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第4章 終わりの日
05
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確かに効果はある。唯も最初は、道具に頼ろうと思った。
しかし、どうすればいいのか分からず、とりあえずそのまま挿入しようとして激しい痛みに襲われた。皮膚が裂けるような痛みに耐えられるはずがなく、それどころかトラウマになっていた。今思えば、まったく解しもせずに行った唯が無謀である。
「あ……あの、でも恋人って……」
「でも、唯は痛いのは嫌でしょう? 俺だと唯が止めて欲しい時に、止めることができないんです」
千歳に悪いところは何もなかった。
ないのに、唯は彼を責めてしまいそうになる。
「それに、俺と唯は仮の恋人です。本当の初めては、いつか好きな人ができた時のために取っておいてください」
どこまでも優しい言葉は、しかし今の唯には残酷だった。
うまく返事ができずにいると、千歳はコンドームを破り自分ではなくバイブにコンドームを被せる。ローションを含んだゴムは滑りが良さそうだった。唯の秘所も充分に潤っている。後は受け入れるだけだ。
「唯?」
「う……」
「足を閉じられると、挿れられないです」
泣きそうな気持ちで唯は千歳を見る。けれど、彼の方が寂しそうに眉を寄せていた。
「唯」
もう一度、名前を呼ぶ。今度はたしなめるような口調だった。
唯は肩を跳ねさせ、そして足をすこしだけ開く。
「そんなに怖がらなくても大丈夫です。唯のペースに合わせて進めますから」
彼女の中にある困惑を、千歳は知っている。だから先端を秘所に合わせるだけに留めた。
(どうして……)
千歳は初めては好きな人ができた時にと言っているが、そんなのは気休めだ。
彼は唯に初めてのことをたくさん教えてくれた。
女性として扱われる悦びも、体も心も守ってもらえる安心感も、恋人として優先してもらえる愉悦感も――全部、千歳が教えてくれたのに。
最後の最後で、拒まれる。
正確には、千歳は拒んではいない。
ただ、唯の希望を叶えようとしているだけだ。その気持ちが純粋かどうかは別として。
嫌なら言えばいいだけだった。
けれど、その言葉を言ってしまえば唯はもう感情が風化するなんて思えない。だから言わずにいたかった。
……それでも、言わないのならこのままバイブでことを済ませるのだろう。
「泣かないでください」
「泣いて……ない……です……」
「辛かったら、目も耳も塞いでください」
「嫌……嫌です」
「本当に俺だとだめなんです。困惑して当然ですよね。だけど俺は――」
唯の目尻に浮かんだ涙を、千歳は優しく拭う。それでも溢れ出す涙を、温かな目で見守った。
「――唯のことを愛しているから」
恋人になってから、千歳は言葉でそれを示したことはなかった。「可愛い」と言うことはあっても、「好き」とは言わない。「大切な恋人」と言うことはあっても「愛している」は言わなかったのに。
「それなら、こんなことしなくてもいいじゃないですか」
「唯の意思を尊重したいんです。だって、俺の気持ちは負担になるでしょう。分かっています。会社の重役で、久我の実子どころか養子なんて面倒ですから。わざわざ大変な身の上の俺を選ぶなんて、唯はしない。それは俺が一番よく分かっています」
唯を責める色は何もない。むしろ、申し訳なさそうな表情だった。
「選んでくれるなら、できる限り守りたいけれど、唯の心までは守りきれるなんて言えません」
それでも千歳は自身のことを自分勝手な男だと評価するだろう。
「だから、恋人期間が終わったら俺は唯への気持ちを諦めます」
このまま受け入れてしまえば、唯は元の日常を取り戻すことができる。それを千歳は約束してくれた。言ったことは守る人だ。ここまで潔く言うのであれば、抜け道を探すことはないだろう。
千歳は確かにずるい男だった。
けれど、今この瞬間では唯の方が最もずるいのだと思い知らされる。
一生を誓うつもりもないのに、好きな気持ちを抱えておいしいところだけを得ようとしているのだ。
最初から、千歳は綺麗な思い出だけを与えるつもりはなかった。
「そのかわり、いつかすこしだけ後悔して――」
そうすれば唯は甘い記憶と共に小さな痛みを思い出す。ただの優しい記憶より、その方がいつまでも唯の中に残るだろう。自分は気持ちを諦めると言いながら、唯には一生心の中に残そうとするしたたかさを彼女は責められなかった。
「ちとせ、さ……っ」
秘所に当てたバイブに力が込められる。唯は悲鳴を呑み込み、泣きながら両手でそれを拒んだ。
「唯」
それだけはだめだと唯の心が叫んでいた。
「こんなことされるくらいなら、知らない誰かに……」
いっそ、風俗を探して痛い思いをした方がと言いかけ唯は唇を閉じる。
(あ――)
それは千歳をこれ以上ないほど、傷つける言葉だった。
彼の笑みは抜け落ちて、今にも壊れてしまいそうだった。
「……どうしてそんな顔をするんですか。そんなに好きなら、千歳さんがすればいいじゃないですか」
「だって、唯は俺が手を伸ばしたら逃げてしまうから」
「逃げるって……」
「好意を伝えようとした途端、急いで恋人を作ったじゃないですか」
だからずっと隠していたのだ。直接的な言葉は言わず、恋人役を演じ続けた。
唯は千歳に好かれていると分かっていたら、絶対に断っているから。
けれど、今日まで自身の欲を表に出さずに恋人のふりをするなんて、普通できるだろうか。
今までどんな気持ちで唯に触れていたのだろう。
唯は想像すると、胸が苦しくて息が止まりそうになる。
ずっと、平気だと思っていた。
千歳は誰かに何を言われても、馬鹿にされても、穏やかなまま笑みを崩すことはなかった。
彼と平等な立ち位置の人なんて、片手で数えるくらいだ。唯はその中に入っているはずがないからと甘えていた。
知らないうちにどれほど傷つけたのだろう。
恋人ができたと話した時、千歳は笑顔で祝ってくれた。
千歳がお見合いをすると話した時、唯が頑張って調べようとすると、千歳はそんなに頑張らなくていいと笑っていた。
結婚する予定だと話した時、千歳はやっぱり笑顔で祝ってくれた。
結婚しても仕事は続けると話した時、千歳は嬉しそうで――
――それを思い出した唯は、心底後悔した。
千歳の隣に立つ未来なんて、一度だって考えなかった自分を。
「好き。好きです」
唯は秘書という立場に満足していた。それが壊れてしまうと思うと、怖くなって全力で逃げたのだ。
「千歳さんのことが好き」
声に出したら認めてしまうから、出したくなかった。
伝えたのはこれ以上、彼を傷つけたくなかったからだ。
「どんなに痛くても、千歳さんがいいです」
それくらいなら、いっそ自分が傷つく方がよっぽどいい。
だけど、それも勝手な気がした。
唯は掴んでいたバイブから手を離す。
「でも、千歳さんが楽になるなら」
好きだという感情を全部、唯の中に残してしまえばいい。
もうたくさん、守ってもらえたのだ。
「そのまま、押し込んでください」
許されなくていい。
一生、忘れることができないくらい、深く胸を抉って――
しかし、どうすればいいのか分からず、とりあえずそのまま挿入しようとして激しい痛みに襲われた。皮膚が裂けるような痛みに耐えられるはずがなく、それどころかトラウマになっていた。今思えば、まったく解しもせずに行った唯が無謀である。
「あ……あの、でも恋人って……」
「でも、唯は痛いのは嫌でしょう? 俺だと唯が止めて欲しい時に、止めることができないんです」
千歳に悪いところは何もなかった。
ないのに、唯は彼を責めてしまいそうになる。
「それに、俺と唯は仮の恋人です。本当の初めては、いつか好きな人ができた時のために取っておいてください」
どこまでも優しい言葉は、しかし今の唯には残酷だった。
うまく返事ができずにいると、千歳はコンドームを破り自分ではなくバイブにコンドームを被せる。ローションを含んだゴムは滑りが良さそうだった。唯の秘所も充分に潤っている。後は受け入れるだけだ。
「唯?」
「う……」
「足を閉じられると、挿れられないです」
泣きそうな気持ちで唯は千歳を見る。けれど、彼の方が寂しそうに眉を寄せていた。
「唯」
もう一度、名前を呼ぶ。今度はたしなめるような口調だった。
唯は肩を跳ねさせ、そして足をすこしだけ開く。
「そんなに怖がらなくても大丈夫です。唯のペースに合わせて進めますから」
彼女の中にある困惑を、千歳は知っている。だから先端を秘所に合わせるだけに留めた。
(どうして……)
千歳は初めては好きな人ができた時にと言っているが、そんなのは気休めだ。
彼は唯に初めてのことをたくさん教えてくれた。
女性として扱われる悦びも、体も心も守ってもらえる安心感も、恋人として優先してもらえる愉悦感も――全部、千歳が教えてくれたのに。
最後の最後で、拒まれる。
正確には、千歳は拒んではいない。
ただ、唯の希望を叶えようとしているだけだ。その気持ちが純粋かどうかは別として。
嫌なら言えばいいだけだった。
けれど、その言葉を言ってしまえば唯はもう感情が風化するなんて思えない。だから言わずにいたかった。
……それでも、言わないのならこのままバイブでことを済ませるのだろう。
「泣かないでください」
「泣いて……ない……です……」
「辛かったら、目も耳も塞いでください」
「嫌……嫌です」
「本当に俺だとだめなんです。困惑して当然ですよね。だけど俺は――」
唯の目尻に浮かんだ涙を、千歳は優しく拭う。それでも溢れ出す涙を、温かな目で見守った。
「――唯のことを愛しているから」
恋人になってから、千歳は言葉でそれを示したことはなかった。「可愛い」と言うことはあっても、「好き」とは言わない。「大切な恋人」と言うことはあっても「愛している」は言わなかったのに。
「それなら、こんなことしなくてもいいじゃないですか」
「唯の意思を尊重したいんです。だって、俺の気持ちは負担になるでしょう。分かっています。会社の重役で、久我の実子どころか養子なんて面倒ですから。わざわざ大変な身の上の俺を選ぶなんて、唯はしない。それは俺が一番よく分かっています」
唯を責める色は何もない。むしろ、申し訳なさそうな表情だった。
「選んでくれるなら、できる限り守りたいけれど、唯の心までは守りきれるなんて言えません」
それでも千歳は自身のことを自分勝手な男だと評価するだろう。
「だから、恋人期間が終わったら俺は唯への気持ちを諦めます」
このまま受け入れてしまえば、唯は元の日常を取り戻すことができる。それを千歳は約束してくれた。言ったことは守る人だ。ここまで潔く言うのであれば、抜け道を探すことはないだろう。
千歳は確かにずるい男だった。
けれど、今この瞬間では唯の方が最もずるいのだと思い知らされる。
一生を誓うつもりもないのに、好きな気持ちを抱えておいしいところだけを得ようとしているのだ。
最初から、千歳は綺麗な思い出だけを与えるつもりはなかった。
「そのかわり、いつかすこしだけ後悔して――」
そうすれば唯は甘い記憶と共に小さな痛みを思い出す。ただの優しい記憶より、その方がいつまでも唯の中に残るだろう。自分は気持ちを諦めると言いながら、唯には一生心の中に残そうとするしたたかさを彼女は責められなかった。
「ちとせ、さ……っ」
秘所に当てたバイブに力が込められる。唯は悲鳴を呑み込み、泣きながら両手でそれを拒んだ。
「唯」
それだけはだめだと唯の心が叫んでいた。
「こんなことされるくらいなら、知らない誰かに……」
いっそ、風俗を探して痛い思いをした方がと言いかけ唯は唇を閉じる。
(あ――)
それは千歳をこれ以上ないほど、傷つける言葉だった。
彼の笑みは抜け落ちて、今にも壊れてしまいそうだった。
「……どうしてそんな顔をするんですか。そんなに好きなら、千歳さんがすればいいじゃないですか」
「だって、唯は俺が手を伸ばしたら逃げてしまうから」
「逃げるって……」
「好意を伝えようとした途端、急いで恋人を作ったじゃないですか」
だからずっと隠していたのだ。直接的な言葉は言わず、恋人役を演じ続けた。
唯は千歳に好かれていると分かっていたら、絶対に断っているから。
けれど、今日まで自身の欲を表に出さずに恋人のふりをするなんて、普通できるだろうか。
今までどんな気持ちで唯に触れていたのだろう。
唯は想像すると、胸が苦しくて息が止まりそうになる。
ずっと、平気だと思っていた。
千歳は誰かに何を言われても、馬鹿にされても、穏やかなまま笑みを崩すことはなかった。
彼と平等な立ち位置の人なんて、片手で数えるくらいだ。唯はその中に入っているはずがないからと甘えていた。
知らないうちにどれほど傷つけたのだろう。
恋人ができたと話した時、千歳は笑顔で祝ってくれた。
千歳がお見合いをすると話した時、唯が頑張って調べようとすると、千歳はそんなに頑張らなくていいと笑っていた。
結婚する予定だと話した時、千歳はやっぱり笑顔で祝ってくれた。
結婚しても仕事は続けると話した時、千歳は嬉しそうで――
――それを思い出した唯は、心底後悔した。
千歳の隣に立つ未来なんて、一度だって考えなかった自分を。
「好き。好きです」
唯は秘書という立場に満足していた。それが壊れてしまうと思うと、怖くなって全力で逃げたのだ。
「千歳さんのことが好き」
声に出したら認めてしまうから、出したくなかった。
伝えたのはこれ以上、彼を傷つけたくなかったからだ。
「どんなに痛くても、千歳さんがいいです」
それくらいなら、いっそ自分が傷つく方がよっぽどいい。
だけど、それも勝手な気がした。
唯は掴んでいたバイブから手を離す。
「でも、千歳さんが楽になるなら」
好きだという感情を全部、唯の中に残してしまえばいい。
もうたくさん、守ってもらえたのだ。
「そのまま、押し込んでください」
許されなくていい。
一生、忘れることができないくらい、深く胸を抉って――
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