初めてを失うまでの契約恋愛

佐倉響

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第3章 この人が欲しい

05

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「そろそろ、仕事は終わりそうですか」
「何かありました?」

 就業時間が終わる間際、千歳に声をかけられた唯は顔を上げる。珍しい。そう言わんばかりの顔を向けると、彼は苦笑した。

「そうではなくて……」

 千歳はさて、どう言おうかと迷うように視線を時計に移動し「今日は一緒に帰りませんか」と告げる。

「は、はい……」

 唯はやや放心状態で頷いた。
 千歳のマンションで生活するようになってから、彼は外出したまま直帰することが多かった。

(でも、わざわざ声をかけるなんてどうしたんだろう)

 そわそわしているようにも見える千歳のことが気になって、唯はいつもより素早く仕事を片付けた。




 会社を出ると、空は柔らかな茜色が一面に広がっている。もうすこしすれば、夜の色が混じって美しいグラデーションに変わるのだろう。
 唯はただ一緒に帰るだけだと思っていたが、千歳は会社を出てすこしすると唯の手を取る。緩く握られた手は、拒もうと思えばいつでも拒めるほどの強さだった。その手を握り返すべきか否か、唯は迷いながらも千歳の隣を歩く。

 彼は外だというのに、恋人に向ける表情を惜しげもなく披露していた。甘く蕩けるような笑みを唯に向けているせいで、千歳はいつもより女性から見られている。

(何だろう、これ……)

 視線がものすごく、痛い。嫉妬のようなものが唯に向かうことは少ないが、好奇の目が度々やってくる。以前であれば、隣を歩こうと芸能人のマネージャー程度にしか思われていなかっただろうに、手を繋いでいることと千歳の表情によって変化していた。
 もしも会社の人に見られていたらどうしようかと一抹の不安はあるが、千歳がうまいことフォローしてくれるだろう。してくれるはずだ。でないと困る。

(もうどうにでもなって……)

 千歳は楽しそうなので、唯はまあいいかと諦めることにする。
 どうせ唯から彼の手を拒むことなどできないのだから。
 これほど恋人らしい会社帰りをしているのに、千歳は寄り道もせず家に帰った。彼らしいと言えば、彼らしい。そんなことを唯が考えていると、千歳はマンションに入ってすぐ、唯の手を握ったまま抱きしめる。

「ただいま、唯」
「おかえりなさい……」

 一緒に帰ったのに、どうしてと思いつつ答えると千歳は満足そうに唯の額に口付けた。

(もうここまでする必要、ないはずでは……!)

 昨晩、唯は千歳を受け入れようとした。ならば、もう恋人らしい振る舞いはしなくてもいいはずだ。それでもするのは、この状況を楽しんでいるからだろうか。それとも、決めたことは徹底的に実行するからか。

「まだ夕飯まで、時間はありますよね」
「そうですね」
「今後のことを話しませんか」

 そう言って、千歳は唯を連れてソファーに座る。謎に手は繋いだままだ。歩き辛いわけではないが、繋ぐ必要もなかった。

(手を離すタイミングが分からない。……もういいか、このままで)

 やっていることがバカップルに近いが、千歳が恋人らしい雰囲気を出さない限り、二人の間に流れる空気はドライである。

「今度の休みの日、唯は予定がありますか?」
「ないです」
「ちょうど連休なので、唯がその気になるならやろうと思うんですけど……」
「も、もちろんです」
「何か希望はありますか?」
「――へ?」

 希望。
 希望とは……?
 思わず、首を傾げる。
 千歳の言った『やろうと思う』が唯の考えているものとは違うのではないかという疑惑が浮上する。

「初めてのセックスなんですから、どこでしたい……とか、そういうのがあれば」

 あっていた。
 ものすごくあっていた。
 聞かれた唯は、顔をうつ伏せて悶える。
 なんてことを聞いてくるのだ。

「希望とかそういうのはないです……」
「そうですか」

 千歳はちょっと残念そうに呟くと、それならと再び口を開いた。

「じゃあ連休は軽井沢にある別荘に行きましょうか」
「どうしてそうなるんですか」

 唯は普通に千歳の部屋でやって終わると思っていた。

「だって、こういうのは思い出に残る方がいいでしょう? 後から思い出しても嫌な気分にならないようにしたいんです」
「別荘に行かなくても、嫌な気分になったりしませんよ」
「でも、何の記憶にも残らない初めてって言うのも寂しくないですか。その時は何も思わなかったとしても、いつか唯の中で喪失感のようなものを感じる日が来るかもしれない」

 そこまでしなくてもいいと、否定することはできなかった。
 千歳の話す、いつか来るであろう感情は正しい。生きるためとはいえ、事務的に済ませてしまえば無自覚に自分を傷つける結果に終わるかもしれない。けれど、唯は選り好みできる状況でもない。

「千歳さんの負担にはなりませんか。別荘ってその……」
「大丈夫。俺が買った場所ですから。管理も頼んでいるし、時々一人でゆっくりしたい時に過ごしています。……そう言うと、あんまり特別な場所って感じでもないのかな。うーん、どこか貸し切って……」
「いえ、私には充分ですから! 別荘で! 別荘でお願いします!」
「じゃあ、一泊二日の旅行ですね。必要なものはだいたい別荘にあるので、唯は一応薬さえ持って行けば大丈夫だと思います。旅行の準備はしなくて大丈夫ですからね」
「もう決定したんですか」
「唯にどうしたいか希望があれば、その通りにしますよ」
「……いえ」

 二十七歳にもなってどんな初めてがいいかなんて、唯が千歳の前で語れるはずがなかった。とんでもない羞恥プレイである。そして伝えれば、千歳は喜んで実現しようとするだろう。ありがたい話ではあるが、羞恥で死ぬ。それも二回は確実に死ぬ。
 だから絶対に言えそうになかった。
 今までのように、抱きしめてキスをして、手を繋いでいてくれるならそれだけで充分だと――そんな乙女みたいなこと、言えるはずがない。

(千歳さんが初めての相手ってだけでも充分……贅沢だし、記憶に残らないとか絶対にないのに)

 毎晩、体の隅々まで愛していると言わんばかりに体をくっつけ愛撫しているのだ。事務的にことを済ませているとは到底思えない。これが記憶に残らないはずがなかった。
 なら、本番はあれ以上の記憶が待っているのだろうか。

(ああもう……どうにでもなって……)

 千歳がすると言ったのだから、別荘でするのだろう。
 それが終われば、このむせてしまうほど甘い恋人関係も終わるのだ。
 恋人になってから一週間も経っていない。案外、短かったと思いながら唯はまだ繋いだままの手を見つめる。

(そろそろ、夕飯の準備をしないといけないのに)

 離したくないと思っている。そんな自分がいることに、唯は不安になった。
 千歳の秘書になっても、彼は遠い存在だった。どんなに近くにいても、違う世界の人。何かの気まぐれによって、自分は秘書になっているだけで自分よりも有能な誰かが表れたら役目を終えるかもしれない。それでも必要とされる限りは頑張りたかった。秘書を辞めることになっても、今後のことで困らないくらいには自身の能力を磨いている。転職しても、うまくやっていけるだろう。

「唯」

 恋人に向けられるであろう声を聞くたび、脳が痺れそうになっていく。
 ゾクリとするほど優美で蠱惑的な笑みを向けられ、唯はどうして今まで平気だったのか分からなくなった。
 知らないうちに、何かが蓄積していた。それが何なのか、知ろうともしなかった。
 明日には、唯は処女を喪失する。もうすこしだと思ったら、気が抜けてしまったのか。

「すみません、……もうすこしで恋人関係も終わるのかと思うと名残惜しくて」

 千歳は繋いでいる手にそっと力を込める。

「そろそろ夕飯を作ろうと思うんですけど」
「はい」

 手がなかなか離れない。

「千歳さん……」

 それでも名前を呼べば、千歳は苦笑しながら手を離してくれた。
 どちらの方が名残惜しいと感じているのだろう。
 唯は繋いでいた手を胸に寄せて、逃げるようにキッチンに立った。
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