職場の先輩後輩ではない、何か別のものが、彼の指先から俺の腕へと流れ込んできた気がした。

「ああ。今日はもう上がれ。残りは俺がやる」
俺はそっと腕を抜き、彼の頭にぽんと手を置いた。

湊は、真っ赤な顔で俺を見上げる。その目には、感謝と、かすかな熱が宿っていた。
「……ありがとうございます。でも、僕も最後までやります」
疲労の色を隠せない笑顔だが、そこには、先ほどの不安はもうなかった。 彼の熱は、俺の冷え切った心臓に、まるで電気ショックのように、僅かな鼓動を呼び戻した。 握りしめたポケットの中のチョコは、完全に溶けてしまっている。

俺は次の病室へと足を向けた。
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