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第3章 この人が欲しい
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翌日、副社長室はまるで嵐でも訪れたかのように、女性の金切り声が響いていた。時折、ものを叩く音もする。
休憩から帰ってきた唯は一体何事だろうかと、恐る恐る部屋の前に立った。社員の中で千歳相手に強い態度で出る女性に心当たりはない。かといって、今日は来客の予定もなかった。もちろん、知らないふりはできない。彼の秘書だからという理由はもちろんのこと、唯のデスクは副社長室にあった。どこかで時間を潰すという選択肢もあるが、この調子では無理矢理にでも追い出さなければずっと居座っていそうだ。
(こんなことなら、二人きりになるのが気まずいからって出なければ良かった……)
もっと気まずい思いをすることになってしまった。
唯はあえて、副社長室の扉をノックする。
普段はしないのだが、これで会話が止まってくれないだろうかと期待したのだ。
「だから……っ……で、……てよ!」
しかし、会話が止まる気配はない。副社長室は会話の内容が室外に聞こえないよう設計されているのだが、断片的に会話が聞こえるほど怒鳴っているのが分かる。作戦は失敗したけれど、最後の悪あがきでもう一度ノックしてみるが効果はない。唯は諦めて扉を開けた。
「あんたよくそんな態度で副社長になれたわね!」
扉を開けると、金髪の女性が千歳に詰め寄っていた。机の上をバンッ、と叩いたが千歳は視線すら向けずに仕事をしている。まるでそばに誰もいないかのように、仕事しか見えていないのか変わらない笑みを書類に向けていた。
唯は女性の背中しか見えないが、この状況に怖じ気づいていた。ひたすら「何これ怖い」と内心で呟く。シュールすぎる。
(千歳さんって女性を無視したりするんだ……)
それほど相手が非常識なことをしているのだろう。親しい仲、という風には見えない。
まさか仕事に集中しすぎて聞いていなかった、なんてことはないだろう。ないはずだ。
(私、ここにいても大丈夫なのかな)
部屋に入っても一方的な会話が止まらない。
「私があんたみたいな孤児を夫にしてやるって言ってるの! 一体何が不満なわけ!」
(孤児?)
勢いのまま出た暴言に、唯は思わず千歳を見た。
すると、千歳も顔を上げて唯をちらりと見つめる。ほんの一瞬だったが、申し訳なさそうな笑みを零す。その柔らかな雰囲気は視線を女性に向けた途端に霧散した。
「何度も言いますが、お断りします」
「何でよ!」
「これだけ騒いだんです、もう気は済んだでしょう」
どう見ても聞き流しているようにしか見えなかったが、千歳はもう一度唯に視線を移す。
「月野さん、警備員を呼んでください」
「は、はい」
「もういいわ、帰る!」
まるで千歳が悪いかのように大きな溜め息を吐くと、勢いよく振り返る。
彼女は唯を見るなり、ぎろりと睨んだ。思わず逃げたくなるほど苛烈な態度だったが、唯はどこかで彼女の顔を見たことがある気がした。
「あんたみたいな冴えない女より、私を秘書にした方がいいのに」
(わ、私も……!?)
唯はまさか自分にまで攻撃が向いてくるとは思わず、驚いて声も出なかった。
「すごい自信ですね」
ぽつりと呟いたのは、千歳だった。標準装備されていた笑顔は消え、突き放すような冷たさがあった。
「あなたのような事前に連絡もなしに会社を訪れ、言いたいことを叫ぶだけ叫ぶようなお子様が秘書になったら……周囲の人がとても苦労するでしょう」
哀れむように、そっと瞼を伏せる。けれどその瞳には温かさなどなく、軽蔑の色がありありと浮かんでいた。
「昨日と要求が違うのは、会社で何かあったのでは?」
「そういうのじゃないわよ!」
女性は息を荒げながら否定した。しかし、その顔は今までで一番余裕がない。悔しいと言わんばかりに、唇を歪めると逃げるように部屋を出て行った。
その姿を見て、唯は叫んでいた女性が千歳のお見合い相手だったことに気づく。髪の色や化粧が違ったので分からなかったが、事前に調べた性格も一致していた。
(やっぱり……本当に、そういう性格だったんだ……)
思わずもう一度、年齢を確認しそうになる。これでもう、次に来ることがなければいいのだが。
「月野さん、大丈夫ですか?」
お見合い相手だった東城亜由美がいなくなり、千歳は立ち上がる。怪我なんて一つもないのに、そばに寄るとじっと唯の顔を観察した。
「私ですか?」
「酷いことを言われたでしょう。……俺は、月野さんが秘書で良かったと思っていますからね」
「ありがとうございます」
千歳の秘書は大変だが、唯は彼に認められるともっと頑張ろうという気になる。そして、どんどん仕事にのめり込むのだ。具体的には秘書になったばかりで忙しかった頃、秘書検定を合格してしまうほど。唯自身もこんなのは単純だと分かっているが、乗せられて悪い気分にはならない。それどころか、ちょっと誇らしいと思っていた。
「私よりも副社長の方が酷いことを言われていましたよ。孤児だなんて……あんまりです」
「それは……まあ、事実ではあるので」
「え?」
「俺は久我家の養子なんです。社長は実子ですけど。だから、血の繋がった兄弟でもないんです。同い年だから、知っている人はだいたい知っていることなんですけど」
「あ……」
唯は千歳の年齢は知っていても、社長である達也の年齢は知らない。何となく、達也が年上で二人の年齢は近そうだなとしか思っていなかった。
言われてみれば、二人の容姿は血が繋がっているようには見えない。千歳が中性的な美男なら、達也は野性味溢れる格好良い男である。
「がっかりしましたか」
千歳はやや屈みながら、唯の様子を窺った。
彼のどこか不安そうな表情を見た唯は、胸がジリジリと痛む。
「何でがっかりするんですか」
言いたいことがどんどん頭の中で膨らんでいく。けれど、そのどれもが言えば千歳を責めるような口調になってしまいそうだった。
「えせ御曹司って言われるかと」
「えせって……」
まじまじと千歳の顔を観察するが、『えせ』なんて言葉は到底似合わなかった。むしろ実はどこかの国の王子なんですと言われた方が違和感がない。
「とにかく、俺は気にしてないので」
唯も気にしないで――とまでは言わなかったが、そういう意味だろう。
千歳は意地になっているわけでもなく、本当に気にしていない様子だった。
ならば唯も、聞かないことにした方がいい。過去のことで千歳が困っているわけではないし、千歳が聞いて欲しいと思っているわけでもない。話すことでもないのだ。
それでも、気にはなる。知りたいと思ってしまう。
(私が踏み込んでいい話じゃないよね……期間限定の恋人なんだから)
千歳はあっさりとした態度を取っているが、きっと重たい話なのだろう。そういう苦しいものを、平然と乗り越えてきたかのように見せている。
(私は秘書なのに、こんなことも知らなかったんだ)
隠しているわけではないと言っていた。なら、今まで達也よりも千歳の方が酷い態度を取る人間が多かったのはその辺も絡んでいるのだろうか。何度かしてきたお見合い相手の中には、亜由美のように馬鹿にする人もいたのだろうか。
唯はどんなに千歳のそばにいようと、蚊帳の外なのだと実感した。
休憩から帰ってきた唯は一体何事だろうかと、恐る恐る部屋の前に立った。社員の中で千歳相手に強い態度で出る女性に心当たりはない。かといって、今日は来客の予定もなかった。もちろん、知らないふりはできない。彼の秘書だからという理由はもちろんのこと、唯のデスクは副社長室にあった。どこかで時間を潰すという選択肢もあるが、この調子では無理矢理にでも追い出さなければずっと居座っていそうだ。
(こんなことなら、二人きりになるのが気まずいからって出なければ良かった……)
もっと気まずい思いをすることになってしまった。
唯はあえて、副社長室の扉をノックする。
普段はしないのだが、これで会話が止まってくれないだろうかと期待したのだ。
「だから……っ……で、……てよ!」
しかし、会話が止まる気配はない。副社長室は会話の内容が室外に聞こえないよう設計されているのだが、断片的に会話が聞こえるほど怒鳴っているのが分かる。作戦は失敗したけれど、最後の悪あがきでもう一度ノックしてみるが効果はない。唯は諦めて扉を開けた。
「あんたよくそんな態度で副社長になれたわね!」
扉を開けると、金髪の女性が千歳に詰め寄っていた。机の上をバンッ、と叩いたが千歳は視線すら向けずに仕事をしている。まるでそばに誰もいないかのように、仕事しか見えていないのか変わらない笑みを書類に向けていた。
唯は女性の背中しか見えないが、この状況に怖じ気づいていた。ひたすら「何これ怖い」と内心で呟く。シュールすぎる。
(千歳さんって女性を無視したりするんだ……)
それほど相手が非常識なことをしているのだろう。親しい仲、という風には見えない。
まさか仕事に集中しすぎて聞いていなかった、なんてことはないだろう。ないはずだ。
(私、ここにいても大丈夫なのかな)
部屋に入っても一方的な会話が止まらない。
「私があんたみたいな孤児を夫にしてやるって言ってるの! 一体何が不満なわけ!」
(孤児?)
勢いのまま出た暴言に、唯は思わず千歳を見た。
すると、千歳も顔を上げて唯をちらりと見つめる。ほんの一瞬だったが、申し訳なさそうな笑みを零す。その柔らかな雰囲気は視線を女性に向けた途端に霧散した。
「何度も言いますが、お断りします」
「何でよ!」
「これだけ騒いだんです、もう気は済んだでしょう」
どう見ても聞き流しているようにしか見えなかったが、千歳はもう一度唯に視線を移す。
「月野さん、警備員を呼んでください」
「は、はい」
「もういいわ、帰る!」
まるで千歳が悪いかのように大きな溜め息を吐くと、勢いよく振り返る。
彼女は唯を見るなり、ぎろりと睨んだ。思わず逃げたくなるほど苛烈な態度だったが、唯はどこかで彼女の顔を見たことがある気がした。
「あんたみたいな冴えない女より、私を秘書にした方がいいのに」
(わ、私も……!?)
唯はまさか自分にまで攻撃が向いてくるとは思わず、驚いて声も出なかった。
「すごい自信ですね」
ぽつりと呟いたのは、千歳だった。標準装備されていた笑顔は消え、突き放すような冷たさがあった。
「あなたのような事前に連絡もなしに会社を訪れ、言いたいことを叫ぶだけ叫ぶようなお子様が秘書になったら……周囲の人がとても苦労するでしょう」
哀れむように、そっと瞼を伏せる。けれどその瞳には温かさなどなく、軽蔑の色がありありと浮かんでいた。
「昨日と要求が違うのは、会社で何かあったのでは?」
「そういうのじゃないわよ!」
女性は息を荒げながら否定した。しかし、その顔は今までで一番余裕がない。悔しいと言わんばかりに、唇を歪めると逃げるように部屋を出て行った。
その姿を見て、唯は叫んでいた女性が千歳のお見合い相手だったことに気づく。髪の色や化粧が違ったので分からなかったが、事前に調べた性格も一致していた。
(やっぱり……本当に、そういう性格だったんだ……)
思わずもう一度、年齢を確認しそうになる。これでもう、次に来ることがなければいいのだが。
「月野さん、大丈夫ですか?」
お見合い相手だった東城亜由美がいなくなり、千歳は立ち上がる。怪我なんて一つもないのに、そばに寄るとじっと唯の顔を観察した。
「私ですか?」
「酷いことを言われたでしょう。……俺は、月野さんが秘書で良かったと思っていますからね」
「ありがとうございます」
千歳の秘書は大変だが、唯は彼に認められるともっと頑張ろうという気になる。そして、どんどん仕事にのめり込むのだ。具体的には秘書になったばかりで忙しかった頃、秘書検定を合格してしまうほど。唯自身もこんなのは単純だと分かっているが、乗せられて悪い気分にはならない。それどころか、ちょっと誇らしいと思っていた。
「私よりも副社長の方が酷いことを言われていましたよ。孤児だなんて……あんまりです」
「それは……まあ、事実ではあるので」
「え?」
「俺は久我家の養子なんです。社長は実子ですけど。だから、血の繋がった兄弟でもないんです。同い年だから、知っている人はだいたい知っていることなんですけど」
「あ……」
唯は千歳の年齢は知っていても、社長である達也の年齢は知らない。何となく、達也が年上で二人の年齢は近そうだなとしか思っていなかった。
言われてみれば、二人の容姿は血が繋がっているようには見えない。千歳が中性的な美男なら、達也は野性味溢れる格好良い男である。
「がっかりしましたか」
千歳はやや屈みながら、唯の様子を窺った。
彼のどこか不安そうな表情を見た唯は、胸がジリジリと痛む。
「何でがっかりするんですか」
言いたいことがどんどん頭の中で膨らんでいく。けれど、そのどれもが言えば千歳を責めるような口調になってしまいそうだった。
「えせ御曹司って言われるかと」
「えせって……」
まじまじと千歳の顔を観察するが、『えせ』なんて言葉は到底似合わなかった。むしろ実はどこかの国の王子なんですと言われた方が違和感がない。
「とにかく、俺は気にしてないので」
唯も気にしないで――とまでは言わなかったが、そういう意味だろう。
千歳は意地になっているわけでもなく、本当に気にしていない様子だった。
ならば唯も、聞かないことにした方がいい。過去のことで千歳が困っているわけではないし、千歳が聞いて欲しいと思っているわけでもない。話すことでもないのだ。
それでも、気にはなる。知りたいと思ってしまう。
(私が踏み込んでいい話じゃないよね……期間限定の恋人なんだから)
千歳はあっさりとした態度を取っているが、きっと重たい話なのだろう。そういう苦しいものを、平然と乗り越えてきたかのように見せている。
(私は秘書なのに、こんなことも知らなかったんだ)
隠しているわけではないと言っていた。なら、今まで達也よりも千歳の方が酷い態度を取る人間が多かったのはその辺も絡んでいるのだろうか。何度かしてきたお見合い相手の中には、亜由美のように馬鹿にする人もいたのだろうか。
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