黒き魔人のサルバシオン

鈴谷凌

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二章「聖域を巡る旅~咲き綻ぶ光輝~」

二章 第四十三話「少女の目覚め」

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 頬を伝う熱い何かを感じ、ジェナは徐に目を開けた。映る天井は懐かしいもので、背中には心地よい布団の感触。どうやらソレイユ村の自室で寝ていたようだと、寝ぼけた意識で状況を把握していく。

「なんで泣いてるんだろ、私……」

 身体を起こしながら拭った水滴は、単なる生理反応で片付けられない量を示していて。ジェナは不審に思った。一体何が原因なのだろうか思い出していく過程で、最後に気を失ったあの戦闘での出来事が想起される。
 あの魔物。かつて母親だったモノを倒した瞬間だ。記憶の断絶が生じているのは。
 そしてさらに不思議なことに。ジェナの着衣は白いケープコートの旅装から、いつの間にやら白い簡素な寝巻に替えられていた。
 これは一体どういうことか。着替えた記憶はやはりなく、そもそも自室に帰った覚えもない。
 気絶と覚醒との間にジェナが覚えていることに光精霊ルシエルとの交感が挙げられるが、それが今の状況と結びつくとは思えない。
 そうして戸惑っているばかりいると、部屋の扉が唐突に開け放たれた。
 イルミライト特有の白の礼服に、淡い青の髪色。ジェナの記憶にも馴染みのある侍女が、杯と布を乗せた盆を片手に入室してくる。

「チェルシー?」

「ひ、姫様!? ようやくお目覚めになられたのですねっ!」

 ジェナの覚醒に気づくや否や、物凄い勢いで距離を詰めてくるチェルシー。手にしている盆の杯には水がなみなみ注がれているようで、彼女の動きに応じて激しく揺れていた。
 何とも危ないものだ。ジェナが指摘すれば彼女はまたしても大袈裟な動きで頭を下げる。どうやら言っている意味が分からないらしい。
 やがて気を取り直したチェルシーは盆をそっと畳に置くと、ジェナの傍らに正座した。

「お身体は大丈夫なのですかっ!」

「ええ、問題ないです――って、いや、そうじゃないか」

「やはりどこか具合がっ!?」

「違います! ……そうじゃなくてね」

 チェルシーとは子供の頃からの仲だというのに、今回里帰りするまで他人行儀な態度を貫いてしまっていた。
 このソレイユの地にいる間は、六霊守護の任を継ぐ姫様としての仮面をずっと外せず、民たちの未来を背負う覚悟を周囲に示してきた。それこそが覆せない彼女のあるべき姿だと信じ込んでいたのだ。
 だがそれも、いま思えば何と浅はかなことか。
 無闇に自分を殺し、取り繕っているばかりだったからこそ、ジェナの六霊守護としての修行は難航していたのだろう。
 闇魔法の適性や、伝統ある責任。ジェナを縛り付けていたのはそれら外の要素ではなく、他ならぬ彼女自身の内なる心であった。
 旅を経た今ならばそれが分かる。祖父母に反抗されようと、両親の過去が如何に凄惨であろうと、自信をもって前を向けるだろう。
 と、気づけば熱が入ってそんなことを語ってしまっていたが、チェルシーは戸惑うことなく話に耳を傾けていた。時に明るく、時に呆れて。まるで長年の友人のような調子で相槌を打ちながら寄り添って。

 ジェナが一頻り話し終えると、チェルシーはジェナが眠っていた間の出来事を詳細に語ってくれた。
 聖域の魔素異常は魔獣マルティコアスの消滅を境に正常に戻り、アルクロット山麓付近のサノワに集まっていた魔物も駐留していた騎士団が無事に殲滅したとのこと。
 現在は騎士団長補佐官のナタリアが事件の収束を各地に知らせるために奔走しているらしい。あの可愛らしく小さな鳥人種が懸命に働いている姿を想像すると、思わず頬が綻ぶジェナであった。
 グレンとロレッタ、ドウェインが率いるソレイユ戦士団が追っていたミルドレッドの行方は分からずじまいであったようで。
 特に何をするでもなくこの地を去ったことだけは明らかだったのだが、魔力の消耗によって衰弱したロレッタは珍しく気落ちしているとの話である。
 最初こそ信じられないジェナであったが、彼女のこと魔物相手に見せる執着を鑑みれば、それは理解のできる落胆であった。
 今は主にグレンが気を回しているとのことだったので、ジェナはひとまず胸を撫で下ろし。それからアルクロットに到着してからの彼女たちへの態度を思い、後で改めて謝意を示そうと考えを巡らせるのだった。

 ジェナにとって意外だったのは、聖域から帰還したエヴリンがエルキュールの件について謝罪の意を示したという話だ。
 エルキュールがエヴリンの結界を突破したというのは、彼の正体を知る今となっては不思議ではなかったが。どうやらソレイユの未来のために独断で策を講じたヘクターの存在も、この結末に寄与していたようである。
 ヘクターはジェナにとって年の離れた兄のような存在であり、常に本質を見通すかの如く鋭い眼つきが昔から印象的であった。その気質を知っていたジェナからすると、今回彼がエルキュールを助けたという事実は妙な納得感を伴う出来事に思える。
 兎にも角にも。今回エルキュールのもたらした結果が、これまで排他的に過ぎた六霊守護の在り方に少しでも革新を与えるものであれ。末裔として、エヴリンの正統後継者として、ジェナは願いを胸にした。
 斯くして、積もる話も尽きようとした頃。

「それにしても、本当に良かったです。こうして再び言葉を交わせて。姫さまったら、カドゥケウスを手にしてから三日も眠り続けてたから……他の皆様も心配していたのですよ?」

「みんな……そうだ、早くエル君たちにも顔を見せ……って、うん?ちょっと待って――!」

 チェルシーのふと漏らした言葉。ジェナは耳を疑った。

「三日、って言ったの? うそ、そんなはず――」

「姫様は魔力を使いすぎたようだって、エルキュール様が。ああ、マルティコアスが持ち出したカドゥケウスに関しては、エヴリン様が聖域の最奥に再び安置されたとのことなので。どうか安心してください」

「あはは……うん、そうだね。はあ……ルシエル様、一瞬だって仰ってたのになぁ」

 思い起こされるのはあの邂逅の件。その時間はこのヴェルトモンドの尺度では刹那に過ぎないという話だが、流石は幾星霜の歳月を知る大精霊。根本的にヒトとは時間の感覚が異なるようだ。
 こちらを安心させるためのルシエルの言は却って肝を冷やさせたが、ジェナが消耗した魔力に鑑みれば三日の昏睡はやむ無しであろう。
 無理やりにでも、そう納得することにした。

「と、そうだ。みんなのことだったね。彼らにも色々と話したいことがあるし。チェルシー、今の時間は?」

「夕刻でございます。まだ日没までは余裕がありますが、この時期でも外は冷えますのでまずはお着替えの方を」

「うん、用意してくれる?」

「勿論、姫様のためならば。今日はいつもの礼服ではなく、あの旅装をお持ちしましょう」

「……えへへ。流石チェルシー、分かってるね」

 実に素晴らしい回答である。
 これを機に、この愛らしい侍女と真に通じ合えた気がして。ジェナは思わず彼女を抱きしめながら礼を述べたのだった。





 これほど晴れやかな気持ちでイルミライトの屋敷を歩くのは、ジェナにとって一等珍しいことである。六霊守護として、一族や村民に見せる言動にはかなり神経を擦り減らして生きてきた。
 しかしその日々はもはや過去のもの。各地を旅し、聖域での闘いの果てに、終ぞジェナは自らの真なる価値を認めることができたのだ。在りし日の記憶の集積を再定義し、役割に縋る己が在り方を破った。
 それもこれも、全ては仲間や周囲の支えがあったからこそ。ジェナは自らの幸運を噛み締めながら回廊を行く。
 そして、寝殿と客室のある西の間を繋ぐ廊下に差し掛かったとき。ジェナは廊下の中程で足を止めた。
 彼女が目当ての客間に着くより早く。赤毛の青年がその姿を現す。
 この都合の良さ。相変わらず、周囲に気を配っている故のことなのだろう。こちらの身を案じる言葉に、ジェナは苦笑しながら彼を迎えた。

「グレン君……何だか久しぶりに会った気がするね」

「そうかよ。どっかの誰かがよそよそしく接してくれたからかもなぁ」

 縁側に身を寄せ並び立つ彼を見上げると、意地の悪い笑みが返ってくる。それだけで、たったそれだけのことで。ジェナの目には涙が滲んだ。
 ここに来てからは随分と嫌な振る舞いを見せてきたというのに。ジェナは今まで良縁に囲まれてきたことをつくづく実感した。
 それから謝意を示そうとしたが。当のグレンは取り合わなかった。代わりにイルミライトの屋敷を案内してほしいとのことなので、ジェナは自身が最も気に入っている釣殿に彼を招いた。
 釣殿は庭園に設えられた池を眺めるために建てられ、外に突き出すように伸びている。ジェナはむかし修行で行き詰まると、よくその縁に座って追憶に耽ったものだった。
 修行の日々も、両親と過ごした美しき過去も。今となっては意味が異なるものだったが、ここから望む景色はその日のままであり。ジェナは夕焼けに照らされた水面を愛おしげに眺めるのだった。

「実を言うとだな――」

 池を泳ぐ魚から目を離さずにグレンが口を開いた。

「お前が六霊守護の仮面を被っていた時……オレはどこか冷めた、っていうか、仕方のねえ事情だと半ば無理やりに自分を納得させようとしていた。笑うよな? てめえはガキの頃に家を出ておきながら、他人のことになると何の言葉もかけられなかった。一族のためにお前が心の中で苦しんでいることなんざ、あいつらより分かってやれる立場だってのによ……」

 それは罪の告白のようであった。
 この王国で何よりも貴い正義を掲げる一族、正義の執行者ともあろう者による、懺悔にも等しいその言葉に。ジェナは面を上げて彼の横顔を見つめた。
 ブラッドフォードの歴史については、ジェナもソレイユで修行に明け暮れていたときから知っていた。アートルムダールの戦役により、当主の弟であるカルヴィンが逝去。その後グレンの父であるヴォルフガングは他の王都貴族と同じく保守的で怠惰な政治にかまけ、それに歯向かう形でグレンは家を飛び出した。
 王都での激戦の中で、両者にあった溝は埋められることになったが、思えばジェナは、この青年をどこか羨んでいた節があったのかもしれない。
 たとえ激しい風雨のなかにあっても、彼は決して内にある正義の炎を絶やさなかった。本人はその過ちの数々を悪いように言うが、何事にも行動で態度を示す姿は眩しいもので。
 そんな彼に謝られるとジェナも心苦しくなってしまう。
 お互い無事に今回の事件を切り抜けられただけで良いだろう。微笑みと共に返せば、グレンの表情にも光が灯った。

「私たち……似ているようで違うなって思ってたけど。やっぱり似た者同士だったのかもね」

「なんだそりゃ。上手いこと言ってるようで全然上手くなさそうな言葉だな、おい」

「うるさいなぁ。雰囲気で伝わればいいでしょ、雰囲気でっ!」

 以前のように話せなくなっていたら。ジェナが感じていた心配は蓋を開けてみれば杞憂に終わった。
 それから少し取り留めのない話をした後、グレンが思い出したかのように声を上げた。

「そう言えば。似ている似ていないで言えばあいつらのことだ。オレばかり相手してないでエルキュールとロレッタにも顔を出して来いって」

「あっ、そうだったよ! グレン君、教えてくれてあり――」

「まあ? オレに惚れてるってのなら仕方な……って痛えなバカ!」

 調子づくグレンの左肩に拳を叩きこみ、その勢いのまま立ち上がる。「案外力強えじゃねえか……」と苦しい顔をする彼に別れを告げ、ジェナは釣殿を後にした。
 そのまま先ほど行きかけていた客間に急ごうとする背に、遠くからグレンの声がかかる。

「あいつらなら部屋にいねえぞーっ! 何か二人で村の方に出ていったみたいだーっ!」

「……! わざわざありがとーっ! もう暗くなってくるし、あなたも早く部屋に戻ってねーっ!」

 ジェナは回廊を引き返すと中庭に降り、池に架かる橋を渡って敷地の外へと出た。
 高所にあるソレイユの夜は概して冷えるものであるが。今のジェナにとっては大した問題ではない。
 早くあの二人にも会わなければ。彼女は心を躍らせながら街への道を歩き出した。
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